地に立ち天を瞰む者



 21



 誰も知らないが、サーバルはかばんと戦ったことがある。一度や二度ではなく、サーバルが『諦める』まで戦い続けた。

 彼女の一挙一動を、サーバルは知っている。精神世界での戦いだったため体は覚えていないだろうが、知識だけは蓄積されたままだ。だから、その経験を活かすことが出来れば、サーバルはもう一度かばんに勝つことが出来るだろう。

 しかし問題がある。

 前提としてだ。サーバルは目の前のかばんを知らない。

 拳銃を使い、殺戮者として成長した少女との戦闘経験はあっても、支配者、或いは侵略者とは戦ったことがないのだ。

 だから。

 この戦いは今まで通りのやり方で突破することは不可能だろう。



 22



 視界が揺らめいている。

 熱気か、それとも疲労による目眩によるものか。

 それすら分からず、しかしそこに向かい立つ。

 状況は一瞬で豹変する。

 炎が床の上を走った。

 かばんの足元からまるで蜘蛛の巣を描くように、縦横無尽に床へ線を引いていく。

 高さはない。およそ脛くらいだろう。

 赤と青。

 本能が絶叫するほど拒絶するその色彩はサーバルの足元までやってきた。


「みゃ……っ!」


 得意の跳躍でそれから離れる。かばんの方を見た時、自分の選択を呪った。


『おやおや、跳んでしまっては躱せませんね?』


 直後。

 線から面へその姿を変え、サーバルを焼き焦がした。


「みぁっっっ!!」


 ごろごろと床を転がる。それだけで肌が痛む。

 痛みで意識が遠のくのを強引に繋ぎとめた。


『僕は赦しなど求めていません。憐んでほしいとも思っていません。望んでもいないことを押し付ける、そんな上から目線の救済なんていらないんです』


 違うと、頭の中で否定する。声に出ないのはそれほどまで消耗してるのだろう。


『だから戦いなさい。つまらない意地なんて捨てなさい』


 触手が地面から無数に突き出してきた。

 その牙のいくつかが体を掠める。視界の端で血が舞っている。

 続けて、かばんの後方が奇妙に蠢いた。それは側面から巨大な黒い『腕』を出現させる。

 見たことがある。

 黒サーバルの、あの『腕』だ。

 言外に告げている。

 想像できないことを次々と提示し、証明として誇示しているのだ。


 もう、サーバルの知っているかばんはおらず。

 目の前にいるのはただただ凶悪な化物なんだと。


『腕』が振るわれた。

 野生解放なしで防げるはずがない。サーバルの体は簡単に壁に叩きつけられた。


「そんなこと、ない……」

『…………、』


 ゆらりと、その体に鞭打って叩き起こす。

 かばんは蔑むように見下ろしていた。彼女が何を考えているか、今はもう分からないけれど。

 それでも、分かるのだ。


「かばんちゃんは……」


 かばんの顔が歪んだ。

 その先を言わせまいともう一度『腕』が振るわれる。壁も床も抉る破壊が迫ってきた。

 圧倒的な範囲攻撃は避けられない。だから防御を優先し、ダメージを抑えることに専念する。

 サーバルは叫ぶように、届かせるように言の葉を紡いでいく。


「かばんちゃんは変わってない! ヒトが嫌いになっても、わたしたちと戦うことになっても!」


 炎が舞った。

 蛇のように蛇行する無数のそれが、サーバルの周囲を囲んで逃げ道を塞ぐ。

『腕』が、来る。


「わたしには分かるもん! かばんちゃんの中にはまだ残ってるって! 消えたりしない、素敵なものがあるって!!」



 23



 この世界がとても輝かしく見えていた。

 お世辞にも全てが美しいなんて言えない。目の届かないところには醜く、浅ましく、理解できないことだって多いはずだ。

 だが、それでも世界はこうして回っている。

 何故か。それは、世界が負の側面それだけではないからだ。

 挫けても、踏みにじられても立ち上がることが出来る。

 何かのために、誰かのために戦うことが出来る。

 その想いは共鳴する。

 やがてそれは世界の危機を救う大きな力となり、対立なんて下らないものを投げ捨てて協力出来ると信じている。

 愚かしいと笑われたって構わない。

 だって、世界に救いなんてどこにもないなんてスカしているよりも、救いが必ずどこかにあって、そのおかげで今も滅亡の時を迎えないのだと信じたほうが楽しいに決まってるから。

