小枝子 一月二十日 2
……さて、どうしたものか。
会社を辞める決意をし、一日休むことにしたのはいいけれど、何をするあてがある訳でもない。
まぁいいか。何をするあてもないってことは、これから何をしてもいいってことなんだよね。
とりあえず、何度となく通った駅までの道を、ゆっくりと歩く。
途中の家々の庭先は、ガーデニングで美しく飾られている。冬の寒さの中でも生き生きと咲いている、小さな花達。
いつも、足早に駅と会社を往復するばかりだった。
こうしてゆっくりと眺めてみて、こんなにも美しい町並みだったんだと、初めて気付いた。
見ているようで、何も見ていなかったんだな。風景も、周りの人達も、そして自分自身のことも。
これからは、もう逃げない。
問題にぶつかったとしても、真っ直ぐに向き合って、乗り越えていこう。真っ直ぐに、自分の足で、前に進もう。
足掻きながらでも、いいんだから。
新城さんが、私にそう教えてくれたから。
ふと思い立って、『若者の街』に行ってみることにした。
賑やかな繁華街に自分みたいな人間は似合わないって、何となく引け目を感じて足を向けたことがなかったんたけど。
都会のそんなイメージに憧れて実家を出てきた筈なのに、バカだな私。ふっと苦笑いがこぼれる。
繁華街まで、電車に乗って30分。自分からは程遠いと思ってた街なのに、距離にしたらこんなにも近いなんて。
平日にも関わらず、街にはたくさんの人が溢れ、賑わっていた。
みんな笑みを浮かべ、連れ立った人と楽しそうに言葉を交わしている。
賑やかで楽しい雰囲気に、私もつられてウキウキしてきた。
ファッションビルと言うものに、生まれて初めて足を踏み入れた。
お洒落な店先には、季節より一足早く春物の洋服が並べられている。
恐る恐る、明るい色合いの洋服達を眺めていたら、女性の店員さんが声を掛けてきた。
彼女は店先のマネキン達と同じように、一分の隙もないお洒落な服を身に纏っていた。
「いらっしゃいませ、何かお探しですか?」
「いえ、ちょっと見てるだけなんですけど……」
気後れしつつやんわり断っても、店員さんは引くことなく
「これなんか、ふんわりした色味でお似合いだと思いますよ」と勧めてくる。
え? 私にこんなかわいい服が似合うわけないよ。第一サイズが合わないでしょ、とアタフタしていたら
「よかったらお試しください。どうぞこちらへ」
有無を言わさぬ勢いで試着室に案内されてしまった。
しょうがない、ダメだろうけど試してみるか……。
ところが、実際に着てみると、サイズはピッタリだった。さすがプロ、店員さんの見立ては間違ってなかった。
そう言えば、最近あまり食事が摂れないせいか、服が緩くなったような気はしてた。見た目がどうかなんて考えずに、そのまま着ていたけど。
身なりを気にする余裕もなかったんだなと、今更ながらに気付く。
「いかがですか?」
店員さんに促され、試着室のカーテンを開ける。
「ああ、やっぱりお似合いですね!」
嬉しそうにニコニコしている。自分の見立てが正しかったことに満足してるみたい。プロだもんね、自分の仕事に誇りを持ってるんだよね。
少し離れたところから、改めて鏡に写った自分の姿を眺める。
そこにいたのは、普通の大人の女性だった。今まで自分で思っていた、太って冴えなくて、他の人より数段劣ってる自分とはまったく違う、普通の女性。
そして意外なことに、ふんわりとした春色の服は、その女性にとてもよく似合っていた。
今まで、どうせ自分は冴えないんだからって諦めて、ダイエットの為に努力しようなんて考えたこともなかった。
いつも自分自身に言い訳してたんだな、私。
気付かないうちに痩せてたなんてラッキーなんだから、これからはちょっと外見のことも気にして、自分磨きを頑張ってみようかな。
試着した服はお給料日を待って改めて買いに来ることにして、お店を出た。
その後は、気後れすることなくいろんなお店を覗くことができた。
どのお店の店員さんも親切だった。生まれて初めて、そんな扱いを受けた気がする。
やっぱり、前の自分が太めの冴えない女だったからかな……、なんて思いかけたけど、きっと違う。
自信なさげに周りを気にしてた過去の私と、自分自身でいることを楽しもうとしてる今の私。その違いのせいだ、きっと。
自分で自分を好いてない人間を、他の誰が好きになる?
