長くなりそうな気がする二十五日目
後回しにすると後悔するのはよくあることで、それはよくわかっていた。椿の写真を撮るのを後回しにして後悔したのに、椿の写真がないからとアサミになにも送らず、後回しにして、やっぱり後悔している。
そもそもアサミの風邪がこんなに長引くなんて思ってもみなかった。
なにもしないでいるだけ、どんどんと気持ちだけは重くなって、時間だけが過ぎていく。椿の写真だって帰りに撮ればよかったのに、雪が解けていたから撮らなかった。
昨日も朝起きると雪は降っていたのに、土曜日で休みだったから、そのまま家でダラダラと過ごした。そのくせ、通知も来ていないのにトーク画面をしょっちゅう確認して、なにも送られてこないことに苛立つ。そんな自分にまた苛立つ。
だから、私は朝、雪が降っているのを確認するとすぐに家を出た。
日曜日なのに、学校は休みなのに、私はいつも通学路を歩き、あの椿が咲いている家の前まで来た。椿はまだ咲いていて、雪化粧もしている。なんとなくこの前よりきれいに見える。
あの椿がもし生垣だったりしたら、敷地の外で花が咲いていたら、私は勝手に写真を撮っていたかも知れない。それも本当はダメなことなのかも知れないけれど、多分撮っていた。だけど、あの椿は完全に庭の中にある。外からもよく見えるところに咲いてはいるけれど、やっぱり勝手に撮るのはよくないと思う。見つかって怒られるのも怖い。
だけど、許可を取るにはチャイムを鳴らす必要がある。だけど、その勇気もない。だから、私は近くのコンビニで買った缶コーヒーをチェスターコートのポケットに入れて手を温めながら、待っている。
カイロくらい持ってくればよかった。
椿の家とは道路を挟んで反対側の電柱の側に私はひとり立っている。
誰か出てこい。
出来れば、この前見たお姉さんがいい。おじさんは話かけづらい。
でも、仮に誰かが出てきたとしても、それがお姉さんだったとしても、私は声をかけることが出来るのだろうか。チャイムも鳴らせないのに、知らない人に声をかけるなんて出来るのか。でも、それはわからない。チャイムを鳴らせないのと、人に声をかけることが出来るかどうかは関係ない。それはそれ。これはこれ。そういうことにしておこう。
そう思って、待っているけれど、もう無理。だって寒い。雪も相変わらず降っている。風なんか吹くと最悪。頬がビリビリする。
そもそもこんな雪の中、日曜日だっていうのに出かけるだろうか。電車だって止まっているかも知れない。私なら今日はやめておこう。家で暖かくして過ごそうってなる。
缶コーヒーはもうすっかり冷えていて、缶を持っているのも辛い。もう一本欲しい。コンビニはすぐ近くあるのだから、買いに行けばいいのだけれど、その間に誰か出てきたらと思うと動けない。
大体、椿の写真だって別になくたっていい。ただ、私がアサミに送ればいいだけだ。そうしたらトーク画面は更新される。それだけの話だ。
送る内容だって、なんだっていい。『具合よくなった?』でも『月曜は来れる?』でもスタンプだけでもなんでもいい。
もう今送ってやる。今すぐに。なんで椿の写真を撮りに来るほうに思い切った朝の私。チャイム押すより、寒い中で立ち尽くすより、スタンプひとつ送るほうがよっぽど簡単だ。なんせ、タップひとつ。たったそれだけ。
よし。
私はスマホをポケットから取り出す。通知は来ていない。そんなことはどうでもいい。私は手袋を脱いでトークアプリのアイコンをタップする。私の手袋はタッチに対応していない。
画面を進んでいって、アサミとのトーク画面。そこまで指はスムーズに画面をタッチしていたのに、そこで指は止まる。なんでもいいって一番困る。そうよく聞くし、それはここ数日は実感に実感を重ねていたことだった。
なんでもいい。なんでもいいんだ。スタンプでもいい。でもどのスタンプを送るのか。それはどうやって選べばいいのか。
なにも送れないまま、指だけが冷たくなっていく。結局、いつも通り。なにかを送ろうとするけれど、そのなにかがわからないままだ。なんでもいいってなんなのだろう。はっきりしてほしい。何度同じことを考えて、送れないまま今日を迎えたと思っているのか。
もうため息をつくしかない。大げさに肩を落としてついてやる。
はぁ。……あ。
わざと大げさに肩を落とした拍子に、手からスマホが滑り落ちた。
スマホは音もなく雪の上に落ちた。
慌てて拾おうとした瞬間、私の目に飛び込んできたのは、この前も見かけた髪の長い大学生くらいのお姉さん。家から出てきたのではなく、今から家に帰るところらしい。私は思わず、スマホに伸ばした手を引っ込めて、お姉さんのところへ駆け寄る。
「あ、あの」
自分が思っていたより、百倍くらいスムーズに声をかけることが出来た。勢いって大事。
「……は、はい?」
お姉さんは驚いている。それはそうだ。
「つ、椿の写真撮ってもいいですか?」
庭に咲く椿を指さして、私は言う。もう少し他の言いようがあったような気もするけれど、言ったしまったものは仕方ない。
「椿?」
お姉さんはこの前見たときよりもなんというか、疲れていた。目の下に隈がある。寝ていないのだろうか。それにこの時間に帰ってくるということは、いわゆる朝帰りというやつなのでは。
「は、はい。とてもキレイで、その、友達に見せてあげたくて……」
「そうなんだ。どうぞ。好きなだけ撮っていいよ」
お姉さんは優しく微笑む。目の下に隈があっても、それは優しい微笑みに違いなかった。お姉ちゃんと同い年くらいに見えるけれど、その微笑みはお姉ちゃんからは感じない大人の魅力をまとっていた。こちらがほっとするようなそんな微笑みだった。それにすごい美人だ。大きな瞳に長いまつ毛。鼻筋にすっと通っている。いかにも美人だ。ただ、目の下には隈がある。
