よく晴れた二十六日目

 眠い。私はあくびをして、ため息をひとつついてから、トーストにバターを塗る。宿題はなんとか終わらせた。いつもの時間に起きることができたのは奇跡かも知れない。だとしたら奇跡の無駄遣いをしてしまった。

 トーストにマーマレードを塗りながら、テレビをなんとなく見る。若作りをした天気予報士のおじさんがなぜか砂浜で天気予報をしている。風がすごい。天気予報士のおじさんが髪がすごく乱れている。とても寒そうだ。

 昨日、アサミが海に行きたいと言っていたことを思い出す。だけど、やっぱりなんでわざわざこんな寒そうなところに行きたいのかわからない。冬の海が好きなのだろうか。やっぱり冬には冬のいいところが海にもあるのだろうか。

 どうやら波の花というもののリポートをしているらしい。波打ち際に石鹸の泡みたいなものがもわもわと溜まっている。多分、あれが波の花なのだろう。あまり綺麗には見えない。これが冬の海のいいところだとはいまいち思えない。実際に見れば違うのだろうか。

 風が吹いて、波の花が空に舞い上がっている。それを興奮した様子で天気予報士のおじさんがリポートしている。別にそんなの見たくない。ただ寒そうなだけだ。早く天気予報をして欲しい。だけど、天気予報をしてくれない。テレビの隅に小さく映っている天気は晴れのち曇りだけど、都道府県ごとのざっくりとしたやつだとあまりにアテにならない。

 私はチャンネルを変える。だけど、どこのチャンネルも天気予報をしていない。私は諦めてテレビを消して、トーストを食べる。


 学校に行くには外に出なかればならない。そのために靴を履かなければならない。だから、私はよれよれのローファーにぐりぐりと足を突っ込む。

 入学前に買って、最初は靴べらを使って丁寧に履いていた。だけど、今ではすっかり雑になって、適当に足を突っ込むだけ。おかげで踵が大分傷んできた。このローファーとの付き合いもそろそろ一年になる。買い替え時だろうか。

 考えてみれば当たり前だけど、まだ高校生になって一年も経っていない。なにか妙な気持ちだった。もう何年も高校生だったような気もするし、ついこの前、高校生になったような気もする。

 靴を履き終えたから、もう行くしかない。行きたくない。身体が重い。眠い。まだ家なのに、もう帰りたい気分だった。でも、行かないわけにも行かない。行かない理由がない。私も風邪が引きたい気分。だけど、アサミの風邪がうつった気配もない。

 外に出る。寒い。だけど、いい天気だ。雪もすっかり止んでいる。暖かくなるかもしれない。この調子なら積もった雪もきっと解けるだろう。

 玄関先でぼーっと空を眺めていると、いつの間には隣に人影。

 お姉ちゃんだ。

 私の隣に並んでお姉ちゃんも空を見上げる。

「いい天気」

「そうだね」

「お姉ちゃん。今日はバイト?」

「夕方から」

「そっか」

「来る?」

「……わかんない」

 多分行かないと思う。なんとなくそんな気がする。

「そう」

「うん」

 ふたりでただ空を見る。雲は少しあるけれど、冬の澄んだ青い空。昨日、煙草を見つけたせいか禁煙を始めた日を思い出す。あの日も今日みたいにいい天気だった。そういえば、あの日もアサミは海に行きたいと言っていた。

「お姉ちゃん。冬に海って行ったことある?」

「ない」

「だよね」

 そうだとは思った。お姉ちゃんがわざわざ寒い冬の海に行くとは思えない。でも、お姉ちゃんはきっと冬の海が似合うと思う。夏より多分似合う。というか夏があまり似合わない。

「冬の海ってなにが良いのかな?」

 行ったことがないお姉ちゃんに聞くのもどうかと思うけれど、なんとなく昨日から冬の海が気になる。

 お姉ちゃんはなにも言わない。ひょっとして困らせてしまっただろうか。お姉ちゃんだって行ったことがないのだ。答えられるわけがない。

 私は心配になってお姉ちゃんの横顔をそっと覗き見る。その横顔はいつも通りの無表情で、ただ空を見ているようにしか見えない。もっとよく顔が見えればお姉ちゃんが考えていることも分かるかも知れないけれど、横顔だけだとよく分からない。

「人が少ない」

「え?」

 いきなりだったから、聞こえてはいたけれど、思わず聞き返してしまう。

「人が少ない」

 お姉ちゃんは今度は私を見て、同じ言葉をもう一度言ってくれる。

「冬の海のいいところ?」

 お姉ちゃんは無表情のまま静かにうなずく。

「景色がキレイ。多分」

「あー。夏より空気が澄んでるから?」

 お姉ちゃんはまた静かにうなずく。

 あの沈黙は冬の海の良いところを考えてくれていたのだ。

「そっか。ありがと。お姉ちゃん」

 お姉ちゃんはまたまた静かにうなずく。今度は少し微笑んでいる。 

「行くの?」

「海?」

 また頷くお姉ちゃん。

「……行かない」

 多分。

「車買ったとき」

 お姉ちゃんは駐車場に止めてある軽自動車を見る。

「一緒に行ったね」

「うん」

 お姉ちゃんが今乗っているダークグリーンの軽自動車を買ったとき、珍しくお姉ちゃんが私を誘ってくれた。一緒に海までドライブした。あれは春だった気がする。まだ私は中学生で、髪も黒かった。

「今日は暖かくなりそう」とお姉ちゃんは空を見ながら言う。

「そうなの?」

 天気予報で言っていたのだろうか。私は天気予報をちゃんと見ていないからわからない。

「そんな気がする」

 なんだそれ。

 私は空を見上る。まだ寒いし、吐く息も白い。だけど、空は青い。たしかにこれから暖かくなりそうだ。お姉ちゃんが言うのだから、そうなるのだろう。

 私は空を見るのやめて、お姉ちゃんを見る。お姉ちゃんの横顔。いつもの無表情なお姉ちゃん。

「そろそろ行くね」

 私は一歩踏み出す。動くと余計に寒い。肌がぴりっとする。

「いってらっしゃい」

 お姉ちゃんは無表情のまま言う。

「いってきます」

 私は笑顔で言う。お姉ちゃんはちょっとだけ微笑んだ。

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