小枝子 2

 初出勤の日は、めちゃくちゃ緊張した。

 服装は地味目なスーツにパンプス。

 転職活動を始めた時、久々にスーツに袖を通した。大学の卒業式で着て以来だから、五年ぶりくらいのことだった。

 前の勤め先はカジュアルな服装で通っていたから、まだまだ慣れない。

 ストッキングも窮屈だし、低めのヒールを選んだものの、堅苦しい格好はやっぱり疲れる。

 かなり早めに会社に着いた私を、本部長が出迎えてくれた。

「堂島さん、おはようございます。今日からよろしく頼みます」

 採用面接をしてくれたのがこの本部長だった。

 まだ短い時間しか接していないけれど、威圧的な雰囲気を持つこの人のことが、私は少し苦手だ。

 言葉遣いや態度は丁寧なのに、どこか人を軽く見ているのが透けて見える気がする。部下を率いて仕事をしている立場だから『上から目線』なのは当たり前なのかな。

 この人に対する態度には気をつけなくてはいけないと、心の中で身構える。


 それほど広くはない営業所の中を案内してもらいながら、一通りの説明を受ける。

 新しく勤めることになった会社の名前は、松村商事。

 先代社長が一代で築き上げた会社で、『商事』と名前はついているけれど、何でも扱う昔ながらの卸問屋と言う感じ。

 何年か前に若社長に代替わりして、先代は会長職に退いているそうだ。

 私が勤めることになった営業所に在籍するのは、外回りの男性営業五人と、女性事務員二人。

 都内にいくつか営業所があり、それら全てを統括するのがこの本部長だそうだ。会社の中枢を握る役職は、いかにも押しが強そうなこの人にとても相応しく思えた。

 普段はこの営業所ではなく本社にいる彼だが、新入社員を迎えるために今日はこちらに出社してきてくれたそうだ。

 新入社員と言っても、今日新たに入社するのは私一人だけらしい。

 今年二十八になる、ちっともフレッシュじゃない女のためにわざわざお越し頂いたとは……、なんだか申し訳なくなってしまった。

 営業所巡りの最後に、ロッカールームへと案内された。私物や着替えを置けるスペースがあるという。

 丁寧に案内してくれたおかげで、会社組織や営業所内のことが一通り理解できた。

 苦手なタイプなんて思ってしまったけれど、意外と親切な方なのかも。

「ご説明とご案内、ありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をして、お礼の気持ちを伝えた。

「早く慣れて、先輩達と一緒にバリバリ働けるようになってください。

 もう少ししたら営業所の面々が出勤してくるから、朝礼をやります。

 私はそれまで喫煙所で一服してくるから」

 軽く手を振りながら立ち去る本部長を見送り、ノックをしてからロッカールームのドアを開けた。

 ドアの内側、すぐ目の前に一人の女性が立っていた。

 誰かいるとは予想していなかったから、驚きで心臓が飛び跳ねた。

「おっ、おはようございます」

 動揺を取り繕いながら挨拶したら、思わずどもってしまった。得意の笑顔もひきつっていたと思う。

 その人はドア横の壁に設置された姿見で身支度を整えていらところだったらしい。

 たぶん、先輩事務員のうちの一人だろう。私と同じくらいの年齢に見える。

 細身の体に艶のある長い黒髪、涼しげな目元が印象的な美人だった。

 彼女はまだ動揺が収まらない私を一瞥した。

 冷たい色の目線で値踏みし、一瞬にして私を『格下』と認定したらしく、小さく顎を引くだけの会釈で挨拶を終わらせた。

 あまり歓迎されてないような気がする……。そんな受け止め方をしてしまったのは、彼女が私の苦手とするタイプだったからだろうか。

 派手目な化粧、綺麗に彩られた長い爪、強い香水の香り。

 今までの人生であまり関わりを持たないようにしてきた人種だ。

 胸の中に湧き上がるぼんやりとした不安を掻き消すように、快活なノックの音が響き渡った。

「おはようございまぁす!」

 明るい挨拶と共に、もう一人の女性が現れた。

 背が高く、グラマーであることが一目でわかる。私より少し年上だろうか。

 肩までの髪を緩く巻き、大きな瞳をきらきらと輝かせている。女の私でも目を奪われてしまうような雰囲気を身に纏っていた。

 彼女は私に目を止めると、にっこりと微笑んだ。

 見惚れる程に美しく、優しい笑顔だった。

「あなたが堂島さん?

