二十日目に思うこと


『足元にご注意ください』

 そう書かれた看板がコンビニの入口に置かれている。

 看板の隣にある傘立てから自分の傘を取る。

 昨日から降り出した雪はまだ降っていた。昨日の私の願い通り、雪は薄っすらだけど、積もっていた。だけど、通学路は真っ白になってはいなかった。歩道も車道も汚れた雪があるだけで、きれいな雪はあまりない。灰色に少し白が混ざっても全体的には灰色のままだ。

 コンビニで買ったお昼ご飯を鞄に入れながら歩く。肩で挟んだ傘がズレる。

 不意に一軒の家が目に留まる。そこはピンクの椿が咲いている庭がある家。そっと庭を覗き込む。そこには雪化粧をしたピンクの椿が二輪咲いていた。

 また、咲いたんだ。

 それは今日初めて見るきれいな雪だった。これが見れただけでも雪が降った甲斐がある。

 今日はまだアサミとは会っていない。もう学校にいるのだろうか。今から来るのだろうか。この椿を見ただろうか。それとも今から見るのだろうか。こういうときに限って、アサミはいない。

 そうだ。写真を撮っておこう。そうすれば、アサミが見ていなくても見せることができる。放課後にはもう雪が解けているかも知れない。だから今のうちに撮っておこう。

 スマホを構える。ディスプレイには雪化粧をした椿の花。あとはシャッターを押すだけ。だけど、そこで手が止まる。

 勝手に他人の家の庭を撮っていいのだろうか。多分あんまりいいことではないと思う。でも、撮りたい。

 周りの様子を見てみる。誰もいない。この家の人も通行人もいないし、車だって走っていない。誰も見ていない。だから、勝手に写真を撮っても誰かに怒られることはない。だけど、やっぱり。ダメなものはダメな気がする。でも、やっぱり。どうしよう。

 そんなことを考えていると、玄関が開く音がして、家から誰か出てきた。その人にお願いして撮らせてもらえば、なんの問題もない。出てきたのは若い大学生くらいの女の人で、声をかけても怒られることも、恐いことにもならないと思う。

 写真撮らせてもらってもいいですか?

 そう一言聞くだけだ。こんなにきれいな花を咲かせることができる人なのだから、きっと許してくれると思う。

 だけど、声をかけることは出来なかった。お姉さんは私のほうに歩いてきて、そのまますれ違う。すれ違いざまにお姉さんは私のほうをちらりと見た。一瞬、目が合った気もしたけれど、声はかけられなかった。

 でも、まだ雪は降っている。天気予報ではやむのは夜だと言っていた。夕方にはまだ降っているだろう。だから、帰りにアサミと一緒に見ることができる。今慌てて撮らなくてもいい。

「また夕方来るね」

 椿にそう言って、私もその場を離れる。


『お大事に』

 それだけをアサミに送る。たったそれだけなのにすごく疲れた。まだ昼休みになったばかりなのに、もう帰りたい。

 教室に着いてもアサミの姿はなくて、それは授業は始まっても同じだった。

『風邪ひいたー』

 うさぎのスタンプ。

 うさぎは泣いていた。

 そのアサミからのメッセージに気付いたのは三時間目と四時間目の間だった。すぐに返事を送ることが出来なかった。なんて送ればいいのかよくわからなかった。

 すぐに既読になる。だけど、返事はない。スタンプも来ない。やっぱりほかのことを送ったほうがよかったのだろうか。

 四時間目の授業中、私はアサミにどう返事をしたらいいのか。そればかり考えていた。

 どのくらいの風邪なのか。熱は。食欲は。薬はちゃんと飲んだのか。病院には行ったのか。そもそもなんで風邪引いたのか。私がロンドンに誘ったせいなのか。雪の中、帰らせたからなのか。色々と聞きたいことはあったけど、結局送ったのはお大事にだけ。

 病人を質問攻めにするのは気が引けるし、私が心配していることの大半は、私が言ってもしょうがないことばかりだ。私にはなにも出来ない。

 アサミのことは心配だった。だけど、私が心配していると知るとアサミは私に心配をかけてしまったと思うかもしれない。私はアサミにそんなことを思って欲しくなかった。だけど、心配してないと思われるのイヤだった。心配してくれないやつと思われたくなかった。だから、困った。どうしたらいいのかわからなくなった。授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。 