「ありがとうございます」
私は頭を下げてから、スマホを取り出す。正確には取り出そうとする。ない。スマホがない。デニムのポケットを押さえてみても、前にもお尻のポケットにもない。
「どうしたの?」
「いや、そのスマホをどこにしまったかなって」
「あれじゃなくて?」
お姉さんは電柱のほうを指さす。その指は少し下のほう指していて、その先には雪の上に落ちている私のスマホ。画面を下にして落ちていた。背面が白いこともあって、ほぼ雪と同化していた。
慌てて、スマホを拾いにいく。拾ってすぐに画面をつけてみる。いつもの待受画面。濡れているディスプレイを袖で拭く。アプリを起動してみたりしたけれど、どうやら壊れてはいないらしい。
「よかった……」
「壊れてない?」
お姉さんは後ろから、スマホを覗き込んでくる。
「はい。なんとか大丈夫みたいです……」
「よかったね」
「はい。ありがとうございます。その、よく気づきましたね。スマホ落ちてるの」
遠目から見ると雪と似たような色でほぼ見分けつかないと思う。
「んふふ。たまたまかな?」
さっきの微笑みとは少し違う。悪戯っぽい笑顔。
なんて返事をしたらいいのかよくわからないので、私も「あはは。たまたまですか」と言うしかなかった。
「そうそう。たまたまよ。たまたま歩いていたら落とすところ見ただけだから」
あ、見てたんですね。
「ところでずっとここで待ってたの? 勝手に撮ってよかったのに」
「あの、その、そうしようとも思ったんですけど、やっぱり悪いなと思って……」
「そう」
「……はい」
「家、誰もいなかった?」
「いや、その……」
チャイムが押す勇気がなかったんです。とは、さすがに恥ずかしくて言えなかった。
「私が来てすぐにお姉さんが帰ってこられたので……」
チャイム押す勇気がないこともそうだけど、家の前でずっと誰か出てくるのを待っていたなんてことも言えるわけがなかった。
「そうなんだ。私、ナイスタイミングだったね。いえい」
お姉さんはさっきの悪戯っぽい笑顔にピースサイン。こういうのも様になってしまうので美人は得だなと思う。
「はい。ナイスタイミングでした……」
なんとなく嫌な予感がして、私は苦笑いで応えるのが精一杯だった。
「ありがとうございました」
私はお姉さんに頭を下げる。何枚か椿を撮って、多分良いのが撮れたと思う。横でお姉さんからいいねー! とかナイスショ! とか色々アドバイスをしてもらったので、判断能力がなくなっただけな気がしないでもないけど、気にしないことにする。
撮れたことには変わりはないし、少なくともピンボケしているわけでもない。
「いえいえ。お友達喜んでくれるといいね」
「……はい」
アサミは喜んでくれるだろうか。そもそも、私はこの椿をきっかけとして利用しようとしているだけで、アサミが見てどう思うかはわからない。
それに早く家に帰りたい。なんかどっと疲れた。
「ん?」
お姉さんは怪訝そうに首をかしげる。顔に出ていたのだろうか。お姉さんは「なるほどなるほど」などと言いながらひとり頷いている。
「こういうとき大人なら、なんかいい感じのことを言うのかも知らないけど」
いきなりなにを言っているのだろうか。
「あいにく、私も大人になって日が浅いから大したことは言えないの。でもひとつだけ」
「はあ」
「あ、いや、あなたとお友達になにがあったかは知らないよ。だから全然見当違いかもしれないけどね。ひとつだけ。ひとつだけいい?」
「あ、はい」
「ありがとう。では。うおっほん」
お姉さんは咳払いをひとつすると、そこから、えっとね。そのね。あれなの。あれ。うん。そう。あれなんだけ。そうです。あれなんです。とずっとあれとかそれとか言うばかり。私はそれを黙って聞いている。きっと、なんにも考えてなかったのだろう。
「ちょ、ちょっとまってね」
「はい」
寒い。もう帰りたい。
「私ね。寝てないから。頭がね。回ってないの。いつもはね。結構すっと出てくるんだけど。寝てないから。全然寝てないから。一睡もしてないから」
いや。聞いてません。
「うーむ。むむむ」
お姉さんは目を閉じて、こめかみを人差し指でぐりぐりと押しながら唸っている。そして、カッと目を見開いた。
「あ。きた。きたきた。きました。ぴったりなやつ。貴方にぴったりな贈る言葉。これしかないってやつ。いい? いってもいい?」
「あ、はい」
「ぐっどらっく!」
お姉さんは目の下に隈があるドヤ顔でビシッとサムズアップを決める。なんで英語なんだろう。
「じゃあ。私、帰るね。眠たくて死にそうなの」
お姉さんは満足したのだろう。優しい微笑みも今は痛々しい。脳みそは多分だいぶ死んでいたと思う。眠ることで生き返ることを祈るばかり。
「あ、はい。すいません。朝早くに。ありがとうございました」
私はもう一度頭を下げる。
「ううん。じゃあ、がんばってね!」
そう言うとふらふらとお姉さんは家へと帰っていった。最後グッドラックじゃないんだ。最初からがんばってでよかったのではないだろうか。
でも、グッドラック。幸運を。そう、写真を送ったところで運任せみたいなところは確かにある。どうなるかはわからないのだ。
「ぐっどらっく」
私は小さく声に出して言ってみる。そして、思うのだ。今度は勝手に撮ろう。
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