人魚姫と呼ばれたその日から

音水薫

第1話

 ある国に二人の王子がいた。兄は優れた頭脳を持ち、弟は優れた容姿と歌声を持っていた。

息子たちを立派な人間にしてやりたい。そう思った国王は二人にそれぞれ家庭教師を雇った。兄を各々の分野で国を代表する優秀な人間たちのもとで勉強させ、弟には成人したばかりの女を雇い、歌や芸術を学ばせた。

 兄はその優秀さから、次期国王にふさわしい人材として国じゅうの期待を一身に集めた。弟は国民の前に姿を現すだけで黄色い声を浴び、彼が祭りごとで歌を披露すると、国民だけでなく鳥や動物たちまでもがその声に聴き惚れた。歳を重ねて社交界デビューを果たせばたちまち人気者になって、毎晩、貴族の娘たちに引っ張りだこにされるだろう、と城じゅうの召使たちは弟の美しさを褒め称えた。

そしてなにより、召使たちが弟を気に入っている理由は彼の性格にあった。身分にかかわらず人に優しく接する弟の姿には、旧来の王族が持ち合わせていなかった類の高潔さが感じられた。

しかし、それは兄のように優れた頭脳を持ち合わせていないことによる劣等感から生じたものであり、足りないものを他のもので埋め合わせしようとする努力の賜物だった。ゆえに、天使のようだ、とあたかも善性を生まれ持っていたかのように言われるたび、弟の心はわずかに締めつけられるような痛みを覚えていた。

そんな彼の努力を快く思わない者がいた。彼の家庭教師だ。女は年相応の無邪気さや無垢さを肯定し、彼の年不相応な物腰柔らかな態度や創られた善性をよしとしなかった。わずかしかない子どもの時間を無駄に使ってほしくないと思っていたのだ。それは彼を思ってのことではなく、幼い男の子しか愛せない女の都合だった。

「いまからそんな生き方をしていては息苦しいでしょう。もっと思うままに生きてください」

「いいえ。それでは、僕は一生兄に劣等感を抱いて生きていくことになってしまう。僕は兄を愛しています。けれど、兄の陰に隠れて生きていくのは嫌なのです」

 女の説得も空しく、年端もいかぬ甘えたい盛りのはずの王子は人と接するとき、まるで聖人のように振る舞った。

しかし、それで諦める女ではなかった。彼女は、せめて自分と二人きりのときだけは幼いままでいてもらおうと、いままで以上に王子を甘やかした。見目麗しい彼の容姿だけに嬌声をあげる輩と違い、女が本当の意味で王子を愛しはじめると、それを理解した彼もまた、少しずつその愛に応えるようになった。家庭教師が王子の話を楽しそうに聴くと、王子は彼女の笑顔見たさにいっそう饒舌になり、家族にさえ見せぬ屈託のない笑みを浮かべた。

二人はときたま城下町に出ることがあった。そのとき王子は変装を余儀なくされたが、女と同じように質素な服装に身を包むことを嬉しく思っていた。自分には派手に飾られたものよりも、庶民的なもののほうが良い、と。

外に出た二人は、町民の憩いの場である広場で絵を描いた。女をモデルにすることもあれば、道行く人たちを含めた風景をカンバスに写すこともあった。そのあいだに交わされる言葉は少なかったが、それでも互いに思い合っていることは同じであった。

ところが数年経ったある日、女は無視できない問題に気がついてしまった。王子の身体に「男」を感じ始めたのだった。最初は彼の汗から雄のにおいを嗅ぎとり、次に、骨張りつつある肉体に気がついた。そろそろ潮時かもしれない。幼子しか愛せない女は考えた。今の王子に別れを告げ、幼子を持つ貴族に雇ってもらおうか、と。しかし、それと同時に、王子ならば大丈夫かもしれないという思いもあった。彼女が葛藤しているうちに、王子の誕生日がやってきた。

盛大に開かれたパーティのあと、王子と女は同じ寝室にいた。女はそこで、自分の愛を確かめるつもりだった。彼女は王子をベッドの上に押し倒し、覆いかぶさった。いまだ社交界デビューは遠く、女よりも背の低い王子は抵抗できず、か細い声を出すだけだった。

「痛いよ、先生」

「お兄様より先に、大人になりたいとは御思いになりませんか?」

 彼にとって、兄に先んじるということはとても魅力的だった。王子は小さくうなずき、女に身体を預けて目を閉じた。女は彼の衣服を剥ぎとり、いまだ幼さの残った性器を見て安心すると、躊躇うことなくそれを口に含んだ。王子は未知の快感に戸惑い、ベッドのシーツをつかんで声が出そうになるのを我慢していたが、やがて耐えがたい大きな快楽の波に襲われ、女の名を呼びながら絶頂に達した。この夜で精通を果たした王子の射精量はさほど多くはなかった。女は王子に見せつけるようにして、彼の子種を飲み下して微笑んだ。

