彰 1

 堂島小枝子が亡くなってから一ヶ月がすぎた今日、俺は彼女が生まれ育った町を訪れていた。

 少しだけ緑が多いところを除けば、穏やかな雰囲気の町並みは、営業所のある町とよく似ている。

 駅前には小さな商店街が形成されていて、その中に『田川酒店』があった。

 普通の酒屋ではなかなか見かけることのない地酒が数多く店頭に並べてあり、こだわりを感じさせる店だ。

 ここが彼女の親友の実家だろうか。そんなことを考えながら、歩を進める。


 彼女の実家は、閑静な住宅街の中にあるごく普通の一軒家だった。

 門扉の前に立ち、呼び鈴を鳴らす。

「はい、どちら様でしょうか」

 多分彼女の母親と思われる、年配の女性の声で応答があった。

「松村商事の新城と申します。小枝子さんにお線香を上げさせて頂きたいと思い、参りました」

 そう告げると、インターホンが切られ、少し間をおいてから玄関の内側で鍵を開ける音がした。

 勢いよくドアを開けて中から出てきたのは、先ほど応対した声の主ではなく、堂島小枝子と同年輩の女性だった。

 見るからに芯がしっかりしていそうな、くっきりとした顔立ちをしている。彼女の姉だろうか。

 その人は、全く隠すことなく憤怒の表情を露にしていた。

「今更、何をしに来たんですか!」

 内心怯みながらも、会社人としての務めを果たすべく言葉を継ぐ。

「お参りが遅くなり、大変申し訳ございません。

 弊社からのお悔やみもお渡ししたく思いますので、小枝子さんのお母様にお取り次ぎ願えませんでしょうか」

「お断りします」

 一言で切り捨てられた。

 遺族の固い意志により、会社関係者は彼女の葬儀に参列することを許されなかった。

 それ程までに、会社とその社員を憎んでいると言うことか……。

 俺の侵入を阻止するかのようにドアの前に立ち塞がる女性の後ろから、年配の女性がこちらを窺っていた。

 堂島小枝子によく似た、優しい面差し。眉根を寄せ、悲しそうに顔を歪めている。

 改めて、遺族の強い悲しみを思い知った。一月経っても、あの日と何ら変わることのない悲しみを、この人達は抱いているのだ。

 これ以上、この人達を苦しめてはいけない。

 今日預かってきた弔慰金は、社内規定によるものだけではなかった。社長からの志と、営業所の男性有志が集めた分が上乗せされている。

 彼女は在籍期間が短いながらも、営業所の面々から好かれていた。有志から少なくない金額が集まったのはその証であると、俺は思う。

 彼らの気持ちを思うと、そのまま持って帰るのは心が痛んだが、この人達の悲しみを思えば、そんな痛みは無いに等しいものだ。

「それでは、日を改めてまた参ります」

 深く頭を垂れて暇を告げてから踵を返し、駅までの道を戻ることにした。

 暫く歩いていると、背後から駆け足の音と自分を呼び止める声が聞こえてきた。

「新城さん、ちょっと待って頂けますか」

 声の主は、玄関先で自分を追い返した女性その人だった。


 少し話がしたいとの女性の意向で、近くの公園に場所を移した。

 古ぼけた遊具、ブランコにベンチ。その公園は、広さも含めて、会社のそばにある小さな公園によく似ていた。

「小さい頃、小枝子とよくここで遊んだんです。さえちゃん、ちーちゃんって呼び合って」

 懐かしそうに目を細めて言った後、ハッと気付いたようにその人は名乗った。

「申し遅れました。私、小枝子の友人の田川千紗と申します」

 彼女が堂島小枝子の姉ではなかったことに少し驚いたが、彼女が親友のことを『姉のような存在』と表現していたことに思い当たり、納得する。

「先程は感情的になってしまって、すみませんでした。

 ご家族も私も、小枝子が亡くなったことをまだ受け入れられなくて……」

「小枝子さんと近しい方々なら、それは当然のことだと思います。あんなにいい方だったのに、私もとても残念に思っています」

 本心からそう告げると、田川さんは一息ついてから言葉を発した。

「小枝子が亡くなる前、会社で何があったんですか?」

 答えに詰まっていると、田川さんはそのまま続けた。

「以前は楽しそうに会社のことを電話してきたのに、このところ連絡が途絶えていたんです。

 毎年お正月には帰省してたのに、今年は帰ってこなくて。

 亡くなる前日、久々に小枝子と話ができたんです。はっきりとは言わなかったけど、会社関係のことで悩んでるんじゃないかって思いました。

 亡くなった当日も連絡をくれていたんですが、私、電話を取ることができなくて……。

 何を言い残したかったんだろうって、悔やんでも、悔やみきれないんです」

