小枝子 4
歓迎会から十日程経ったある朝。
いつも通り早めに出社して事務室のドアを開けると、既に誰かがデスクについていた。
大抵は私が一番乗りなのに、先客がいるとは珍しい。そして、あのデスクはある人のために作られた席、ということは……。
あれこれ思いを巡らせていると、その人物が振り向き、真っ直ぐにこちらを向いて会釈をした。
「おはようございます」
よく通るバリトン。響きがあって耳に心地いい声だ。
座っていても、細身の長身であることがわかる。
太い眉、切れ長の目に通った鼻筋。少し癖のある短めの黒髪をラフなオールバックにしている。
『精悍』と言う言葉がこれ程ぴったりな人もいなかろうという風貌だ。
シンプルだけど仕立てのいいスーツがスタイルのよさを引き立たせている。
張りのある生地のワイシャツに、光沢のあるシックな色合いのネクタイ。さりげない中にもお洒落さを感じさせるコーディネートだった。
「はじめまして。新城彰です。
堂島さん、ですよね? 今日からよろしくお願いします」
予想していた通りの人物からいきなり名前を呼ばれ、ちょっとどぎまぎしてしまった。
でも、こちらも新城さんのことはきっちり聞き込み済み。
歓迎会がお開きになった後、鍋島さんを捕まえて、聞き出したのだ。
「シンジョウさんって、何者なんですか!?」
鍋島さんによると、新城さんは本部長の言う通り、我が社のエース。
三十五歳の若さながら次期幹部候補と目される切れ者で、本社では既に若社長の右腕を任されているそうだ。
「彼が入社した時には、俺が新人教育したんだけどね。今じゃ月とすっぽんだよ」
鍋島さんは苦笑しながらそんな風に言っていた。
そんな彼が、なぜこのタイミングでこの営業所に赴任してきたのかは、情報通の鍋島さんでもわからないとか……。
『新城彰』と言うフルネームと漢字もこの時教えてもらった。調査は完璧!
「おはようございます。堂島小枝子です。
まだまだ至りませんが、ご指導よろしくお願いいたします」
落ち着いて挨拶を返し、丁寧にお辞儀をする。
……よっしゃ! 志田さんとの初対面の時より上手く言えたぞ!
心の中でガッツポーズを取った。
もちろん、そんなことはおくびにも出さずに、習慣になっている事務室の掃除を始めた。
掃除と言っても、床に軽く箒で掃き、デスクを拭くだけの簡単なものだ。
何となくスッキリして気持ちがいいし、誰に言われた訳でもないけれど、入社翌日から毎日続けている。
そんな私を観察するような視線を、新城さんの方から感じる気がするけど……、多分、気のせい。
そうは思ってもどうにも落ち着かなくて、いつもよりかなりの手抜き掃除で終わらせてしまった。
私たちが仕事をしている事務室には、デスクの島が二つある。
一つは男性営業さん達の島、もう一つがデスク四つで構成されている女性陣の島だ。
先週までは、宮沢さんと私が隣同士、宮沢さんの向かいに志田さん、その隣の空席は共有の物置きとして使っていた。
その空きデスクを宮沢さんと志田さんの横、いわゆるお誕生日席の場所に移動して、新城さんの席が作られた。
女性陣は新城さんに横顔を見せながら仕事をすることになる。
あまり近すぎると緊張してしまうけれど、宮沢さんが間に入ってくれるから問題ないだろう。
……そう思っていたのに、今は何の遮蔽物もない状態。
見られているはずないのに、そこに彼がいると言うだけで気になってしまう。
我ながら何たる自意識過剰! 雑念は振り払って、今日の仕事の準備をしなくちゃ。
意識を目の前の仕事に集中するよう頑張ってみるけれど、なかなか難しい。
落ち着かなくて、なんとも居心地が悪い。
そうこうしているうちに志田さんが出社し、新城さんと親しげに挨拶を交わし始めた。同じ空間に二人きりと言う状況から解放され、内心ホッとする。
少し遅れて宮沢さんが現れた。
「新城さん、おはようございます!
これから一緒にお仕事できるなんて、嬉しいです」
いつものように明るく甘い声で挨拶する。
「こちらこそ、みなさんと一緒に仕事ができて光栄です。
宮沢さん、志田さん、これからよろしくお願いします」
新城さんの返事はとても礼儀正しく、爽やかだった。
その日は、宮沢さんが営業所の現況と業務について新城さんに説明することに時間が費やされた。和やかな雰囲気で楽しげにやり取りをしている。
宮沢さんは職歴が長い上に頭の回転がいいから、本当に仕事ができる。
物怖じせず、新城さんと対等に話ができるのはさすがだな。私には到底真似できない。
宮沢さんが通常業務に入れない分、私に仕事が回ってきたけれど、ミスなく終えることができて一安心。
いつもより宮沢さんの役に立てたことが嬉しくて、満足感でいっぱいだった。
帰り道の足取りがこんなに軽かったのって、入社してから初めてかも知れない。
その夜、また千紗に電話をかけた。新城さんのことを報告せねば!