 立ち上がった女が一糸まとわぬ姿になると、王子はその裸体から目が離せなくなった。彼がその傷ひとつない柔肌に触れたとき、女は突然吐き気に襲われ、口を押さえてうずくまった。心配した王子が彼女の背中をさすってやると、女は破けんばかりに喉を膨らませ、胃からせりあがってきたものを吐きだした。

 それは、片手で抱きかかえられるような大きさの赤子だった。

 生まれたばかりの美しい女の子は元気な産声をあげた。王子は自分が父親になったという実感こそなかったものの、泣いている我が子を抱きあげ、額にキスしてあやしてやった。

 そこに、騒ぎを聞きつけた召使がやってきて、女の出産が瞬く間に城じゅうに広まってしまった。もちろん、その噂は国王と女王の耳にも届いた。

 数日もしないうちに女は女王に呼びつけられ、玉座に座る国王たちの前に跪いていた。

「婚前交渉など不潔極まりない。相手はいったい誰なのですか」

 まさか王子との子であるなどとは思ってもいない女王は女を問い詰め、相手を確かめようとした。しかし、王子と自身の身を案じた女は黙秘を続けた。

「よろしい。答えたくないというのならば、ここから出て行ってもらうだけです。我が子の近くに貴女のような売春婦を置いてはおけません」

「どうかそれだけはお許しを。身寄りのいない私にはここしか居場所がないのです」

 女王は泣いて懇願する女を無視し、兵士に彼女を追いだすように命じた。

「彼女に乱暴なことをするのはやめなさい」

 兵士が女を引きずって玉座の間から追い出そうとしたとき、王子が兵士の前に立ちはだかった。彼の腕の中には女の子が抱きかかえられており、王子は女に娘を預けてから女王のもとに歩み寄った。

「父上、母上。この娘の父親は僕なのです」

 王子はそう言って、パーティの夜に起きた出来事を話し始めた。国王は女に抱かれて安らかに眠る孫娘の顔を見やり、二人の仲を認めてやろうとした。しかし、話を聞いた女王は激昂して床を踏み鳴らし、二人の仲どころか、孫娘の存在すら認めなかった。

「口から子を産むなど人間のすることではありません。この魔女、化け物め!」

 女王は側近の兵士に命じて王子を部屋に軟禁させ、女と孫を牢獄に入れさせた。これは一時的な処置であり、彼らをどう扱うかは今後の女王にかかっていた。

「容姿ばかりがよくて知恵のない王子など、領地を広げるための道具にすぎません。政略結婚の相手が決まるまで、どこかに幽閉しておきなさい」

 王子は国外追放され、遠くの大陸に属する孤島の屋敷に連れていかれた。

「この魔女を生かしておけば、きっと我が国に災いをもたらすでしょう。そして、それはこの娘も同様です。しょせん、化け物の子は化け物」

 なにより、未婚の王子が子持ちなどと知られてしまえば、王族の品位に傷がつく。女王の命令により、女と赤子は処刑されることになった。正統な王族の血を引かない、いわゆる婿養子である国王は女王に逆らうだけの力はなかった。しかし、それでも彼は孫娘が処刑される姿を見たくなかった。

「せめて、地下室に入れて、奴隷として生かしてやってはもらえないだろうか。化物の娘とはいえ、私たちの孫なのだ」

 愛する夫に嫌われたくなかった女王は彼の案を渋々認め、孫娘を地下室の奴隷たちに育てさせた。

 それから、女王は女の衣服を奪い取って拘束し、街中を歩き回らせた。下卑た目で女を見る町人たちから石を投げられ、頭から血を流した女が最後に辿りついた場所、それは王子との思い出が最も詰まっていた広場だった。彼女はそこについた途端、決して見せまいとしていた涙を流し、処刑台に続く階段を登った。

火あぶりの刑に処せられた女が焼かれながら呟いた言葉は呪詛などではなく、我が子と王子の幸せを願うものだった。それを聞いた町人は、果たして彼女は本当に魔女だったのだろうか、と疑問に思った。しかし、それを口にするものは誰もいなかった。

女の死を最も間近で見ていた家臣たちは王子を哀れに思い、彼の愛しい人たちがどんなひどい目に遭ったかを話すことはしまい、と心に固く誓った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る