天に座し地を仰ぐ者



 17



 黒サーバルの廊下の先には長い階段があり、次のエリアへはそこを通らなければならなかった。

 これと言って特筆するようなこともない、無機質な階段が続く。

 そしてその先に。

 門があった。

 今までの自動で開くような構造とは違う。板が二枚あり、押すことで開く押し扉だった。

 ゆっくりと開けると、そこには豪華な部屋が広がっている。他の研究室よりも広く、来客用だと思われる長椅子や机が設置してある。中央奥にある一際ひときわ精巧せいこうな作りをしている机が、ここを取り締まるヒトの物だろうことは推測できた。

 壁には本棚が羅列しており、何かの蔵書がぎっしりと詰められていたのだろう。

 そう、それは予想の域を出ないのだ。

 その部屋は酷く荒らされていた。棚や机は横転し、本は床に散乱している。しかもそのほとんどは灰と化しており、中には機械の成れの果てであろう鉄くずがいくつも存在していた。

 そして、その部屋の中心。

 腰を抜かしてへたり込んでいたのは小太りの男だった。顔中を汗で濡らし、尻餅をついてガタガタと震えている。目は大きく見開かれ、口をパクパクと開閉させていた。

 それに、黒い何かを突きつけている少女がいる。


 黒い髪、赤いシャツ、灰色の短パン。

 大きな鞄がトレードマークのトモダチ。

 かばん。


 彼女が突きつけているものを見たことがある。

 拳銃。

 またの名を、ヒトの業。

 引き金を引くだけで命をほふる、人類の叡智が生み出した悪意の極致。

 こちらの存在に気付いたのだろう。

 ゆっくりと、顔だけをこちらに向けた。サーバルの姿を認めると、その目が少し細くなる。

 その顔が、その瞳が、冷徹な何かを帯びていることに気付いたのはすぐだった。

 そして、小太りの男は小さく悲鳴を上げて壁際へ駆け寄り、何かを弄るとあっという間に姿を消した。

 どうやらスイッチが有り、それを押すことで非常口への扉が開く仕組みになっていたらしい。先程まで男がいた場所には、人一人がようやく通れるくらいの穴が空いている。

 かばんはその光景を静かに眺めていた。


「……逃げられましたか。まぁ、どうせ逃げた先には何もありませんし、後でゆっくり始末するとしましょう」


 肩をすくめ、こちらに振り返る。

 拳銃を腰に仕舞い込み、両手を左右に広げ。

 その顔に邪悪な微笑みを浮かべてこちらを一眸いちぼうする。


「ごきげんよう、サーバルさん。まずはここまで来たという事実を素直に称賛しましょう」


 空いた両手で淡々と手を叩く。そこに込められる悪意が、あらゆる神経を逆なでするようだった。

 彼女はその余裕を崩さない。


「あぁ、部屋が散らかってるのには目を瞑ってください。つまらない攻撃の群生だったのですが、それでも抵抗されましてね。苦しめてから始末しようとしたため大火力を使うわけにもいかず、ご覧の有様ですよ。どちらにせよ、ここはまとめて焼き払いますから問題ありませんけどね」


