二週間ぶりに
「も、森さんごめんね」
「ううん。大丈夫だよ」
今日、締切のプリントを提出していないのはどうやら私だけらしい。プリントを集めに来た森さんに言われるまで、存在自体忘れていた。ちなみにアサミはさっさと出したらしい。
鞄に入れた記憶はあるけれど、見つからない。鞄の中身を全部出す。ない。鞄を引っくり返してみる。なにかが鞄から落ちた。二つの音がした。音がする時点で、プリントではないだろう。
森さんがそれらを拾ってくれた。
「はい」
「ありがとう」
森さんからそれを受け取る。それは鍵と棒付きの飴だった。ここしばらく使っていない屋上の鍵と、口寂しいときに舐めようと思っていた飴。
「あ、教科書の間に挟まっているのは?」
森さんに言われて、机の上に積んだ教科書を見る。クシャクシャになったプリントが教科書に挟まっていた。
私は鍵と飴をポケットに入れて、クシャクシャのプリントを机の上で広げ、頑張って皺を伸ばす。だけど、一度クシャクシャになった紙は綺麗な紙に戻らない。クシャクシャのプリントから、元クシャクシャのプリント、現シワシワのプリントになるだけだった。
「ご、ごめんね。はい、これ」
現シワシワのプリントを森さんに渡す。恥ずかしい。
「ううん。ありがとう」
森さんはプリントを受け取る。
「先生には、私がうっかりクシャクシャにしちゃいました。って言っておくね」
よくわからない気遣い。でもちょっと笑ってしまう。
「いや……。漆原がすいませんでしたって言ってたって伝えておいてくれる?」
「そう?」
「うん」
「わかった。じゃあ、私、これ先生に提出しないといけないから。またね」
そう言って、森さんは少し早足で教室から出ていった。余計な手間を取らせて、悪いことをしてしまった。
出したばかりの教科書を鞄に戻す。その鞄を持って、私も教室を出る。教室にはまだ何人か残っている。鞄だけが残っている机もある。部活なら鞄ごと持っていく気もする。みんな、学校に残ってなにをしているのだろう。
教室を出ると、少し離れたところに森さんの後ろ姿が見えた。早歩き。背中まで伸びた長い黒髪が揺れている。
昇降口は森さんが向かう職員室とは逆方向。私は心の中でまたねと言って、森さんに背を向ける。
ひとりで廊下を歩く。ひとりの放課後が、ひどく久しぶりに思えた。いつもはアサミがいる。アサミは用事があるとかで授業が終わるなり、鞄を持って消えた。帰ったのか、学校の中で用事があるのかは知らない。待っててとも言われなかったし、鞄も持っていっている。多分帰ったのだろう。
すぐに階段に着く。帰るには、下に降りて、靴を履き替えなければいけない。でも、私は上に向かう階段に足をかける。
ポケットの中の鍵がこっちに行けと言っている気がした。
私たちの教室は二階にあって、屋上は三階のさらに上だ。三階まで上がって、私は廊下に顔を出す。誰もいない。階段の下を覗き込む。誰もいない。そして、私は階段を上る。
階段を登る自分の足音が聞こえる。屋上へ向かう階段は普段誰も使わない。屋上には鍵がかかっている。生徒は本来立入禁止だ。
だからなのか、階段には色々と荷物が置いてある。踊り場には使っていない机とか何が入っているかわからないダンボールが積まれていたりする、多分、なにかの行事のときに使うのだろう。
階段を上りきると、正面に古びた金属製の扉。ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、回そうとする。だけど、回らない。ドアノブをガチャガチャとしてみる。回す。回らない。久しぶりに来たから拗ねているのだろうか。
「ごめんって」
扉に謝って、軽く撫でる。鍵を回す。ガシャンと音がする。ようやく開いた。
「ありがと」
