小枝子 7

 十二月二十四日。

 女性陣二人は、夜は彼氏とデートだと報告し合っていた。

 朝からソワソワ仕事をし、終業を告げるチャイムと共に帰って行った。

 それを見送りながら、自分も帰り支度を始めようとした時に、新城さんから声をかけられた。

「堂島さん、明日までに仕上げておきたい資料があるんですが、手伝ってもらえませんか?」

 明日までの急ぎの仕事、残業してまでやらなくちゃならないとは。ボリュームはどれくらいだろう。

 不安に思いつつも、予定がある訳でなし、断る理由もなかったから了承した。

 説明を受けて、黙々と数字を入力していく。

 すると、どうしたことか三十分後には全ての入力がわってしまった。

 二回見直しをして、チェックをお願いする。

 新城さんはサッと目を通し、こう言った。

「OK。いつもながら完璧ですね。ありがとう。

 もしよかったら、これからご飯食べに行きませんか? お礼に奢ります」

 新城さんには驚かされることが多いけれど、今回程、口から心臓が飛び出そうになったことはなかった。

 咄嗟に言葉が出てこず、小さく頷くのが精一杯だった。

「よかった。この近所に行きつけの店があるから、そこに行きましょう。

 美味しいですよ」

 二人で会社を出る。まさか自分にこんな少女漫画みたいな展開が訪れるとは……。

 でも、先導する新城さんの後をついて行きながら、胸の中は高鳴るどころか沈んで行くばかりだった。

 新城さんの行きつけなんて、お洒落すぎるお店だったらどうしよう。粗相して新城さんに恥をかかせたりしないだろうか……。

 そんな心配ばかりが心を塞ぎ、自然と下を向いてしまう。

「着きましたよ」

 新城さんの声に顔を上げると、目の前にあったのは大きな赤提灯だった。

 胴体には豪快な筆文字で『酒処』と書かれている。

 どうやら昔ながらの居酒屋さんらしい。

 入り口の上に一枚板の看板が掲げられている。これまた豪快な筆文字で黒々と記されているお店の名前は『お魚天国』。

 真面目なのかふざけているのか、少し判断に迷うネーミングだ。

 新城さんのイメージとのギャップに目を丸くしながら、暖簾をくぐった。

「ああ、新城さんいらっしゃい」

 えびす顔の親父さんが親しげに声を掛ける。

「どうも。今日のオススメの魚は何ですか?」

 カウンターに腰掛けながら、新城さんも親しげに答えている。

 いいのかな、隣で。カウンターだからしょうがないよね。

 躊躇しながら新城さんの横に座り、店内を見回す。

 十人入ったらいっぱいになってしまいそうな狭い店内。どうやら親父さん一人で切り盛りしている様子。

 四人掛けのテーブル二つとカウンターは、節くれ立った天然木の一枚板をピカピカに磨き上げて作られていた。

 カウンターの隅に置いてある小さな達磨や、ちょっと煤けた招き猫の置物、壁一面に貼られた日本酒のラベル。親父さんの手書きであろう、味のある筆文字のメニュー。

 そこかしこにこだわりが感じられる。

 とっても味のあるいいお店だけれど、クリスマスイブに似合うとはお世辞にも言い辛いからか、お客さんは私達以外に一組いるだけだった。

「会社の部下なんです」

 親父さんに紹介され、ぺこりとお辞儀をする。

「新城さんが他の人連れてくるなんて初めてだね。ゆっくりしていって!」

 明るく威勢のいい言葉に、心がホッと寛ぐのを感じた。

「何飲みますか?」

 新城さんに聞かれ

「生ビールを」

 そう答えると、新城さんは少し驚いたように私を見た。

 飲み会嫌いだからお酒は飲まないと思われていたのかな。

 乾杯をしてから一口飲み下した瞬間、あまりの美味しさに驚いた。

 きめ細やかでクリーミーな泡、マイルドなコク。

 泡まで美味しいビールを飲んだのは、生まれて初めてだった。

「美味いでしょう?