 本当に関心がないようだった。興味も何もなく、まるで機械のように淡々と話し続ける。

 かばんの声が響く。


「分かっていましたよ。きっと貴女は諦めない。ここまで来て、僕を止めようとする。だから、僕が最後に乗り越えるべき相手はあんな三下ではなく、貴女だと思っていました」


 背筋に悪寒が走る。

 何か、表現しようのない何かが自分を包み、呑み込もうとする感覚がある。

 そして、目の前の『王』から宣戦布告があった。


「もう言い訳も泣き言も必要ありません。さぁ、世界の行く末を決める戦いを始めましょう」


 だが、サーバルは首を横に振った。


「戦わないよ」

「……、」


 かばんは明確に顔をしかめた。

 不快。

 ただその一点で。

 何故か怒りは感じない。

 彼女は呆れたように息を吐いた。

 直後。


 なんの予備動作もなく、サーバルは水平に薙ぎ払われた。


「どうやら貴女は僕に期待しているらしいですね。良心がまだ残っていると思っているか、あとは陰謀論ですか? そういうふうに無邪気に信じるから足をすくわれるんですよ」


 壁にぶつけられ、少しの間静止した後、床に落ちる。

 反応なんて出来なかった。

 自分がどうなったのかすら分からなかった。

 全身の痛みを耐えながら、かばんを見る。

 息が止まった。


「もう遅いんです。手遅れですよ。僕に良心が残されている? まさか。以前の僕であればこんなことなんて出来ないでしょう?」


 そこにあるのはワニの口を模したものが付いている黒い触手。状況から察するとあれに薙ぎ払われたのだろう。

 しかし、この場には自分とかばん以外に誰もいない。


「陰謀論? 下らないです。僕は自分の意志でやりました。誰かにそそのかされたわけでも、誘導されたわけでもありません。運命論は論外なので除外します」


 ヒトの言葉の中に、こういうものがある。


〝全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何いかに疑わしいことであっても、それが真実となる〟


 セルリアンの匂いはない。

 気配もない。

 音もない。

 そして何より、そこにある光景が証明だ。


「もう一度言います。手遅れですよ、サーバルさん。もう引き返す時はとうの昔に過ぎています。だから、ほら。その目に映るものが全てですよ」


 触手がかばんに伸びていた。

 正確にはその背中の、大きな鞄に、だが。

 かばんの姿が変わっていく。

 白く透き通る肌は黒く。

 黒く艶のある髪は白く。

 青みを残す黒い瞳は赤く。

 その鞄ですら黒に染まり、そこから無数の触手が生えている。


『僕は「女王」。セルリアンを統べ、この世界の支配者になる者。既にヒトでも、フレンズでも、セルリアンでもありません。それらを越えた領域に、僕は立っているんです』


 声すら変わる。

 いいや、重なると言ったほうが良いのだろうか。かばんの声と、それとは別の声が同時に聞こえてくる。その不協和音に似たその感覚を、サーバルはっている。

 立ち上がった時、自分の異変に気がついた。

 妙に体が軽いと思ったら、身に付けていたリュックと帽子が手元にない。見れば、先程までいた場所に二つとも転がっていた。

 あの衝撃でリュックの口が開いたのだろう。少し離れたところに無線機が落ちている。

 かばんの触手がうねる。


『だから、貴女は僕を止められません。……帰るつもりはなさそうですね』


 そして。


『では、哀れな獣に改めて教えてあげましょう』


 以前よりも深く。


『この世の真理は……』


 そして明確に。


『食べるか──』


 その表情が狂気と悪意に満たされた。


『食べられるかなんですよ!』



 18



 この世界が腐っていると思っていた。

 誰も彼も自分の発言と行動に責任を持たない。

 何も考えない有象無象は、気に入らないことがあればそこに群がり袋叩きにする。不特定多数の言葉に踊らされ、自分も同じことを思っていると錯覚する。

 心の底では何も考えていないくせに。

 頭の中では何も感じていないくせに。

 その錯覚は感染する。

 やがてそれは狂信となり、その考えに異を唱える者がいれば狂人扱いして罵詈雑言ばりぞうごんを叩きつける。

 挙句の果てに、自分のそれが正義だと言わんばかりに掲げて間違いを決して認めない。

 協調ではなく強要する。それがヒトだと認識しているのだ。

 悪の反対は正義ではない。

 そもそも正義なんてものは存在しない。

 自分を正当化するための盾であり、ツールであり、逃げ道なのだ。

 ゆえに。

 この世界に、正義は存在しない。



 19



 かばんのしたことは単純だ。

 触手を横に振るう。ただそれだけ。

 しかし近くにあった瓦礫や残骸すら巻き込んで、それは嵐のような一撃となる。

 サーバルは床を蹴って、転がるように回避した。

 爪は構えない。

 拳も握らない。


『戦わないのですか。戦うための理由は単純だと思うのですが……誰かに何か吹き込まれましたか? 博士か、ツチノコさん辺りですかね。ま、何を言われたかは知りませんが、それが何だって言うんです? どんな理由があろうと事実は消えないでしょう?』


 気軽な調子だった。

 今度は無数の触手を頭上から突き刺していく。激突した床は抉れ、その威力を嫌でも分からせられる。


『そういえば僕が何をしてきたか、貴女は知りませんでしたね。教えてあげますよ。そうすれば貴女の考え方も変わるでしょう』


 パチンと指を鳴らすと、かばんの足元がうごめいた。泡立ち、黒く波打つそれはよく知るものへ変貌へんぼうする。

 セルリアン。

 しかし形状はいつものあれではない。

 背もたれや肘置きを形成し、玉座の造形を浮き彫りにする。

 そこに、かばんはゆっくりと腰掛けた。


『烏合の衆に何を放ったかは見てきたでしょう? ですのでその説明は省きます。そうですね……ある権力者がいました。それはどうしようもない悪党で、自分以外の人間を蹴落として地位と名誉を得るような男だったんですよ』


 玉座の前で複数の小さなセルリアンがヒトの形を模していた。他より少し大きめのセルリアンが周りのセルリアンを蹴り倒している。

 そして蹴られたセルリアンは、槍のように形を変えてサーバルへ向かっていった。それを首を傾け、ギリギリのところで直撃をまぬがれる。


『だから、奪ってあげました』


 あっという間に。

 とん……と指で肘置きを叩くと、玉座から伸びたドス黒く太い足が踏み潰してきた。

 走り、跳び込み、転がる。

 あと少し遅れていたらどうなっていたか、想像したくもなかった。


『名誉や地位だけではありません。家族も、財産も、絆も、そして未来もね。実に脆いものでしたよ。ふふふ』


 ずるずるとその足は玉座に戻っていく。そこには何も残っておらず、ただ凹んだ床だけが残っていた。


『あぁそうそう、その時命を報酬として仕事を頼んだ人間がいたのですが、どうやら下剋上を企んでいたようなんですよ。滑稽ですよね。出来ることもないことに手を伸ばすなんて。太陽に向かって手を伸ばした結果、蝋の翼が溶けて地に落ちたなんていう逸話すらあるというのに』


 皮肉げに嘲笑う。

 地面を這う蟻を眺め、巣に水をばら撒き、残酷にも無邪気に笑う子どもとは違う。

 他者をおとしめ、道を踏み外させ、無様に踊る者を見下す外道の顔。

 サーバルは、何も言わなかった。

 かばんは首を少しだけ傾ける。


『おや、いきどおらないのですか? ……ふむ、まぁここまでは人間の話で、貴女フレンズには関係のないことですしね。では対象を変えるとしましょう』


 わらう。

 触手が振るわれる。

 破壊のうずがサーバルを包む。かわしきれず、床をゴロゴロと転がった。


『平原のフレンズの皆さん、覚えてますよね? ヘラジカさんやライオンさんが縄張り争いをしていたあそこです。その連中がフレンズ型セルリアンに喧嘩を売ってきたんですよ。ここを守るのは自分たちの使命だ、役割だなんて言ってね。ふふふ、結果、どうなったか分かりますか?』


 わらう。

 かばんは壁や天井を崩し、砂礫されきの雨が降り注ぐ。

 全てを回避することは不可能だった。体の至るところに切り傷や擦り傷が出来ている。痛みに耐え、近くの瓦礫がれきに手を付きながらも立ち上がる。


『ヘラジカさんのセルリアンの場合は数の暴力もあり軽症で済んだようですが、ライオンさんの方はそうはいきません。たった三人ですしね。結局首筋を食いちぎられ、生死の境を彷徨さまよったんです。あぁ、本当に、愚かしく、笑える話ですね。ふふふ』


 嘲笑わらう。

 赤い目を細め、口を横に裂ける。

 そこに呼応するように、玉座の目がこちらを向いた。

 深淵しんえんが覗く。

 はらわたの奥から湧き上がるそれをサーバルは抑え込んだ。

 かばんの顔が無表情に戻る。


『…………話を聞いているんですか? 何故戦おうとしないんです? これを聞いてもまだ、情状酌量じょうじょうしゃくりょうの余地があるとでも?』


 やはり、彼女から苛立ちは感じない。

 いや、苛立ちだけではない。

 それ以外の感情を感じない。ただ一つ、誰かを見下す時の嘲笑ちょうしょう以外は。

 サーバルは答えない。

 かばんの目が爛々らんらんと輝く。

 戦わせることを諦めたのだろうか。かばんは話を変えてきた。


『サーバルさんは、僕がしていることが破滅か何かかと思っているのですか? だとしたらそれは大きな間違いですよ』


 ……知っている。


『これは救いなんです。繁栄も、衰退もない世界。ひとえに受け止めたら残酷なように聞こえるかもしれませんが、ちょっと見方を変えたらこうも言えるんですよ。誰も、誰かを殺さない。衰退と繁栄の権利は僕にある。だから、誰も恨まないし恨まれない。憎まないし憎まれない』


 知っている。


『当然ですね、与えられる者たちが抱くのは与える者への不満だけですから。同族を殺すことになる恨みや憎悪の矛先が別の者に向くことはありません』


 知っている。


『ただヒトも、フレンズも、他の生命もその生を謳歌おうかしていればいい。今度こそ本当に、けものがいても除け者がいない、そういう世界にするんですよ』


 知っている!!

