第8話

 タラサはしばらくの間、コウノトリが調達してくるものを食べて生活していた。脱走直後より幾分健康的な身体になったタラサは岬に立ち、海を眺めていた。海水に映る像がコウノトリによって実物ではないことが証明され、そのおかげでタラサは鏡像を寂しそうに見つめることを止めた。

 遠くで魚が跳ねた。それは少しずつ岬に近づいてきて、タラサの前に顔を出した。彼女を浜辺に捨てたイルカの家族だった。

「懐かしいね。コウノトリに聞いたよ」

 タラサはしゃがみこみ、イルカの頬に優しく触れた。彼女は彼に助けられたことを知らない。ただ好奇心から触れてみただけだった。

「礼なら構わないさ。それより一緒に泳がないか? 子どもたちと遊んでやってくれ」

「お嬢さんは泳げないんだ」

 イルカの言葉がわからないタラサに代わり、コウノトリが答えた。

「なに? 馬鹿なことを。我々は海なしで生きていくことなんてできないというのに。子どもたちでさえすぐに泳いだものだよ」

「君たちと一緒にするな。人間は海に入らなくても生きていけるのさ」

 コウノトリは肩をすくめ、種族の違いを考慮しないイルカに呆れていた。子イルカはタラサの腕をくわえ、彼女を海に引きずり込もうとした。タラサはそれに抵抗し、海に落ちまいと踏ん張った。しかし、子イルカたちのほうが力強く、この人間は綱引き遊びがしたいのだ、という勘違いのせいで、彼女が抵抗すればするほど子イルカたちはタラサの手を引く力を強めていった。

「よさないか、坊主ども!」

 コウノトリが羽を広げて威嚇すると、驚いた子イルカはタラサを放して父親の陰に隠れた。タラサは急に放されたせいで尻もちをついた。そのうえ、広がったコウノトリの羽が彼女の顔を打った。タラサは目尻に涙を浮かべ、ぶつけられて赤くなった鼻を押さえながら、恨めしそうにコウノトリを見上げた。しかし、当の本人はそのことに気がついていなかった。

「大丈夫かい? お嬢さん」

コウノトリはまさか自分がタラサを泣かしたなどとは思ってもおらず、タラサのもとに駆け寄って心配し、子イルカを睨んだ。彼の勘違いを滑稽に思ったお父さんイルカが思わず噴きだして笑うと、子供たちは父を不思議そうに見つめた。こほん、とお父さんイルカは仕切り直すように咳払いした。

「お嬢さんは海が怖いのかい? では、慣れることから始めよう」

 お父さんイルカはタラサに背を向け、彼女が乗りやすい態勢をとった。海水に揺られる身体は波に合わせて上下し、落ち着きがない。

「私の背びれに掴まりたまえ。それなら溺れないだろう」

 その背中にコウノトリが飛び乗った。

「不安定な足場だ」

「君じゃない。私はお嬢さんに言ったんだ」

 お父さんイルカは身体を揺さぶってコウノトリをふり払い、海に落とした。

「うわあ、何をするんだ!」

 コウノトリはばしゃばしゃと水を掻くが、いくら彼が暴れても、体は沈んでいくばかりだった。タラサは目を見開いて苦しんでいるコウノトリの顔を見て、海の恐ろしさに立ち尽くしていた。コウノトリを哀れんだ子イルカたちが彼の尻を押してやると、正気づいたタラサはコウノトリを抱き上げるようにして陸に連れ戻した。

「君のせいでお嬢さんがますます怯えてしまったじゃないか」

 お父さんイルカはいまだに喘いでいるコウノトリを冷めた目で見やった。

「彼女は僕らの言葉がわからないんだ。だから、こうやって手本を示そうとしたのに、君というやつはなんでそんなにも察しが悪いんだ」

 コウノトリはそう言って、タラサの腕を軽くくわえた。彼がその腕を引いてイルカの背びれに触れさせると、タラサは両手で力強く背びれを持ち、振り落とされはしまいか、とびくびくしながら身体をイルカの背に預けた。

「少し痛いんだが、まあいい。行こうか」

 お父さんイルカはタラサが溺れないように水面近くを泳いだ。彼は尾びれを振って泳いだが、通ったあとには水しぶきひとつたてなかった。尾を水中から出さなかったからだ。タラサは静寂の中で自身の肉体が風を切る音や頬を撫でる空気、水を切る感触を覚えた。

「どうだい、お嬢さん。海は怖いものかい?」

 頭上を飛ぶコウノトリが鳴き声をあげると、それを耳にしたタラサは楽しそうに笑った。コウノトリは目を細め、愛情を込めた瞳でその笑顔を見守った。

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