電話が繋がると、挨拶もそこそこに新城さんのことを喋りまくった。
どんな風貌か、どんな立ち居振る舞いをしていたか……。
「小枝子が男の人のこと、そんなに熱く語るなんて珍しいね」
千紗に笑いながら指摘されて、ハッとした。
「だって、人の雰囲気を一目で見抜くの得意だもん。昔から人間観察が趣味だったから」
言い訳にもならない返事でごまかしたけど、照れ隠しだってこと、千紗にはバレたかな。
たった一日同じ空間で過ごしただけで、新城さんに心惹かれている自分に気がついていた。
仕事ができて、礼儀正しくて爽やかで……、新城さんは、まるで少女漫画出てくるヒーローみたいにステキな人だ。
でも、新城さんは私なんかが憧れてはいけない雲の上の人。
だけど、手が届かないからこそ、憧れてしまうことって、あるよね……。
数日経ち、宮沢さんから新城さんへの説明も一通り終わったようだ。
業務内容を把握し終えた新城さんは、本来の自分の仕事に取り掛かれるようになったらしい。
軽やかにキーボードを打ち、本社の部下にも電話でてきぱきと指示を出す。
さすが切れ者と言われるだけのことはある仕事っぷり。
宮沢さんと志田さんも、客先と電話でやり取りして忙しそうにしていた。
私は宮沢さんから振られた処理を終えて少し手が空いたところだった。
みなさんにお茶出しをするため席を立った。
新城のデスクにお茶を置いた時、彼は仕事の手を止め、何か考えごとをしているようだった。
新城さんはお茶を一口飲んでから口を開いた。
「一つ、お願いがあるんです。
毎月末本社に提出する資料があって、そのまとめを手伝ってもらいたいと思っています」
当然宮沢さんがやるんだろうな。他の女性二人もきっとそう思っていただろう。
ところが、彼の口から驚くべき言葉が発せられた。
「堂島さん、お願いできますか?」
えええええ! 心の中では大絶叫してても、人はびっくりしすぎると声が出なくなるものなんだと、身を持って知った。
私と同じくらい驚いている様子の宮沢さんが慌てて言う。
「え? なんで堂島さんに? 私がやりますよ?」
「いえ、簡単な処理だから、宮沢さんの手を煩わせることもないと思うので。
宮沢さんも志田さんも忙しそうですが、堂島さんは少し余裕がありそうですし。
月末だけ、少し時間をください」
最後の台詞は明らかに私に向かって放たれていたが、どう返事していいかわからず硬直してしまった。
「新城さんがそう言うなら、堂島さんやってみたら?」
落ち着いた声で宮沢さんが促してくれて、私はおずおずと頷いた。
のんきにお茶汲みなんかしてたからよくなかったのかなぁ……。
せっかく新城さんから仕事を振られたのに、嬉しさよりも戸惑いの方が圧倒的に大きかった。
そして運命の月末がやってきた。
「堂島さん、今いいですか」
仕事をしていたら、新城さんに声をかけられた。
「は、はい!」
緊張のあまり体が強張るのを感じる。
こんなにもプレッシャーに押し潰されそうになるなら、最初から断っておけばよかった……。
かなり後悔しながら、新城さんのデスクに向かう。
新城さんから説明を受けた後、資料のまとめに取りかかった。
恐る恐る作業を始めてみたら、新城さんの言う通り、そんなに複雑な内容ではなかった。
データ量がかなり多かったことと、初めて故に少し手間取ったものの、その日のうちに作業を終え、二度内容を見直してから新城さんに提出した。
彼は資料にじっくりと目を通し、細かくチェックしている様子。
どうか、ミスがありませんように……。
祈りながらチェックが終わるのを待っていると
「……OK。完璧ですね。
堂島さん、ありがとうございました」
クールな笑顔と共に嬉しい判定が下された。
よかったぁ……。心底安心して、自然と笑顔がこぼれる。
ふと宮沢さんの方を見ると、彼女も私を見ていた。
「堂島さん、よかったね。お疲れ様」
いつもの優しい笑顔と甘い声で労ってくれた。
「はい、ありがとうございます」
返事をしながら、心の中に何かが引っ掛かるのを感じる。
気のせいか、声をかけてくれる前に、一瞬不自然な間があったような……。
それに。
目が合ったときの宮沢さんの顔、どうしてあんなにも無表情だったのだろう?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます