小枝子 一月二十日 1
新城さんと食事をした後も、私の日常は何ら変わることがなかった。
年末年始の休みは、実家に帰って大掃除を手伝ったり、千紗と初詣に行ったりするのが恒例だった。でも今年は帰省するのをやめた。
休みに入った途端、ベッドから体を起こすこともままならないような状態になってしまったから。
体が重くて仕方ない。無理して起き上がろうとする気力もない。
何もできない日が続き、そんな自分が情けなくて堪らないのに、どうすることもできない。
まるで糸が切れた操り人形。心も体も自分の物ではないみたい。
休みが明け、重い体を引きずるようにして仕事に行った。
熱もないのに仕事を休むなんて無責任なこと、してはいけない。
とりあえず出勤してデスクに向かう。
今任せてもらえているのは、簡単な処理くらい。
以前は短時間で終えられたことなのに、かなり手間取る。
そして、時間をかけて完成させても、どこかしらにミスがある。何度も見直したはずなのに。
「こんな簡単なこともできないの?
ほんっとに使えない!」
ミスを指摘する宮沢さんの叱責。
本当に、こんな簡単なこともできないなんて、なんでなの? この役立たず。
自分で自分に愛想が尽きていた。
そんな毎日を過ごして、気付けば一月も半ばをすぎていた。
仕事から帰って、疲れ果てた重い体を椅子に預ける。
そのまま何をすることもなく、何時間も時を過ごしてしまう。
いけない、着替えなくちゃ……。
そう思っていた時、鞄の中に入れたままだった携帯が鳴り始めた。
画面には千紗の名前。
「……もしもし」
一瞬の間。
「小枝子! どうしたの!
年末に帰ってこないし、ろくに連絡も寄越さないで」
千紗の強い言葉が胸に刺さる。
ごめんなさい。ごめんなさい。こんなに心配かけるなんて。こんな私でごめんなさい。
心の中が申し訳なさでいっぱいになる。
なのに、言葉が口から出てこない。
最近職場でも上手く言葉が出てこなくなっていた。強く叱責された時は特に。
心も体も硬直してしまう。頭の中と口が繋がっていないような感じ。
「……ごめんね」
一言返すのがやっとだった。
息を飲むような気配がした後、千紗が問いかけてくる。
「小枝子、どうしたの」
先程と同じ言葉だけれど、とても優しく響く声だった。気遣わせてしまったことに、また申し訳なさが募る。
「ごめんね」
「……会社で何かあった? 新城さんには相談してるの?」
胸が痛い。答えが口から出てこない。
誰かの名前を聞いただけで、胸がこんなにも苦しくなるなんて。
一緒に食事したあの日以来、新城さんと言葉を交わすことが辛くて、避けるようになっていた。
もうこれ以上嫌われたくないから。
新城さんは以前と変わらず穏やかな態度で接してくれていた。
こんな私でがっかりさせたはすなのに、優しいな。でも、その優しさが、胸に痛い。
「大丈夫だから。心配かけて、ほんとにごめんね」
精一杯強がってみせた。
「私もおば様達も、みーんな小枝子の味方だからね。離れてても、いつも小枝子のこと応援してるから。
いつでもここに帰っておいでね」
こんな私に、千紗はいつもと変わらないエールを贈ってくれる。ありがたいな。
ちゃんとした自分になれるよう頑張らなきゃ。自分のためだけでなく、千紗や家族のために。
久しぶりに、気力が湧いてくるのを感じた。
翌日、一月二十日。
昨晩の千紗からの電話に励まされて、心機一転仕事に向かうことにした。
少しでも気合いを入れようと、念入りにお化粧や髪型を整える。
そんなことをしていたら、いつもより出掛ける時間が遅くなってしまった。
「おはようございます」
なるべく大きな声を出すよう意識して挨拶しながら事務室のドアを開ける。
既に宮沢さんと志田さんは出勤していた。
二人の表情は私のことを嘲笑しているように見えたけれど、もうそんな態度には慣れっ子になっていた。
何も考えずにやり過ごして席に向かった。
自分のデスクを見ると、一冊の雑誌が置かれていた。
就職情報誌。
それが何なのか、咄嗟にはわからなかった。一瞬の間を置いて理解できた途端、頭が真っ白になった。
使えない奴は他の会社に行けと言う、無言の意志表示なのだろう。
役立たず呼ばわりには慣れていたけれど、あからさまに不要な者の烙印を押されたことに、大きなショックを受けた。
この数ヶ月間のことが、目まぐるしく思い起こされる。
信頼を寄せていた宮沢さんから嫌われてしまったこと、誠意を持って接するよう努めた志田さんに心が通じなかったこと。
二人から受けた叱責、罵倒、あまりにも理不尽な態度。
自分の何がいけなかったんだろうと悩み、傷ついたし、悲しかった。
でも最近はそんな感情も枯れ果てていた。
喜びも、悲しみも、何もない。空っぽな心。
頭の中全体が灰色に塗り潰されているかのように、ぼんやりとしていた。
置かれた情報誌の表紙を見るともなく見下ろしているうちに、何かが自分の中に湧き上がり、満ちていくのを感じた。
深い藍色をした悲しみが、胸の中を覆い尽くした。次に、激しい怒りが真っ赤な炎のように燃え上がった。
そして、支えてくれる家族や友達がいるというしあわせを思い出した。
小春日和の日差しに触れたように、心の芯が温められる。
感情が蘇ると共に、目の前が開け、世界が明瞭になったように感じた。これまでの人生で初めて、強い意識を持てた気がする。
目の前の二人に目を向ける。いつもなら物怖じして目を合わせることもできなかったけれど、真正面から二人の顔を見据えた。
あれ? 二人ともこんな顔してたっけ?
美人な筈なのに、濃いメイクに彩られた彼女達の顔は、私を嘲笑うが為に酷く歪み、とても醜かった。
二人のことを眺め続けていると、彼女達は私がいつもと違う空気を放っていることに気付いたらしく、口元から笑みを消した。
二人で身を寄せるようにして、こちらを伺っている。まるで私のことを怖れているかのような目をして。
……何でこんな人達のことを、私はあれ程までに怖れていたんだろう。
自分ばかりを可愛がり、人を平気で傷付けることができる、思い遣りのない愚かな人達。本当の友情や人の温かさを知らない、心貧しき哀れな人達を、怖れる必要なんてどこにあるのだろう。
私が大切にすべき人は、もっと他にいる。
そして、同じように私のことを大切に思ってくれる人が、ここ以外のどこかに、必ずいてくれるはずだ。
もうやめよう。自分の心に蓋をして生きていくのは。
この場所で、私は十分に頑張った。そんな自分を、褒めてあげても、いいよね。
自信なんてない。身も心もボロボロの状態であることも、わかってる。
でも、私は私を好きでいたいから、その為に、前に進もう。
「辞めます」
自分でも驚く程芯のある声で、はっきりと言うことができた。
呆気に取られた様子で微動だにしない二人を置いて、荷物を持ち踵を返した。
事務室のドアのところで、既に出社して席を外していたらしい新城さんとすれ違った。
「おはようございます。
すみません、急なのですが、今日は有給休暇にさせてください。
またご連絡致しますので」
そう告げて、そのまま彼の横をすり抜けた。
「堂島さん、待ってください」
呼び止める声が聞こえたけれど、そのまま振り返らずに、会社を後にした。
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