day1-1 歩く理由
夢の影響か、刺すような痛みが残る頭を擦りながらキッチンへと向かう。頭痛以外はいつも通りの朝だった。
顔を洗い、寝癖を治す。なんだか鏡に映った自分の顔が、とても疲れているように見えた。大変そうだな、と他人事のように考えながらキッチンへ向かう。
今日の朝食は、いつもどおりパンとミルクだな。
窓から差す日差しの鋭さが、毎日、少しずつ気温が上がっているのを実感させる。その眩しさに目を細めながら、僕は朝食の用意に取り掛った。テーブルに置いてあった丸いパンをトースターに入れつつ、冷蔵庫を開ける。ミルクはどこだ。
冷蔵庫の中にミルクが見当たらない。そうだった、昨日飲んだミルクが最後だったのを忘れていた。
焼けたパンの香ばしい匂いが、トースターから漂ってくる。この匂いを嗅ぐだけで人は幸せになれるらしい。あぁ、お腹空いたな。仕方がない、ミルクを飲みに行こうか。
焼けたパンを加え、僕は家を飛び出す。玄関を開けた瞬間、パンの香りと夏の草木の香りが混ざり合った。
今日も良い天気だ。
パンを食べ終わると、思わず走り出す。風を切っているこの感覚が気持ちよかった。
僕はそのまま走り、本日最初の目的地である『オアシス』に向かった。ほどなくして到着すると、少しだけ呼吸を落ち着かせ、『オアシス』の扉を開いた。開いた扉からひんやりとした冷気が漂ってくる。
「こんにちはマスター、いま大丈夫?」
「誰だ……ってミナトか。おう、いつもより早いな、適当に座ってくれ」
「なぁ、マスター。このバーは、何でいつもこんなに世紀末の酒場っぽいんだ?」
開店前の店に入ると、すでに店内には客が数人いた。入って右側には、L字のカウンターがあり、店の奥まで机が伸びている。僕は、いつも通りカウンター席に座る。丁度、カウンターの真ん中あたり。他の客は、僕の後ろにあるテーブル席に座っていた。
そして、その客らは皆、僕らとは少し違う目つきをしている。言葉では言い表せないけれど、何かを憎んでいるような目。僕は、こんな目をした人たちをこの『オアシス』で時々見かける。これでは、バーっていうよりも、荒くれ物が集う酒場みたいではないか。
「こいつらは俺の取引先だ。バーっていうのは色々仕入れが大変だからな」
そう言いながら、マスターが席の前に来る。実はこのマスターが一番荒くれものっぽいのだが、それは言わないでおく。今時、普通に生活をしていたら、顔に大きな傷跡なんかつかないよな。
「へー、でも、何を仕入れてるかは聞かない方がよさそうな人たちだな」
「まあ、大したもんじゃねぇから気にするな。気になるなら聞いてみればいいけど」
笑いながら、「聞けばいいだろ」なんて言ってくるが……どうしようか。
いや、聞かないでおこう。っていうか初対面で、しかもあんな目をした人たちに聞けないだろ。
「それで、いつもより早いがどうした。暇なのか」
「それがさ、朝から最悪なんだよ。久しぶりに正夢を見て頭が痛いし、さらに冷蔵庫にミルクが無いし。踏んだり蹴ったりだよ。ということでミルク貰いに来たの。くれない?」
「えっ、ミルク? ヤギのやつか?」
一瞬だけ、店内にピリッとした空気が流れる。一体どうしたのだろうか。何か悪い事でも言ってしまったのかと思い返しても、全く心当たりがない。まさか、ミルクって単語でこんな空気にはなるわけないし、正夢を見たって言ったからか? んー、よく分からないな。
こういうときは気付かないふりが一番だと思い、話を続けようと決めた。
「どうしたのマスター、ヤギのミルクなんてあるのか? 変なの仕入れたな。僕はいつもどおりのやつで」
「あー、牛乳でいいのか。ちょっと待ってろ」
待っている間、棚からグラスを出し、ミルクを注ぐ姿を見ている。丁寧に磨かれ並べられたグラスに、丁寧に拭かれたこの木製の机。本当にいつも、体や雰囲気に似合わず繊細な仕事をするなと感心する。
「ほら、牛乳だ」
「ありがとう、いただきます」
「それ飲んだら、いつもどおり仕事手伝ってくれよ」
「任せて」
グラスに口を付けてミルクを飲む。
喉を通るミルクが冷たくて、美味しい。暑い日差しの中、ここまで来た甲斐があったと思う瞬間。
これを飲み干したら手伝いか。果たして今日は、どんな仕事を手伝うのか。
「そういえばミナト、お前、正夢を見たのか」
「んー、そうだよ」
「そっか、どんな内容だった」
「マスター珍しいね、人の夢に興味を持つなんて。それで夢の内容は……」
――雨の中、びしょ濡れで立っていた僕と、遠くに見える崖。
ここはどこだ、と自分の居場所を確認しようとしていた次の瞬間、前の崖が崩れていた。
そして夢の終わりは、崩れ落ちる崖と一人の少女が見えただけ。僕はそれをただ見ていた。