 既読をつけたのにいつまでも送らないわけにも行かない。いつもの他愛の話なら既読スルーもするけれど、今回は違う。だから、なにかは送らないといけなかった。そして、結局送れたのは『お大事に』だけ。

 じっとトーク画面を見つめる。アサミから返事はない。

 既読がひとつついただけで、不安な気持ちになる。既読にならなかったら、返事がなくても、スマホを見ていないから、休んで寝ているからと思える。だけど、既読がついただけでもうだめだ。普段は気にしない既読の文字がひどく重く感じる。

「漆原さん」

 声をかけられ、スマホから顔をあげると森さんがいた。隣には炭谷さん。いつもはお昼休みになるとすぐに学食に向かうのに、どうしたのだろう。

「和久井さん、お休みだね」

 森さんはアサミの机のほうを見ながら言う。

「風邪みたい」

「そうなんだ……」

「うん」

「あの、よかったらなんだけど、お昼。一緒にどうかな?」

「……今日はやめとく」

「そう……」

「せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」

「ううん。気にしないで。また今度一緒に食べようね」

「うん」

 森さんは炭谷さんに「おまたせ。ナッちゃんいこ」と行って教室の出口へ向かう。炭谷さんは私を一瞬見て、森さんに続く。

 森さんは教室から出ていく前に一度振り返る。目が合う。にこりと笑ってくれる。ごめんねを視線に込める。伝わったかはわからない。

 自分の席で朝に買ったコンビニの袋を取り出す。いつものゼリー飲料と野菜ジュース。十秒チャージではすぐに終わりすぎてしまうので、いつもよりゆっくりとゼリー飲料を握る。少しずつゼリーが口の中に入ってくる。それでもそんなに長い時間は持たない。

 教室はわいわいと騒がしかった。絶えず誰かがなにかを言っている。いつもこんなに騒々しかっただろうか。今日だけ特別だろうか。

 そう思って、教室を見回すけれど、いつも教室に残ってお昼を食べているクラスメイトと一緒だった。いないのは私の対面でいつもお弁当を食べているアサミだけだ。

 そもそもいつもは私もこの騒々しい昼休みの声の一部で、うるさいと文句を言える立場でもない。

 教室にひとりでいるのは多分私だけだ。

 森さんたちと一緒に学食へ行ったほうがよかっただろうか。アサミが休みで、私がひとりでお昼を食べることを思って、森さんは声をかけてくれた。それは少し驚いたかれど、嬉しかった。でも、断ってしまった。

 森さんたちと一緒にお昼を食べるのがイヤなわけじゃない。でも、それはなにか違う気がした。アサミが休みだから、森さんと炭谷さんと一緒にお昼を食べる。私と森さんと炭谷さん三人だけがいるテーブル。そのイメージが出来なかった。

 それでも、せっかく誘ってくれたのに悪いことしたな。とも思う。

 私は大きく息を吸ってゆっくりと吐いてから、野菜ジュースを飲む。

 それに今はこの騒々しさも別に嫌いではなかった。だから、イヤホンもせずに昼休みの声を聞きながら野菜ジュースを飲む。

 窓際の席からは外がよく見える。雪はもう止んでいて、雲間から日が差している。遠くには雪が積もった街。日が当たっている場所はキラキラと輝いている。雪は止んだ後のほうがきれいなのだろうか。

 視線を下ろすと、校庭の雪は土と混ざって茶色くなっていて、それはもう雪ではなく泥で、とてもじゃないがきれいとは言えなかった。

 野菜ジュースを啜る。ズズッという音がする。もう中身がない。

 スマホに通知は来ない。だけど、アサミとのトークを確認してしまう。私の『お大事に』で止まった画面。

 やっぱりもう少しなにか送ろう。

『ねつはだいじょうぶ?』

 消す。

『ごはんたべてる?』

 消す。

 なにかが違う。なにが違うのかはよくわからない。私はアサミのことを心配している。と思う。それを伝えるべきなのかはわからない。『お大事に』だけじゃいかにも冷たいというのもわかってはいる。

『椿がきれいだった』

 ちゃんと漢字にして、でもやっぱり消す。そうだった。一緒に送る写真がない。やっぱり朝に撮っておけばよかった。あとでいいやと後回しにして、結局、後悔するのはよくあることだった。

 気付いたらストローをずっと咥えていた。ストローには歯型がたくさんついていた。

 また外を見る。雲の隙間はさっきより大きくなっている。青空も見え始めていた。

 晴れてほしくないな。多分、生まれてはじめてそう思った。

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