 堂島小枝子が背負っていた苦しみは、姉のように慕っていた親友にも言えない程の重さだったのか。

「事故の後、ご家族の元に戻ってきた小枝子に会った時、驚いたんです。

 ふっくらしていた小枝子が、あんなにやつれてしまってて。

 どんなに悩んでたんだろうって、一番辛い時に、どうしてそばにいてやれなかったんだろうって、そればかり考えるんです」

 何も言えなかった。

 もともと女性の容姿には疎い方だが、彼女の風貌がそんなにまで変化していたことに、気付くことさえできなかったとは。

「小枝子は、新城さんのことは本当に楽しそうに話してくれたんです。

 尊敬して、慕っていることが伝わってきました。

 新城さん、どうして、小枝子のことを助けてくれなかったんですか」

 真っ直ぐに問い掛けられた。

 静かだが、自分を目掛けて放たれた矢のように、心に突き刺さる言葉だった。

 そしてそれは、自分で自分に問い続けていた言葉でもあった。

 どうして彼女を助けられなかった? どこまでボンクラなんだ、俺は。

「ごめんなさい。新城さんを責めても仕方ないですよね。

 小枝子もきっと、新城さんを責めないでって言うだろうし」

 ……優しくて真っ直ぐで、強い人だと、この短い会話の中でも伝わってくる。

 こんな人こそ、彼女のそばにいるのに相応しい人であった筈なのに。

「申し訳、ありませんでした」

 詫びる言葉と共に、深々と一礼することしか、俺にはできなかった。

 言いたいことを言い終わったからか、田川さんの表情が、少し和らいだ。

「眠ってる小枝子の顔、とても綺麗で、何だか微笑んでるみたいでした。

 それまでに辛いことがたくさんあったとしても、最期のその時はしあわせだったのかなって思えて、ほんの少し、救われたんです」

 微笑みながらも目尻に涙を滲ませたその表情は、彼女の悲しみの深さを物語っていた。

 別れ際、改めて会社からのお悔やみの包みを田川さんに託した。

 彼女が同僚達から好かれていた証でもあるからと告げると、断らずに受け取ってくれた。

 この人なら、自分達の思いも含めて、必ずご家族に届けてくれるだろう。


 彼女の故郷を後にし、ふらりと営業所近くの公園に足を向けた。

 小さなベンチに腰掛ける。

 ある日の昼休み、ここに座っていた彼女を見かけたことがある。

 彼女は、何をするでもなく、無表情にただポツンと座っていた。

 俯き加減に肩をすくめたその姿は、やけに小さく見えた。

 自分がこの営業所に配属された頃の明るい彼女とは全く違うその雰囲気が気になり、その数日後、食事に誘ってみた。

 彼女がとても我慢強い質だとわかってはいたが、食事の時にも本音を引き出すことができず、そうこうしているうちにあの出来事が起こってしまった。

 警察は事故だと判断したが、関係者で本当に事故だったと納得している者はいないだろう。

 現に、田川さんも納得していなかったようだ。

 会社の人間関係を苦にした自殺。

 ある程度事情を知る周囲の人間の見解は、一致していた。


 きっかけは、女性事務員の入れ替わりがとても激しい営業所があるとの報告が上がってきたことだった。

 先代の教えを守り、従業員を大切に思っている若社長から、詳細を調査するよう命を受け、この営業所に赴任してきた。

 しかし赴任してみると、女性達はみな和やかに仕事をしているようだった。

 宮沢明美の有能さとリーダーシップは素晴らしいと思えた。

 志田ゆかりは淡々と効率良く仕事をこなすタイプ。

 堂島小枝子は周りに気配りのできる人柄と、慎重な仕事振りに好感が持てた。

 毎朝事務室の掃除をして気持ちよく整えたり、外回りから帰った営業達にお茶を出し労いの言葉をかけたり、彼女の心遣いは営業所の癒しになっていた。

 男性営業達に個別にコンタクトを取り、さり気なく内情を引き出そうとしたが、当たり障りのない返答しか返ってこず、問題点がなかなか見えてこなかった。


 しばらくすると、志田ゆかりが堂島小枝子に少し厳しい物言いをしていることに気付いた。

 それまで堂島小枝子に優しく接していた宮沢明美も、彼女をフォローする素振りを見せない。

 そして、女性二人から、堂島小枝子のミスについてメールでの報告が次々に上がってくるようになった。

 何故急に? と思ったが、堂島小枝子のミスは更に重なり、俺の目の前で宮沢明美に注意されることも何度かあった。

 堂島小枝子が席を外している時、宮沢明美に状況を尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「丁寧に教えてきたつもりなんですけど……。指導に付いてきてくれなくて、残念に思ってるんです」

