彰 2

 一月二十日。

 その日の朝、席に着こうと事務室のドアを開けると、中から出てきた堂島小枝子とすれ違った。

「おはようございます。

 すみません、急なのですが、今日は有給休暇にさせてください。

 またご連絡致しますので」

 彼女の態度はいつものように礼儀正しかったが、一度出社した上での有休の申し出に驚き、慌てて呼び止めた。

「堂島さん、待ってください」

 しかし、その呼び掛けに振り向くことなく、彼女は営業所を出て行ってしまった。

 何故あの時追い掛けなかったのだろう。

 今まで何度思ったかわからない。

 追い掛けて引き留めていたら、違った結果になっていたかも知れないのに。

 でも、あの時の彼女の歩みには、俺が引き留めることを拒むような、強固な意志を感じた。

 それまでの彼女にはなかった強い何かを、あの時の彼女は身に纏っていた。

 もしかしたら、それは死への決意だったのではないかと、今にして思う。


 事務室に入ると、女性二人が呆然とした顔で立ち尽くしていた。

 宮沢明美が口を開く。

「あの、堂島さんが、辞めると言って出て行ってしまったんです。

 何だか普段と違う雰囲気で、びっくりしてしまって……」

 珍しくおどおどとした、不安げな口調だった。

 一方の志田ゆかりは終始無言。その顔は紙のように真っ白で、何の表情も見て取ることができなかった。


 重苦しい雰囲気の中業務を始めたが、堂島小枝子のことが気掛かりだった。

 何度か彼女の携帯に電話を掛けてみたが、電源が切られているとのアナウンスが繰り返されるばかりだった。


 落ち着かない一日を過ごし、夕刻を迎えた。

 そして、営業所の電話が鳴った。


 堂島小枝子の死を伝える電話だった。


 警察署員との応対を終えて受話器を置くと同時に、目の前が暗くなる程の後悔が押し寄せてきた。

 どうして彼女を救うことができなかった?

 何の為に、俺はここにいたんだ?