 私、宮沢明美です。今日からよろしくね!」

 そう挨拶され、自分がまだ名乗っていないことに気づいて慌ててしまった。

「おはようございます! 堂島小枝子と申します!

 今日からよろしくお願いいたします!」

 言い終わると同時に、勢いよく深々と頭を下げた。

 私の前のめりな自己紹介に驚いたのか、顔を見合わせる先輩二人。

 宮沢さんが弾けるように笑い出し

「そんなに緊張しなくていいから!

 あ、こっちは志田ゆかり。確か堂島さんと同い年よ」

「志田ゆかり、もうすぐ二十八歳でーす!

 同い年ってことで、よろしくっ!」

 先程の冷たい雰囲気が嘘のような明るい笑顔と気さくな口調で挨拶する、細身の彼女。

 変わり身の早さにびっくりしつつも、見た目が派手だから苦手なんて思って、偏見だったかなと、少し反省した。

 この年になって新しい人間関係を築くのはちょっぴり不安だったけれど、この明るい人達なら、大丈夫かな……。

 ホッと胸を撫で下ろした。


 二人の先輩への挨拶が終わったところで、始業時間になった。

 先ほどの本部長の予告通り、朝礼が行われた。まずは本部長の挨拶から。

「おはようございます。まずは会社全体と各営業所の売上の状況を簡単に説明します」

 しばらく話しが続いた後、本部長が私に目を向けた。

「みなさんご存知の通り、今日から新しい仲間が入りました。

 堂島さん、前に来て一言挨拶して」

 初日だから、そう言われるとは予想していたけれど……、目立つのは嫌だな。この場から逃げ出したい。

 でもそんな訳にはいかないから、とりあえず前に出た。

「本日からお世話になります、堂島小枝子です。

 ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」

 大勢の前で話すのは苦手だ。緊張のあまり声が震えてぎこちなくなってしまう。

 二十八にもなって情けないと思うけれど、昔から、太めな体に似合わず蚤の心臓なんだよね……。

 続けて本部長が営業所のメンバーを紹介してくれたけれど、一人ずつ順番に名前を教えるくらいのあっさりしたものだった。

 全員の顔と名前を把握する暇もなく、男性営業達は三々五々外回りに出掛けていった。

 本部長も本社に戻るそうで、営業所には女性三人だけが残った。

 男性達は外を飛び回っているため社内にいることがほとんどなく、日中は毎日この状態になるそうだ。

「最近忙しくなってきたから、堂島さんが来てくれて助かったわぁ」

 宮沢さんが甘い声と笑顔で話しかけてくれた。

「本格的な事務は初めてなので、お役に立てるかどうか……」

 不安な気持ちを正直に伝えると

「大丈夫、みんな初めてはあるんだから。私がいろいろ教えるから、安心してね」

 宮沢さんのフォローに、少し気持ちが軽くなる。

「ありがとうございます。がんばります!」

 昔から真面目ながんばり屋さんと称されてきた堂島小枝子、本気でがんばりますよ!

 改めて、心の中で決意を固めた。


 その日の夜、千紗に電話をかけた。

 何か目新しいことがあると千紗に報告するのが昔からの習慣だった。

 同い年なのに、私の中で千紗はどこか姉のような存在になっている。

 呼び出し音が途切れ、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「華のOL生活はどう?」

 開口一番の台詞に苦笑しながら、初日の出来事を報告する。

 宮沢さんは女の私でも憧れる程魅力的な人だと言うこと、志田さんはちょっと苦手なタイプかも、と言うこと……。

 ふむふむと相槌を打ちながら聞いていた千紗は

「まだ初日だから、あんまり決めつけたり考え込んだりしない方がいいね。

 小枝子は小枝子らしくいるのが一番だよ!」

 いつもそうしてくれるように、力強いエールを贈ってくれた。

 芯がしっかりしていて、明るく真っ直ぐで、いつも私のことを見守ってくれている。そんな千紗に、何度励まされたかわからない。

 家業を継ぐべく奮闘している千紗。彼女と話しているととても刺激を受け、自分も頑張ろうと、自然に元気が湧いてくる。

 『こうありたい』とか、理想の自分像とか、あまり考えたことのない私なのに、千紗を励ましたり支えたりできる存在でありたいと、結構本気で思っていたりする。

 そんな風にお互いを励まし、思い合える親友がいて、私は本当にしあわせ者だ。

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