第5話
タラサが目を覚ましたとき、皮膚の半分近くに精液がまとわりついていた。
「さあ、君は自由だ」
彼女を見下ろしていた門番はいやらしい笑みを浮かべ、そう言った。タラサは突然の解放に戸惑い、門番にわけを訊ねようとしたが、喉に異物感があってうまく声が出せなかった。これ以上この男たちの視線に晒されていたくない、と思ったタラサは彼らが燻らす紫煙のせいで視界が悪いなか、逃げるように扉まで這っていった。壁を支えにして立ち上がり、うまく呼吸ができずに意識を朦朧とさせながら、震える足腰でひょこひょこと歩きだした。彼女が外に出たとき、男たちの笑い声が聞こえた。
「俺はあのガキが連れ戻されるほうに銀貨二枚賭けてもいいね」
「俺は殺されるほうだな。脱走だぜ? いい見せしめになるだろう」
男たちは、翌朝に迎えるタラサの行く末で賭けごとをしていた。タラサの耳に届く限りでは、逃げ延びることに賭けた者はいないように思われた。
「いやあ、あいつは生き延びるだろうよ」
意外にも、そう言ったのはタラサの喉を絞めた異常性癖者だった。
「なんでまた」
「なんとなくさ」
仲間が半笑いで投げかけた問に対して、肩をすくめながらそう答えた男はポケットを探り、金貨を一枚取り出した。
「こいつを賭けてもいいね」
ほかの仲間は口笛を吹いたり、失笑したりして、この異常性癖者をからかった。
「お前、なんでそんな上等なもの持ってんだよ」
銀貨を出すことで精一杯な奴隷番は、自分たちが目にすることのできない金色の貨幣に見入っていた。
「今夜で奴隷番とはさよならなんだ。出世の祝い金としてもらったのさ」
男は金貨を指ではじき、弄んだ。五人の仲間たちは仲間の昇進を喜びながら、見せられた金貨を、いかにして自分のものにするかを画策した。
奴隷番たちの大声に怯えたタラサは転がるように階段を降り、倉庫から出た。しかし、彼女はどこに行けば人に見つからないのかがわからなかった。これ以上西に進んでも逃げられる場所があるのかはわからない。彼女が選べたのは、歩いた道を戻ることだけだった。
城壁をつたって東側に向かい、焼却炉の前にきた。そこには木箱があり、タラサはひとつの思いつきを実行するため、それを踏み台にして焼却炉のうえに乗った。煙突をよじ登ると城壁に手が届き、飛び移ることができた。タラサは城壁の上に立ち、壁の向こう側を見下ろした。
そこには海があった。むき出しの岩に波が打ちつけており、剣山のようにそびえたっていた。飛び降りれば死ぬだろうことを理解させるには十分な光景だった。
(けれど、門番に鞭を打たれて死ぬくらいなら、海の中で死にたい。美しい海の一部になれるのならば、死ぬことだって怖くない)
見守ってくれる月がいない夜、タラサは城壁から身を投げ、海に落ちた。
城壁から飛び降りたとき、すでに気を失っていたタラサはもがくこともできず、海に沈んでいった。ある程度まで沈むとじょじょに浮かび上がり、それからはただ力なく海面を浮遊した。
そこに、タラサの落下音に驚いたイルカの家族がようすを見にきた。
「あらまあ、人間が落ちてくるなんて珍しい」
「ぴくりともしないな。死んでるのか?」
子イルカたちがタラサの身体をつつくたび、彼女の体にまとわりついていた精液が剥がれ落ちていった。ゆらゆらとクラゲのように漂うそれを、群がる小魚たちが餌にした。
「鱗が落ちた!」
「違うよ、粘膜だよ」
子イルカたちは面白がり、ますますタラサをつつきまわした。精液が弟イルカの鼻先について取れなくなり、兄イルカは慌てる弟を見て笑った。
「やめないか、お前たち。人間に鱗なんてないよ」
お父さんイルカはタラサの腕をくわえ、子どもたちが悪戯しないように取り上げた。心配そうな表情のお母さんイルカがお父さんイルカのそばに寄り、子どもたちを不安がらせないためにこっそり耳打ちした。
「あなた、こんなところに死体なんて放っておいたら、においを嗅ぎつけたサメがやってきてしまうわ。嫌よ、私。サメたちは粗暴なんですもの」
「それならば、どこかの浜に捨ててこよう。奴らも打ち上げられたものまで食べに来こないだろう」
お父さんイルカは妻に見送られ、タラサをくわえて自身のテリトリーから離れた浜辺に向かった。その間、子イルカたちは泳ぎながらタラサをつついて遊び続けていた。
「また剥がれた! 今度は茶色い。鱗だ!」
「違うよ、粘膜だよ」
「こんな粘り気のない粘膜なんてあるもんか」
子イルカたちがつつくたび、タラサの身体についていた垢が落ちていった。すべての垢が落ちて少女の白い柔肌が露わになったとき、お父さんイルカはタラサを離した。
「さあお前たち、これ以上はいけないよ。陸に乗りあげたら戻ってこられなくなるからね。去年の暮、伯父さんがひどい目に遭ったのを覚えているだろう?」
お父さんイルカがそう言うと、子イルカたちは冒険家として名を馳せていた大伯父のひどい姿を思い出し、がくがくと震えあがり、危うく溺れそうになった。
「ぼく、あんなふうになりたくないよ」
「早く帰ろう、パパ」
お父さんイルカは慌てたようすの子どもたちを見て、からからと笑った。あまりにも大口を開けて笑ったものだから、口に海水が入って咳き込んだ。
「大丈夫さ。パパの言うことさえ聞いていればね」
不安そうだった子イルカたちは父の頼もしさに目を輝かせ、うなずいた。イルカたちは住処に向かって泳ぎだした。タラサはというと、波に押されてひとりでに陸に近づいていった。やがて砂浜に乗り上げ、一晩が経った。
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