扉を開けて、屋上に出る。結構寒い。相変わらず、これといって特になにもない。屋上を囲むようにフェンスがあって、給水塔があるだけ。
ここに来るのは多分、二週間ぶりくらい。アサミがここから煙草を投げて、二人で逃げた。それ以来。
鞄を置いて、扉の脇に腰掛ける。お尻が冷たい。きっとスカートは白く汚れてしまうだろう。でも、まあいいや。
ポケットから飴を取り出し、袋を外す。その飴は元々茶色と白のバイカラーだったはず。今は棒つきの茶色い飴と半円の白い飴の二つになっていた。落ちたときに割れたのだろう。棒についたままの半分と袋に残ったもう半分、両方とも口に入れる。コーラ味。甘い。いつもより甘いような気がする。つるつるの表面と割れたざらざらな表面。口の中で、舌でそれを楽しむ。たまには割れた飴を舐めるのも悪くない。
空を見る。遠くの空はもう紺色になっている。見渡すと空は紺色から少しずつ茜色に変わっていく。飴のようにきっちりと二色に別れていない。境目はない。まだ星は見えない。
校庭から運動部の掛け声が聞こえてくる。笑い声が聞こえてくる。
飴を片方の頬に寄せて、はーっと息をゆっくりと吐き出す。息が白い。私の身体から何かが抜けていくみたいだった。抜けていったなにかを取り戻すように、ゆっくりと息を吸う。冬の空気が肺の中に入っていく。鼻が少しムズムズする。
飴を寄せた側の頬がしわしわになる。飴に水分を取られてしまった。しわしわになった頬の内側を舌でなぞる。頬の弾力、しわしわの感触、少しの甘さ。
飴を舐める。飴はもうずいぶん小さくなっていた。溶けるのが早い。半分になったせいだろう。もう少し舐めていたい。惜しむように舐める。飴は私の気持ちとは裏腹に舐めるほど早く溶けていく。
棒つきの飴を取り出して、見る。薄くなった飴。琥珀みたいに透明で、かすかな光を反射している。もうすぐ棒から取れてしまいそう。また咥える。奥歯で噛む。飴が砕ける。歯にくっつく感触。歯ぎしりをしてみる。粉々になった飴はすぐに溶けていく。でも、歯にはまだ感触が残っている。奥歯から手前に向けて、ゆっくりと舌を動かす。歯の凸凹に沿って、舌の形が変わる。最後の甘さを舌で感じる。そして、消えていく。最後に棒だけが残る。ほんのりと甘い棒を咥えていると、煙草を吸っていたことを思い出す。
棒を煙草に見立てて、指で挟んで、煙を吐き出すように、息を吐く。息は白くはならない。それがなぜか可笑しかった。
ふいに足音が聞こえた。階段を登ってくる足音。私の身体は固くなる。誰だろう。先生だろうか。だとしたら不味い。ここは立ち入り禁止で、鍵がかかっているはずの場所。見つかったら、不味い。とりあえず、確実に不味いことになる。と思う。とは、言っても隠れる場所はない。多分、時間もない。足音はもう聞こえない。ドアノブが回る音。ドアが開く音。
「ミキちゃーん?」
聞こえてきたのはアサミの声。
「やっぱりいた」
アサミが扉から顔を出す。足音の主は当たり前にアサミで、私はほっと胸を撫で下ろす。
「アサミか……」
「アサミですよー」
にこりと笑って、ひらひらと手を振るアサミ。
「こんなところでなにしてるの?」
なにをしているのか。と聞かれてもなんと答えていいかわからない。飴を舐めていたと答えるのも、なんか馬鹿みたい。ただ、飴を舐めていた以外にしていたことは特にない。
「休憩」
結局、よくわからない返事になってしまった。
「休憩……あっ」
アサミは不思議そう顔をしたかと思ったら、眉毛がぐぐっと真っ直ぐになって、眉間にシワができる。目を細め、どこかをジッと見ている。どこを見ているのだろう。アサミの視線を追ってみる。視線は私の手を捉えているらしい。その手には飴の棒。私は手を口元に持っていく。アサミの視線は手を追っている。それを前歯で噛み、いーっとアサミに見せる。アサミはそれがなにかに気がついて、目を逸らす。