 正義の反対は悪ではない。

 誰かを助けたいと思う側面。誰かの力になりたいと思う心。それは決して正義などと言ったものではなく、誰でも持っているものなのだ。

 そのけものは実際にたくさんのものを見てきた。

 誰かのために戦い、立ち上がる者たちを。

 かばんのそれを正義だと呼ぶのなら、それと対になる彼らを悪と言えるのか?

 守るために戦う者たちを悪人と指差して笑えるのか?

 そうは思わない。絶対に。

 だからこそ、こう言える。

 この世界には、正義しかないのだと。



 24



 蹂躙がサーバルを襲った。

 破壊された瓦礫の下にサーバルはいる。僅かに動いたことを確認すると、かばんは呆れたように目を細めた。


『この世界は歪み、腐り、朽ちています。だからそれを正そうとしているんです。これを悪だというのなら、その正義で断ち切ってくださいよ。ここまで、そうやって進んできたんでしょう? 僕が間違っているという答えを抱いて、ここまで来たんでしょう?』


 世界から見て、かばんという少女は紛れもない悪党だ。

 目的のためには手段を選ばず、意思を持たない兵器を用いて有無を言わさず弾圧する。その姿は、正しく暴君と呼べるだろう。

 罰せられるべきなのかもしれない。

 勇者か、英雄か、正義の味方か。

 いずれかの存在が魔王を討伐するように、かばんという少女は倒されるべきなのかもしれない。

 だから。


『あとはそれを証明するだけなんです。ほら、あんなに離れていた悪党は目の前にいるんですよ。だから……だから戦ってください、正義の味方さん』


 迎えるように両手を広げるのが、瓦礫の隙間から見えた。

 彼女は笑う。

 楽しそうに。嘲るように。

 しかし、何故だろうか。

 その笑顔からは不快になるものを感じなかった。

 重なる瓦礫を、少しずつ退けて体を出していく。


「わたしは正義の味方なんかじゃないよ」

『……、』

「間違いばっかりで、みんなに迷惑かけて、心配させて……いっつもいっつも、ドジばっかりだったもん」


 アライグマとフェネックに工場を押し付けた。

 片腕が使えないライオンを、一人動物園に置き去りにした。

 一撃で死ぬような化物の相手を、ヘラジカに丸投げした。

 捨て駒。

 あのヒトはそう表現していた。

 言い得て妙だ。

 一人では何も出来ず、ここまで来れたのは自分だけの力じゃない。


『では、何故?』

「そんなの、決まってるよ」


 だから。

 サーバルは魔王を討つ勇者でもなければ、小を切り捨て大を助ける正義の味方でもなく、周りの声に応えて立ち上がる英雄でもない。

 それでも、まだなれるモノがある。

 資格など必要なく、過去のことに縛られないモノがある。

 誰にだって、誰とだってなれるモノ。

 気づいたらなっているモノ。

 それを、たった一言で表すならこうなるのだ。



 そう。

 結局、それだけなのだ。

 英雄とか、正義の味方とか、そんな難しいものになった覚えはない。

 世界を救うだとか、悪党を倒すだとか、そんな英傑気取りの大それたことをしようとしたわけじゃない。

 ただ許せなかった。

 一人で、何も相談せずに隣からいなくなってしまった彼女が。

 世界から憎悪されることを選び、自分の幸せより全の幸せを選んだ少女のことが。

 だから、ここにいる。

 そんな事する必要はないよと伝えるために。

 一緒に帰ろうと言うために。


「帰ろ、かばんちゃん。みんなにいっぱい謝って、壊したものを直して、仲直りしようよ。そうしたら──」


 それだけで、今までの惨状を元通りになんて出来ないかもしれない。

 それっぽっちの贖罪で、かばんの罪は消えないかもしれない。

 だが、それでも。

 もう一度最初から、やり直すチャンスは残されてるはずだ。


「そうしたらきっと、またみんなとトモダチになれるよ」


 伝えるべきことは伝えた。

 言いたいことは言った。

 それに対し、かばんは。






『なんとも、都合のいいおとぎ話ですね』






 ──変わらなかった。