 堂島小枝子の仕事振りは堅実で正確だった筈なのに、どうしたんだろうと不思議に思っていた時、同期の亀井から話があると呼び出された。


 営業所を抜け出し、外回りの途中である亀井と喫茶店で落ち合った。

「堂島さんのこと、なんとかフォローしてやってくれよ」

 開口一番、亀井はそう言った。

「フォローって?」

 聞き返すと、

「うちの女子達さ、ややこしいんだよ。いわゆる、女同士特有のドロドロってやつ?」

 努めて軽い言葉にしようとしていたが、亀井の目は真剣だった。

 こいつは、俺なんかよりずっと人を見る目がある。新人教育の時から鍋島さんがとても高く評価している、彼持ち前の才能だ。

 同じように鍋島さんから教えを受けたのに、俺は営業には向かないと判断されて、本社勤務になったのだ。

「堂島さんのこと、頼んだよ」

 亀井の言葉を胸に刻み、営業所に戻った。


 その日の夜、鍋島さんを誘って久しぶりに飲みに行った。

 本社近くの、亀井も入れて三人でよく飲みに来た居酒屋だった。

「営業所の中で、何か気になることはありますか?」

 それとなく水を向ける。

「女子三人の関係が聞きたい?」

 さすがは鍋島さん、ズバリ核心を突いてきた。

「何でもお見通しですね。

 鍋島さんの目から見て、彼女達の関係はどうですか」

 指先で顎を掻きながら、難しい顔をして鍋島さんは言う。

「何だかんだ言って、俺達営業は外に出てしまうから、その間に事務室で何が起こっているのか実際のところはよく分からねぇんだ。

 ただ、新人事務員が長続きしないことと、宮沢と志田が曲者なのは事実だ。

 あいつら、外野には悪事の尻尾を掴ませないように上手く猫被ってるけど、事務員が辞めていくことと無関係とは思えねぇからな。

 特に宮沢は気が強くて我儘だから、同年代の女の子は付き合いが難しいだろうな」

 ほとんど営業所にいないと言いながら、女性達のことをしっかり見抜いている。

 営業畑三十年のキャリアが培った観察眼のなせる技なのか。

 いや、違う。

 例え女性二人が尻尾を出していなくても、亀井や他の営業達だって、女性陣の不穏な空気には気が付いているのだ。

 亀井以外は、事を荒立てたり、女性二人を敵に回したりするのは得策でないと判断して口をつぐんでいるのだろう。

 営業所で仕事をしていく限り、宮沢達の助けを借りない訳にはいかない。

 自分の立場を守るために、厄介事は避けて通りたいと思う彼らを責めることは、俺にはできない。

 結局彼女を助けられなかった俺は、彼らの同類だから。

 彼女を見捨てたのも同然だから。


 宮沢達には、また別の問題もあった。

 二人が本部長に媚びを売っていることには気付いていた。

 本部長はそれに気を良くして、二人を可愛がっている。

 そして、二人の媚は、俺にまで及んだ。

 二人共恋人がいると聞いていたのに、二人きりでに飲みに行こうと誘われた時には驚いた。

 宮沢と志田、別々のタイミングで誘ってきたのだが、両者共何とか理由を付けて断った。すると、このことは内密にとしつこいくらいに念を押された。

 互いに気付かれないよう、牽制し合っているのだろう。

 本部長にも同じようにしているのではと、容易く想像できる。

 ここまでくると、女性同士の関係には疎い自分でも、宮沢と志田が本当に仲が良い訳ではないことに気付いた。

 堂島小枝子は女性二人の鞘当てに巻き込まれてしまったのではないだろうか。

 お互いへの不満の捌け口が、無関係であるはずの彼女に向かってしまったのでは……。


 そう目星をつけたものの、明確な証拠はない。

 堂島小枝子からの証言を得ることもできず手をこまねいているうちに、あの日を迎えてしまった。

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