「煙草じゃないよ」
「……し、知ってるよ? ひょっとして煙草を吸ってたんじゃ。とか思ってないし?」
嘘つけ。
「……ごめんなさい。煙草吸ってるのかもと一瞬思ってしまいました」
アサミは頭を下げる。素直でよろしい。
「いいよ。でも、帰ったのかと思ってた」
「んー。ちょっと職員室に用事があってさー」
「……そうなんだ」
言ってくれれば待っていたのに。と言うのは、少し恥ずかしかったのでやめた。
「すぐ終わるのか、時間かかるのかちょっとわからなかったからさー」
「ふーん」
「ひょっとして、言ったら待っててくれた?」
「いや、帰るでしょ」
「でも、ここで待っててくれたじゃん」
「別に待ってたわけじゃないし」
でも、私はなんで屋上に来たのだろうか。ひょっとして、アサミを待っていたのだろうか。
「アサミこそ、なんで私がここに居るってわかったの?」
「さぁ。なんででしょう?」
アサミはにやりと笑う。うーん。面倒臭い。
「まあ、いいや。帰ろっか」
「いやいやいや」
私の腕をアサミが掴む。
「もうちょっと私に付き合ってよー」
どうやらアサミは私を付き合わせているという自覚はあるらしい。
「しょうがない。じゃあ、えー、勘」
「やる気なさすぎない?」
「だって、わからないし」
実際、わからない。勘以外になにかあるのだろうか。私がここでしばらく飴を舐めていた。だから、職員室からの帰りに見かけたということもないと思う。
「はい。じゃあ、正解は下駄箱にミキちゃんの靴がまだあったからでしたー」
正解を出すのが早い。解答のチャンスは一回だけだったらしい。でも、多分、アサミが飽きたのだと思う。
「ここ来るの久しぶりだよねー」
ほら。飽きてた。というか勝手に下駄箱開けるなよ。
「来る用事もなかったからね」
「それは良いことだけどさー」
ここに来るというのは煙草を吸うということで、アサミにとっては良いことではない。今は私にとっても良いことではない。
「でも、私ここ好きなんだよねー」
それはわかる。今日久しぶりにここに来て、私もそう思った。ここから見える空も、聞こえる音も、冷たいコンクリートの床も、私は好きだった。
「職員室から下駄箱までさー」
「うん。勝手に開けないでよ」
「えー」
えー。じゃない。
「他の人のも開けてないでしょうね? 森さんのとか」
「さすがにそれはしないよー」
それがさすがにだとしたら、さすがに私の下駄箱も開けないで欲しいのだけれど。
「だって、ゆっきーと一緒に下駄箱に行ったからねー」
きっと職員室で一緒になったのだろう。
「それに下駄箱見れば帰ったかわかるって教えてくれたのゆっきーだし」
森さん。なんということを。ただ、森さんがそういう発想をするのは意外だった。最近たまに思うのだけど、森さんは結構面白い。
「おかげで久しぶりにここに来れたし、よかったよー」
ぐるぐると話題が回る。
「おかげでミキちゃんと帰れるしね」
「いつも帰ってるじゃん」
「そうだけどさー」
アサミは屋上の中心まで行って、大きく伸びをする。遠くに星が一つ見えた。風が吹く。冷たい冬の風。
「でも、やっぱりまだ寒いね」
振り向いて私を見るアサミの顔は強張っていた。確かに寒い。
「帰ろっか」
「うん」
鞄を持って、私たちは屋上を出る。鍵を締めて、階段を降りる。私の後ろをアサミが降りる。階段を降りる足音が二つ聞こえてくる。
「あ、ミキちゃん」
「なに?」
私は振り返る。いつもより高い位置にアサミの顔。
「お尻白いよ」
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