 今朝、彼女の様子に何かを感じていたのに、何もできなかった。

 これまでの彼女の苦しみに気付いていたのに、手を差し伸べることすらできなかった。

 それどころか。


 あの就職情報誌を彼女のデスクに置いたのは、俺だ。


 もしも彼女が誰にも話せない程の苦しみを抱えているのなら。

 彼女に、苦しみから解放されて欲しかった。

 ここではない別の場所に、逃げ出して欲しかった。

 この会社にこだわることはないと気づいてもらいたくて、あれを置いた。

 でも、あまりにも下手なやり方だった。

 辞めろと言う意志表示と受け取られても仕方がないと、少し考えればわかることだったのに。

 なんてボンクラなんだ、俺は。

 人の気持ちに疎いのにも程があるだろう。

 彼女を最悪な形で傷付け、背中を押してしまった。

 そう考える度に、後悔の念に押し潰されそうになる。


 ベンチに腰掛けてから、何時間経っただろう。

 体が芯から冷え切っているのを感じた。

 明日は、若社長にお悔やみを渡したことと、営業所の現状を報告に行かなくてはならない。

 男性営業有志からのお悔やみを集めたのは亀井だった。

 皆から集めたものを俺に託しながら、あいつは呟いた。

「お前でも、彼女のことを救えなかったんだな」

 その言葉に、亀井の悲しみが滲み出ていた。

 彼女のことを心配して、俺にフォローを頼んできたのに。

 役立たずの俺は、亀井のことまで傷付けてしまった。

 亀井と同じような気持ちを抱いている筈の鍋島さんは、俺に何も言わなかった。その優しさに、少しだけ慰められた。

 その後、他の男性営業からポツポツと、証言が集まってきた。

 宮沢と志田が堂島小枝子や以前辞めていった女子社員達にどんな振る舞いをしていたのか。

 男性営業が新しく入った女子社員に近付くと、その人に対する宮沢の扱いが酷くなるから、なるべく近付かないようにしていたことも知った。

 今頃になって……。どうしてもっと早く話してくれなかったんだと、怒りを感じた。

 しかし、早くに聞いていたところで、俺が彼女を救えたかどうかはわからない。

 明日社長には、女子間の問題について、客観的事実と自分の推測を伝える。本部長と女性達の関係についても。

 ……でも、報告したところで何も変わらないだろう。

 堂島小枝子はもういない。

 宮沢と志田は営業所には必要な人材だし、本部長も社には欠かせない存在だ。

 彼らは何の処分も受けることなく、変わらない日常を過ごして行くことになるだろう。

 従業員を大事にすることが若社長の信条であっても、亡くなった者より生きている人間が優先されるのは仕方のないことだ。

 多すぎる程に包まれた志は、そのことへの詫びの気持ちも含まれているのかも知れないと、若社長の意図に思い当たる。

 あくまで会社側の人間として、彼女の死をそんな風に割り切ることしかできない自分が情けなくて、心底嫌になった。


 ボンクラだ、俺は。

 何が会社のエースだ。若社長の右腕だ。

 堂島小枝子に「満足なの?」って尋ねた癖に。

 自分は足掻いてるなんて、偉そうなことを言った癖に。

 俺はいつも流されるばかりで、何一つ、成し遂げることができてないじゃないか。


 彼女の後任が配属された時には、必ず守り抜いてやろう。

 彼女のように苦しい思いをする人をこれ以上増やさないことが、これからの俺にできる唯一の償いだと思うから。


 彼女と二人で、親父さんの店で飲んだことを思い出す。

 たった二ヶ月前のことなのに、随分昔のように感じる。

 あの時の彼女はとてもリラックスした様子で、初めて会った頃のような優しい笑顔を見せていた。

 趣味の話で盛り上がった時には、会社では見たことない程にいきいきとした表情をしていた。

 宮沢達に対する彼女の本音を引き出すことが目的だった筈なのに、いつの間にか、ただ楽しく話すことに夢中になっていた。

 彼女は人を寛がせる雰囲気を持っていた。

 会社人としての鎧を外して素の自分をさらけ出してしまったのは、彼女との間に流れている空気が本当に心地よかったからだった。

 楽しかったひと時を思い出し、自然と口元がほころぶ。

 最後の方はお互い無口になっていたのだが、俺はその沈黙すら心地よく感じていた。

 彼女が隣にいる。ただそれだけのことに、とても安心感を覚えていた。

 彼女の本音を引き出すにはどうしたらいいか。頭の中でシミュレーションしていたのだが、どうしても答えが出なかった。

 でもまたこうして二人で話せば、自然と聞き出せるだろう。そう思ったから、その時は深追いするのをやめた。

 だがその後、彼女とそれ以上親しくなることはできなかった。

 業務上の話をしても、彼女が以前より自分に対して壁を作っているように感じられた。

 あの日、互いの心が通ったように思っていたのに。何故なのか、どうしても解らなかった。

 以前は表情豊かだった彼女から、何の感情も読み取れなくなっていた。

 そんな様子が気になりながらも、タイミングをつかめず、二人で話す機会を作ることができなかった。

 もっと彼女と話せていたら、違った結末があったのだろうか……。

 親父さんの店から引き上げる少し前、言葉少なくなっていた彼女。

 何を考えていたのだろう。今となっては知りようもないけれど。

 俺と同じように、あの時をしあわせに感じてくれていたらいいのだが。心からそう願う。


 あの優しい彼女と会うことは、もう二度とできない。

 そう思う度に、深い悲しみで心が埋め尽くされる。

 楽しかった思い出が輝きを放つ分だけ、悲しみは深くなっていく。


 最期は安らかな顔であったと、田川さんが教えてくれたことに、ほんの少しではあるけれど、救われる思いがした。

「……小枝子」

 初めて、下の名前で彼女に呼びかけてみる。


 小枝子。

 君は、苦しみから解放されたかい?


 俺は両手で顔を覆った。

 そうすることでしか、込み上げてくる嗚咽を抑えることができなかった。

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