 注いでくれる親父さんの腕がいいんですよ」

 新城さんは、美味しそうにジョッキを傾けながら、しあわせそうな笑顔を見せていた。

 新城さんオススメの串焼きや魚の煮付けをつまむ。これまた美味しい。

 食事を美味しいと思えたのなんて、随分久しぶりのような気がする……。

「こちらに赴任してから、お酒と料理が美味しいお店を探しまくったんです。

 何軒目かでこのお店を見つけて、それからはここにしか来なくなりました。

 お店の名前のせいで、実際入ってみるまで随分迷ったんですけどね。

 名前の通り、本当に魚が美味いんです。勇気を出して入ってみて正解でした」

 ちょっと照れ臭そうに笑いながら話す新城さんに、親父さんがツッコミを入れた。

「ちょっとちょっと、入るのに勇気が要るなんて失礼だなぁ! 大真面目に考えてつけた名前なんだからさ。

 魚がウリのうちの店にピッタリでしょ? 『お魚天国』!」

 力説する親父さんが微笑ましくて、二人で吹き出してしまった。

 ひとしきり大笑いした後、ふと浮かんだ素朴な疑問を口にした。

「赴任した頃は、宮沢さん達のお誘いを断るくらい忙しかったんじゃないんですか?」

「確かに忙しかったのもあるけれど、彼女達と飲むと、何だか疲れそうな気がしたから逃げ回ってました」

 ちょっといたずらっぽく笑いながら答えてくれた。

 このお店に来てから、新城さんは会社では見せたことのない顔ばかり見せてくれる。

 きっと、これが本来の彼なんだろうな。

 ビールのジョッキが空き、おかわりを促された。

「日本酒が飲みたいです。

 親父さん、何かおすすめはありますか?」

「はいよ! どういうのがお好みかな?」

「そうですね、最初は香りがあるさっぱりしたのがいいかな。

 あと、どっしりした味わいのも飲んでみたいです」

「おっ、お嬢さんいける口? 嬉しいね!

 じゃ、軽めから重めまで、料理に合わせていくつか選んで、順番に出してあげようか」

「はい!」

 親父さんと私のやり取りを聞きながら、新城さんが目を丸くしている。

「いや、堂島さんが日本酒通なのは意外でした。

 僕は日本酒を飲むと三日くらい残ってしまう体質だから、美味しく飲める人が羨ましいです」

「通なんて、そんなんじゃないんです。

 小学校からの友達が実家の酒屋さんを手伝ってて、美味しいお酒を教えてくれるもので……」

 そう、香りだのどっしりだのは全て千紗の受け売り。

 私の好みを熟知していて、いいお酒が入荷すると送ってくれたりしているのだ。

「いいですね、子どもの頃からの友達と今でも仲がいいなんて」

「自慢の親友なんです。同い年なのに、姉みたいな存在で」

「ますますいいですね。心を許せる友達は、一生の宝物だと思います」

 そんな風に言ってもらえて、なんだかすごく誇らしかった。

 思い切って、気になっていたことを聞いてみる。

「今日はどうしてお食事に誘ってくださったんですか?