 顔が無に戻る。

 何も感じない、あの表情に戻る。


『この世界が僕を許すとでも? もしそうだとすれば、それは優しさではなく甘さです。そんなもの、こちらから願い下げですよ。ご理解していただけましたか? 貴女の説得は無意味です。気が済んだなら、そちらからパークへお引取りください。最後のサービスとして、パークまでの安全は保証しましょう』


 鼻で笑い飛ばした。

 パークに着くまでということは、パークに着いたらその保証も消えるのだろう。だが今までの話を総括すると、こちらから抵抗しなければセルリアンは何もしない。

 頭の中で整理していく。

 少しずつ噛み砕くように、自分が取るべき行動を取捨選択していく。


「そっか……」


 自身を満たす決意は揺らがない。

 口に出す言葉は決まっている。


「でも、帰らないよ」

『………………………………本当に忌々しい決意です。いえ、ですが……なるほど。よく分かりましたよ』


 突如景色が一変する。気づけば地面から噴き出した炎に逃げ道を塞がれ、唯一の隙間は揺らめく炎の間だけだった。そこから、かばんの姿が見える。

 かばんは聡明だ。その知恵と機転に、サーバルは過去に何度も助けられてきた。

 だからこそ、この答えを出すことも必然だったのだ。

 決意を折ろうとしても折れない。

 力で押しつぶしても立ち上がり、絶対に諦めない。

 そんな、面倒で厄介な輩を簡単に突破する方法がある。

 サーバルも見てきたはずだ。

 殺生を行わないかばんが、どうやってヒトを炎以外で無力化してきたのか。


『この手は使いたくありませんでしたが、仕方ありません。貴女の輝きを奪うことにします』


 かばんが右手をサーバルに向ける。セルリアンとしての能力ちからをもって、終わらせるために。


『安心してください。サンドスターを全て奪って元の動物に戻すわけではありません。ただ、忘れてもらいます。今までのことも……僕のこともね。大丈夫、君のことも救ってあげます。だから──』


 笑っていた。

 しかし、サーバルはその目に宿る感情を垣間見た。揺れる瞳に隠されたその感情を、曖昧ながらも感じ取れたのだ。

 そして。

 最後まで笑いながら、かばんは告げた。


『これで、諦めてくれますよね?』


 見えない何かに弾かれた。

 全身から力が抜けていく。光景がズレていき、少女の顔が視界から消えていく。



 25



 きっと、忘れてしまうのだろう。

 思い出を奪われ、希望も失い、その決意を砕かれて。

 ……ここで、全て終わってしまうのだろう。


 長い旅だったと、今更ながら思っていた。


 何も分からない状態でかばんと敵対したことから始まった。港街で再会し、黒サーバルと激突した。工場ではセルリアンの量産を止めるためにロボリアンと戦った。動物園にいた獣の極点に達したセルリアンには本当に肝を冷やしたし、博物館では陸上最強の怪物に振り回された。何度も何度も『世界』を体験させられ、心が潰れそうになったこともあった。繁華街では爆撃で傷だらけになった。中央都市ではヒトのセルリアンに食べられて、パークの長に救われた。


 それも、終わる。

 こんな形で。

 まだ何も、成し遂げていないのに。

 海の底のような深淵に沈んでいく。

 希望が遠のいて、あらゆる感情が死滅していく。

 親友かばんとの思い出が消えていく。

 でも。

 そのはずなのに。






 ──いやだ、忘れるもんか。



 26



 倒れない。傾いた体を、咄嗟に出した足で辛うじて支えている。

 その足は震えている。

 その瞳は揺れている。

 焦点は合わず、体の重心も安定しない。


 でも、倒れない。

 荒く息を吐きながら、顔を上げる。


『な、んで…………っ』


 少女はその光景に目を見開いた。目の前の状況を受け入れられないまま、かばんは思考を巡らせる。


(輝きを、奪えなかった……? いや、違う。ちゃんと輝きを奪った感覚はあった。そもそも『奪う』ことに誰も抵抗できないはず……。いや、じゃあ……でも、それは……)