そのままで十分しあわせだと思ってた。冴えない自分も悪くないって思ってた。
でも、やっぱりそれは言い訳で、現実から逃げてただけだったんだ。
今まで私は、何の努力もしてこなかった。
言い訳はやめて、変わろう。自分で自分をもっと好きになれるよう、何か始めてみよう。
あ、コンタクトレンズに挑戦してみるのもいいかも。
目に物を入れるのが怖い、なんて子どもじみた理由でずっと避けてたけど、重たいフレームの眼鏡を外したら、もっと身も心も軽くなれるような気がする。
新しい自分に出会えそうな期待にワクワクしながら街中を歩いていたら、一人の男性に声を掛けられた。
「ねぇ君、一人? よかったら少し話せないかな」
え? これって悪名高きキャッチセールスってやつ?
やっぱり私みたいなのがカモにされやすいのかな……。
変わろうって決めたけど、実際にはまだ変わってないんだもんね、しょうがないか。
「何のセールスですか? 私、あまりお金持ってないので、何も買えませんから。
すみません」
とりあえず謝ってやり過ごそうとしたら、その男性は苦笑いしながら言った。
「ひどいな、僕はキャッチじゃないですよ。あなたがとてもかわいくていい雰囲気だから、声掛けただけなのに」
え? 耳を疑う。かわいいですと?
「私なんかのことかわいいなんて、どうかしてません? ますます怪しいですよ!」
反射的に答えると、男性は本格的に笑いだした。そしてひとしきり笑い終えると、まだ口元に笑みを滲ませながら言った。
「自分のこと、そんな風に言うもんじゃないよ?
君はホントにかわいくて癒やされる雰囲気持ってるから。
もっと自分に自信持っていいよ」
ここまで言われて、これは人生初のナンパと言うものに遭遇しているのでは? と、やっと思うことができた。
男性はそれ以上深追いしてくることもなく、笑顔で手を振って去って行った。
今の展開をぐるぐると頭の中で反芻する。
そうか。私にも人に注目してもらえる長所があるのか。小枝子、あんたやるじゃん!
もっと、自分のことそんな風に褒めてあげなきゃな。褒めてあげられるような自分にならなきゃな。
ウインドウショッピングを目一杯楽しんだ後、映画館に行ってコメディ映画を観た。
お腹の底から大笑いすると、さらに気持ちが軽くなった。
映画館を出て、近くの喫茶店に入る。
古い洋楽が流れている、落ち着いた雰囲気のお店だった。
あたたかい紅茶を頼んで、BGMと共にゆっくりと味わう。
昔から音楽は好きだけど、洋楽には疎い。有名どころの曲の、サビのメロディは知ってても、題名やアーティストは知らないとか、そんな程度。
何曲かそんな有名どころがかかった後、私が唯一知ってると言っていい曲が流れてきた。
『 I shall be released 』。
高校時代、成績優秀な上に軽音楽部でも活躍していると言う、完全無欠の先輩がいた。
大げさではなく、全女子生徒の憧れの的だったと言っても過言ではなかった。
彼のバンドは、オリジナル曲もやるけれど古い洋楽のカバーもしたりして、センスいいよねって評判だった。
もちろん私も憧れてはいたけど、雲の上の人すぎて、恐れ多くて近寄ろうと思うことすらなかった。
二年生になった時、先輩と同じ委員会に所属したことがきっかけで、少しだけ話ができるようになれた。もちろん、単なる先輩後輩としてだけど。
「自分の好きな音楽や、昔の名曲の素晴らしさを、みんなに伝えていきたいんだ」
彼は、どんな価値観で曲を選び演奏するのかを、そんな風に話してくれた。
文化祭で先輩のバンドが演奏していた曲が強く心に残っていて、曲名を教えてもらったのが『 I shall be released 』だった。
教えてもらった後、ネットでボブ・ディランが歌っている映像を観た。
先輩のバンドは明るくアップテンポな曲調にアレンジして演奏していたけれど、ボブの演奏はゆったりしたテンポで、淡々と歌い上げているのが印象的だった。
同じ曲なのに、アレンジや演奏する人達によってこんなにも印象が違うのかと、驚いたことを覚えている。
甘酸っぱい思いに浸りながら懐かしい曲を聴いていると、ちょっと笑みがこぼれた。
雲の上の人に憧れちゃうのって、昔も今も変わってないなぁ。私ってば、意外と理想が高いのかな?