 知っている!!

 知っている!!


『だから貴女がここにいる理由なんて何処にもない。さぁ、お出口はあちらです。戦う気が無いならパークにお帰りください』


 だから。


「嫌だ」

『…………、』


 認めない。

『王』の答えに抗ってみせる。


「きみのやり方じゃ、きみが救われない。『王』がどんなものなのか、ちょっとしか分からないけど、でもかばんちゃんの言う通りならみんなの恨みとか、憎しみとか……そういうものも全部受け止めちゃうんでしょ?」


 本当に。

 今更何をとでも言いたげな顔だった。


「王は得てしてそういうものです」

「違うよ」

「違いませんよ」

「違うんだよ!!」


 実際に見てきた。

 悲しく、虚しい、成功した未来を。

 誰もが救われて、誰もが手を取り合う中で一人だけ孤独な場所に取り残された、そんな『世界みらい』を。


「みんなが幸せできらきらしたせかいだとしても、そのせかいじゃきみだけが救われてない。そんなせかいわたしはいらない。そんな世界すくいは欲しくない! だから──」


 宣言する。

 背中は押さず、肯定はしない。

 褒めることもなく、称えるなんてもってのほかだ。

 だから、宣言する。


「戻らない、絶対に。!」

『──ッ!』


 青い炎が貫いた。

 それはリュックがあった場所だ。

 残されたものは。

 何も、ない。


『僕が救われないから、そんな世界は欲しくない……? ははは……笑わせないでください。じゃあ貴女は、その間違いを正すために戦ってくれるんですよね? まさか、戦う気もないのにそんな大口を叩くんですか? ……思い上がるのも大概にしなさい』


 感情が消えた。

 いいや、それとも。

 燃え上がるものがはなから存在しないから、そうなっているのだろうか。

 だが、それでも。

 彼女は震えていた。


『戦意があるなら爪を構えなさい。戦う気がないなら大人しく引き返しなさい。僕の「正義」を一方的に否定しながら、戦わない選択を取る……そんな半端な覚悟で、いい加減な決意で、僕の前に立たないでください!』


 彼女の顔が歪む。

 眉間に皺を寄せ、口の合間から歯が覗き。

 でも。

 それを見ても。

 サーバルは言いきった。


「それでもわたしは──戦わない」

『──ッッッ!!!!』


 赤い炎が目の前で出現した。それに、体の奥底から拒絶反応を示す。

 燃え上がるそれはまるで壁のようで、周囲を見渡しても出口までの道しかない。


『知ってるんですよ、サーバルさん。貴女はこれまで沢山のことを見て、聞いて、乗り越えてきた。でも最後まで「火」を克服することが出来なかった。当然ですね。それは貴女の意思に関係なく、獣の本能によってもたらされているのですから。ここがこの旅の終着点です。諦めてください』


 どんな『世界』を見ても。

 どんな強敵を目にしても。

 最後まで乗り越えられないものがある。

 その一つが火だ。

 本能が拒絶する厄災の象徴。

 手を伸ばせば焦がされ、支配しようとすれば全てを焼き尽くす。

 しかし。

 そもそもだ。

 真正面から立ち向かわなければ、乗り越えられるものも乗り越えられない!


「わたしは、諦めない……っ!」


 熱い。

 熱い。

 熱い。

 呼吸が出来ない。

 皮膚が焼ける音がする。

 激痛が走る。

 苦痛が這い登る。


「──っ、ぁあっ……!!」


 

 燃え広がることはなく、焼き尽くすこともなかった。

 ようやくの思いで、火の壁を乗り越える。


『そうですか……何があっても、貴女は帰る気はないんですね……。僕も時間が惜しいので無意味に時間を浪費するわけにはいきません。ですから、やり方を変えることにします』


 かばんが玉座から立ち上がった。その身に、赤と青の炎をまとわせながら。

 玉座は崩れ、その鞄の中に吸い込まれていく。

 そのり方は正に王と呼べるだろう。

 その姿は正しく絶望と言えるだろう。

 だが、諦める必要は毛頭ない。

 何故なら。

 目の前のトモダチを助けるために、彼女はそこに立っているのだから。



 20



 赤い炎が部屋を照らす。

 両者の決意が周囲を満たす。


 認めてたまるか。あんな世界を。

 許してたまるか。あんな結末を。


 あの時だってそうだった。

 だが、今度は拳を握らない。


 この旅は遂に終わりを迎える。

 前哨戦はここまでだ。




 サーバルは決意で満たされた。

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