 それは起こりえないことだった。

 輝きを奪われたフレンズが、何かをきっかけにして取り戻したという事実は確認されている。

 しかしそれは、自らの力で再び蘇らせる形に近いものだ。その証拠に、輝きを奪ったセルリアンから輝きが消え、元の形状に戻ったという話は確認されていない。つまり、サーバルがしたことはそれではないのだ。


 確固たる覚悟が見えた。

 その記憶かがやきだけは失わせまいと、理不尽に抗う決意が見えた。

 だって、それはありえないはずだ。

 だって、それは不可能のはずなのだ。




 奪われた輝きを、自身の意志の力だけで奪い返すなんて──。




 かばんは、ようやく目の前の脅威を理解する。

 諦めない。どれほど高い壁が行く手を阻んでも、目の前の少女にはそれを踏破する力を持っている。

 それを痛感しながら、彼女は薄く笑う。


『驚きましたよ。まさか輝きを奪い返されるなんて、予想できませんでした』

「奪わせ、ないよ……今まであったこと全部……すごく大切なものだもん。絶対に、忘れない……それがかばんちゃんでも、これだけはあげられないっ」

『奪わせない、あげられない、ですか……』


 目を細め、その、かつて抱いた理想じぶんを眺めて。

 諦めた誰かは、こう告げた。


『………………………………僕も、そうでしたよ』


 目を見開いたサーバルに躊躇することなく、床を蹴って一気に近づく。懐に入られたサーバルが距離を置こうとするが、足の爪先を踏みつけて封じ込んだ。


「み、っ」

『──っ!』


 そのまま少し姿勢を屈めサーバルの頭部へ踵を叩き込む。間一髪で防ぐことに成功するが、下と上、別々の場所にそれぞれ力を加えられたために重心が大きく後ろに傾いた。

 そして大きな隙ができた腹部を、思いっきり蹴り飛ばす。

 サーバルは声を出すことすら叶わず、そのまま後方に倒れ込んだ。

 まるでダルマのように、倒れても何度も起き上がるサーバルを見ながら、かばんは虚空を掴むような仕草をした。

 そこに、剣が浮かび上がる。

 それは実像を持った、絵本に描かれるようなものではない。

 所謂いわゆる炎剣。

 炎のみで構成された、ヒトのフレンズであるかばんにしか出来ない一つの武器。それを、まるで汚れを振り払うように宙で動かす。


『なんと言おうと、未来は変わりません』


 炎剣を振るう。

 その場から動かずとも、炎剣は形を変えて襲いかかる。

 まるで鞭のようだった。

 体を伏せて回避すると、背後にあった何かを焼き焦がす音と匂いがそれぞれの感覚器官を刺激する。


『貴女たちは強かった。えぇ、それは認めましょう』


 淡々とかばんは告げる。

 かばんには『視えている』。直接その目で見なくても、世界中のセルリアンから情報を受け取れる。

 だからこそ、言えるのだ。


『ですがここまでです。今まで残してきたフレンズさんの消耗も激しく、ヒトの備蓄も残り少ない。圧倒的な力でねじ伏せるわけではなく、僕が望んだ勝利とは少し外れますが、それでもこれで揺らがないものとなりました。時間切れですよ、サーバルさん……いや、世界の皆さん』


 視えたものは単純だ。

 工場で、アライグマたちが膝から崩れ落ちた。

 動物園と博物館の間で、ヘラジカとライオンの動きが鈍った。

 繁華街で、ヒトからの反撃が来なくなった。

 中央都市のセルリアンが、もう一度ヒトを食べた。

 世界のあらゆるところで、資源が悲鳴を上げた。

 未来は、確定した。


『これで、僕の勝ちです』


 そう思っていた。

 しかしだ。


『……?』


 何か、想定と違う光景がある。

 何か、その勝利を揺るがす何かがある。


『まさか……そんな、そんなはずは……っ!』


 かばんが共有するあらゆるセルリアンの視覚。そこにありえないものが映っていた。

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