第2話
少女は奴隷たちにタラサと名付けられ、栄養不足のなかでもすくすくと育っていった。風呂に入れず髪はぼさぼさで、肌は垢にまみれて浅黒かった。歯磨きの習慣がないせいで口は臭かったが、それはまわりの奴隷たちも同じことであり、特に気にする者はいなかった。
タラサは地下室から出たことがなかったので、外の世界を知らなかった。しかし、他国から連れてこられた奴隷たちの話を聞いていたこともあって、ある程度の知識はあった。そして、その話を基にして、外の世界に想いを馳せることが彼女の楽しみだった。
ある奴隷は配給された水が入ったコップをタラサの前に置き、それを指差して話を始めた。
「このコップにある水はすぐになくなってしまうでしょう? けれどね、外の世界にある海というものは違うの。それはこのコップには収まりきらないほどの水があるのよ。そうね、この地下室を海の水で満たしたとしても、まだ溢れるくらい」
「世界中の人がその水を飲んだとしたら、どれくらいで飲めるの?」
「そうねえ。きっと、一〇〇年かかっても無理ね」
「まあ! そんなにもたくさん水が」
「いいえ、とてもしょっぱいからなのよ。飲めないくらいしょっぱいの」
タラサにとって海は豊かさの象徴となり、憧れの対象になった。いつだって彼女の空想の中には海がある。
鳥を知らないタラサが想像しやすいよう、一人の奴隷は壁を削って絵を描いた。
「海にはカモメがいるのよ。こんな姿をしていて、私たちやネズミとは全く違う生き物。空を自由に飛んでくの」
「じゃあ、カモメさんはいろんな国を旅してるのね」
「いいえ、季節が変わらない限り、たいした移動はしないのよ」
タラサにとって、鳥はすべてカモメになった。
一人の奴隷は天井にぶら下がっている灯りを指差した。
「外の世界には太陽があるの。太陽はこの灯りのように、世界中を照らしているの」
「なら、外の世界は暗くて怖いところがないのね」
「いいえ、一日の半分は太陽がなくて、世界中が真っ暗なのよ。それが夜」
「夜になると、何も見えなくなってしまうの? きっと、みんな怖くて震えているわ」
「いいえ、夜になると月や星が見守ってくれるのよ」
「わたしのことも?」
「ええ。あなたのことも、ちゃんとね」
タラサにとってはどれも魅力的で、想像力を刺激した。みんなは年端もいかぬタラサをたいそう可愛がり、彼女を喜ばせるためにこぞって絵を描いて話を聞かせた。
しかし、タラサが初潮を迎えたころから、奴隷たちは話の種を切らせていた。彼女たちは外で遊んでいた時間より、奴隷として働かされている時間のほうが長くなってしまったのだから、それも当然のことだ。みんながタラサに聞かせようとした話はすべて、彼女たちにとって特別だった出来事だった。しかし、タラサが聴きたい話は自分が経験できない、ごくありふれた日常のことだった。
ティーカップで飲む紅茶の味、焼いたトースト、窓を開けたときに吹き込んでくる風の香り。ほかの奴隷たちにとってはかつて当たり前過ぎたことだったので、誰もタラサに話すことはなかった。
そのためタラサは、特別な経験は何もしていないけれど、タラサが知りたい、ごくありふれた日常についてよく知っていた老婆の話を熱心に聴いた。この老婆はタラサの名付け親であり、奴隷たちの中でもっともタラサに懐かれていた。
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