「だいたいこんな感じだったかな」
「本当にそれは正夢なのか? ただの夢とかじゃないのか」
「いや、あの感覚は正夢だよ。マスターだって、正夢くらい見るから分かるでしょ」
「まあ……な。それで夢の女の子ってのは幾つくらいだった」
「たぶん、15~18くらいじゃないかな。僕と同じくらいだったし」
「ふーん。そういえばお前、今年いくつになったんだ」
「16だよ。マスターは?」
「そっかそんな歳に。お前と出会ってから10年経ったのか、早いな」
僕がここに来てから10年経った。
長いようで短い10年。その中で色々あったが、逆にそれよりも前の記憶が無い。10年前、僕が『オアシス』の扉の前に立っていた時は、自分の名前と年齢くらいしか覚えてなかったらしい。
と、まぁこんな話は別に必要ないか。
「ちなみに俺は42だ、一日一日が早くて困るわ」
「マスター、その感想は爺臭いよ」
「うるせぇ、っていうか、今日から一番近い雨の日って……今日含めてあと4日だぞ」
「だね。その日までに、その場所を見つけておきたいんだ。この辺りで崖のある場所、知らない?」
そう、あと4日。そこまでには、夢の場所を特定しておきたい。まあ正夢だし、特定しても、しなくても、結局はそこに行くんだけど。しっかりとした夢の結末を見てないからなのか、ソワソワしている。
何かしなくては、何かしたいと考えてしまう。
「数カ所は知ってるけど、崩れるほどの大きさは無いしな。岬みたいな感じだろ。この地区の図書館にある大きな地図で調べた方が早いんじゃないか」
「確かにそうかもな」
図書館へ行こうかと考えながら、ミルクの最後の一口を飲んでいると、カランと扉が開いた。「おー、ルナ。よく来た、久しぶりだな」と、マスターが喋っているのが聞こえる。どうやら知り合いらしいが、僕には関係ないのであまり見ないようにする。
二人の話を聞く気はないのだが、会話の端々が耳に届く。「あと1週間」や「害虫駆除」、「晴れた港に」などよく分からない単語が聞こえる。所々、聞き間違えてるな、きっと。
二人の会話が終わった頃を見計らい、マスターに声を掛ける。
「今日の手伝いって何をすれば」
「そうだったな、お使いだ。お前、いま家に牛乳無いんだろ。北に二地区の場所にある店へ行ってくれ。そこで牛乳を受け取ってきて欲しい。ちゃんと、後で分けてやるからな」
「二地区か……ギリギリだな。分かった、買ってくるよ。それで地図とか店名とかは?」
「それならこの紙に書いてある、ほらよ。『ミルクをくれ』って、俺の名前と一緒に言えば渡してくれるから」
「ありがと。じゃあ、そろそろ行ってくる」
地図を貰い、行き先を確認した。なぜか目印が二つ付いてるが、店名が書いてあるほうに行けばいいんだろうな。っていうかなんだよ、その店も『オアシス』って名前かよ。
空になったグラスをカウンターの奥に置き、席を立つ。
「あっ、そうだミナト。夕方までに戻ってくるなら先に図書館へ行っても良いし、夢で見た場所を探しても良いからな。その代わり、この荷物を地図の目印に置いてきてくれ」
なるほど、二つ目の印はそういうことか。
「えっ、今回は優しいんだな。とりあえず了解、任せて」
「”今回は”……か。まあ、次の雨が降るまでは優しくしてやるよ。気をつけてな」
そう言い出口に向かう途中、さっきマスターに「ルナ」と呼ばれていた人が目に入る。背中しか見えなかったが、なんか寂しそうな人だなって感じた。
『オアシス』を出ようと扉に手をかけた時、また声がかかる。
「ミナト、最後に一つ。どうして今回、お前は夢の場所を探そうと思ったんだ。どうせ正夢なら探さなくても、同じことが起きるんだろ」
そうだ、実際に探す必要はない。必要は無いんだけれど。
「探さなくちゃいけない気がしたんだよ。夢の最後がまだ決まってない気が。もしかしたら、最後にあの子の手を掴むことが出来るかもしれないって感じたんだ。……いや、違うな。ぜったいに掴みたいと思ったんだ」
そうだ、必死になる理由なんてこれで良いんだよな。
「要するにたぶん、主人公に憧れてるんだよ、僕は。うん、誰かを救える主人公になりたいだけなんだ。ただのエゴだって言われるだろうけど」
「そうか、引き留めて悪かったな。行ってこい、応援してる」
マスターは、そのまま目を伏せ二度とこっちを見なかった。そんな姿に対し、「行ってきます」と呟いて扉を開けた。冷房で冷えた体に、夏の日差しが刺さるように痛い。
でも、やっぱり今日の空は綺麗だな。
まずは図書館に行ってみるか。
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