 仕事を頼まれたのが口実だってこと、鈍い私でも分かります」

 こんな口を聞けたことに我ながらびっくりした。

 このお店と、素の新城さんの雰囲気のおかげかも知れない。

「一度、堂島さんとゆっくり話してみたかったんです。

 会社の飲み会には来られないから、個人的にと思って。でも女性陣がいると何となく誘いづらかったもので。

 今日は二人共早く帰ったから、ちょうどいいと思ったんです。

 仕事のこととか、何か気になることはありませんか?」

 ……そうだよね。

 わかってはいたけれど、今日がクリスマスイブであることに、大きな意味はなかったんだな。うん。

 構えていた自分が少し恥ずかしかったけれど、なんだかすごくスッキリした。

 本気で肩の力を抜くことができた。

 新城さんに、こういう日を一緒に過ごす人がいない可能性にも思い至ったのだけど……、いや、新城さんに彼女がいるかどうかなんて、私には何の関係もないことなんだから。 

 ちょっぴり浮かんだ嬉しい気持ちには蓋をして、なかったことにした。

 酔いが回らないようにゆっくりとお酒を味わいながら、いろいろなことを話した。

 『仕事のこととか』と言われたのに、それ以外の話ばかり。

 多く話したのはお互いの趣味のことだった。私は本や音楽が好き。新城さんはアウトドア派で、キャンプや釣りが趣味だそうだ。

 新城さんは話の引き出しがとても多い人で、私が好きな本や音楽についてもとてもよく知っていて、話が弾む。

 反対に、私が知らない彼の趣味のことも楽しく聞かせてくれて、これまた話が弾んだ。

 そんなところは、彼の新人教育をしたと言う鍋島さんに似ている。

「新城さんて、何でも知ってるんですね。すごく多趣味」

 心から称賛すると、

「中学校からの友達が何でもやりたがる奴で、僕もつられて趣味が広がったんです。

 いろいろ経験したり、何でも知りたいと思うようになったのは彼のお陰だから、感謝しています。

 堂島さんのお友達と同じで、僕の一生の宝です」

 少し照れながらそんな風に話してくれた。

 久々にリラックスして、楽しい時間を過ごすことができた気がする。


 話が途切れた時、何となく言葉を継いだ。

「これまでのんびり生きてきて、友達もいる。仕事にあぶれることもなく、食べるに困らない暮らしができてる。

 今の自分に、私、満足してるんです」

 そう言った時、新城さんの表情が少し曇った気がした。

 まるで、小さな痛みを堪えているような顔だった。

 こちらを見ずに真っ直ぐ前を向きながら、彼は言った。

「……満足なの?」

 丁寧語以外で話し掛けられたのは初めてのことだった。

「本当に、今のままで満足なの?」

 重ねて問い掛けられたけれど、肯定も否定もできなかった。

 その問いに真面目に向き合うことを避けるようにして、生きてきたから……。

 結局答えられずに、質問で返した。

「新城さんは、今のままで満足ですか?」

「満足してないから、足掻いてる」

 即答だった。

 満足していないと言う答えは意外に思えたけど、逆にとても新城さんらしい答えだなと思い直した。

 私みたいに逃げず、真剣に、前を見据えて生きているからこそ、口にできる言葉だ。


 その後は、二人共口数が少なくなってしまった。

 新城さんは何か考え事をしているようだし、自分も新城さんからの問に対する答えを探して、物思いに沈んでいた。

 沈黙の重さに耐え切れなくなり、何か言わなくちゃと思うのに、結局何も言えなくて。

 ……つまらないと思ってるんじゃないかな。私を誘ったこと、後悔してるんじゃないかな。

 せっかく時間を割いてくれたのに、申し訳ない。

 『今の自分に満足してる』なんて、新城さんのから見たらレベルが低すぎて失笑ものだよね。

 なんで、こんな自分なんだろう。情けなくて仕方ない。

 

 程なくして、新城さんが言った。

「だいぶ遅くまで付き合わせてしまいましたね。すみません。

 そろそろ帰りましょうか」

 寂しさもあるけれど、今は、この状況から解放されることへの安堵の方が勝っていた。

「お嬢さん、また来てよ!」

 親父さんの明るい呼びかけに、ぎこちなく頷く。きっともう来ることはないだろうと思いながら。


 家まで送ると言う新城さんの申し出を断り、一人でゆっくり歩きながら帰ることにした。

 ……嫌われてしまったかな。

 思っていた以上に、新城さんの存在を心の拠り所にしていたことに気付く。

 その拠り所すら、こんな情けない自分だから、無くしてしまったんだ……。

 深い悲しみで心が埋め尽くされていく。

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