ううん、そうじゃなくて、相手がそれだけ魅力的だってことだよね。人を惹きつけるものを持ってる人が、憧れの的になるんだもん。
自分を磨いていけば、私もそんな魅力を一つでも持つことができるかな?
彼らに追いつくことはできないだろうけど、少しは近づくことができるかな?
二十八歳にもなってこんなことに気付くなんて遅すぎるけど、人生まだまだこれからだもん。いつ再スタート切ったって、いいんだよね。
先輩と、新城さんの顔を思い浮かべながら、そんなことを思っていた。
曲はまだ続いている。
先輩は曲名だけではなく、歌詞の解釈が難しい曲であることも教えてくれた。
でも、サビの最後、題名でもある部分。
直訳すれば『今すぐにでも、私は解放されるべきだ』。
この歌詞は、私の心にとても深く残っている。
今の私に、ぴったりの曲だと思う。
ここ数ヶ月、営業所では辛い思いをしてきたけれど、それは前に進む努力をしてこなかった自分が呼び込んだことだったのだと、やっとわかった。
辛いことを我慢するばかりで、解決の為の努力を何一つしていなかった。
今ならわかる。彼女達は悪意を持って私に接していた。
理由が何なのかは、どうしてもわからないけれど。
じわじわと真綿で首を締めるように、彼女達は私を攻撃し、自尊心を傷つけ、気力を奪っていった。
全て自分が悪いと思い込まされることによって、宮沢さんや志田さんと対決する勇気が持てなかった。
二人から向けられたあからさまな悪意は、これまでの人生では出会ったことのない感情だった。
こんな場面に出くわしたことがなかったのは、ただ単に運がよかっただけなのかな。
世の中にはいろんな人がいて、それぞれに相性がある。
彼女達に嫌われたのは、私にも何か原因があり、反省すべきところがあったのかも知れない。
でも、相手を嫌っていたとしても、その人の尊厳を傷つける権利なんて、誰にもないはずだ。
他者を平気で踏みにじることができる人がいる、そう思うと、身震いする程に恐ろしい。
これから、またそんな人達に出会ってしまったら、どうしたらいいのだろう。
また同じような悪意に晒されたら……。
いや、そんなことを今から考えても仕方ない。
その時はその時。やってみなきゃわからない。
どんな時も、私は私でいる。
その強い意志さえ持っていれば、折れることなく相手と対峙できるんじゃないかな。
今までの私は、逃げてばかりの弱虫だった。
宮沢さん達とは対峙することなく、その場を離れることを決めてしまったけれど、これは決して逃げじゃない。
自分の意志で、別の場所に行くことを決めたのだから。
どんな結果になっても、後悔はしない。
自分で選んだ道だから。迷っても、回り道しても、何度だってやり直せばいいんだから。
これから、私の世界は変わる。
私のこの手が届く世界なら、きっと変えていける。
気付くのに時間はかかったけど、今からでも、遅すぎることはないんだ。
ここから始まるんだ。私が選んで、私が生きたいと思う世界が。
ここから、すべてが。
これから先、例えどんな苦境に陥ったとしても、自分の足で、しっかり大地を踏みしめて歩いていれば、どこにだって行ける。
何にも囚われることなんかない。行きたいところに行こう。
そうすれば、私は解放されるだろう。
いや、違う。もう、私は解放されてる。
I have been released!!
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