わたしにとって最悪の現実 Your_Best_Nightmare.



 23



 結局、勝負の顛末なんて最初から決まっていたのだ。

 サーバルは動くことすら出来なかった。

 乾いた音と共に、その胸目掛けて弾丸が射出された。

 サーバルは何も出来ないまま、その音に弾かれるようにゆっくりと倒れていった。


 ザ

                       ざざ


 いいや諦める訳にはいかない。

 あの少女を終わるのだ。

 一発目を辛うじて回避する。音で聞いても間に合わないのなら、引き金を引かれる前にこちらから動く。

 銃口の向きを確認し、弾丸の射出より先に横に跳んだ。

 何もない空間を横切り、弾丸は深い闇へ消えていく。

 次はこちらの番。

 少しでも近づかなければサーバルは何もすることが出来ない。


(けんじゅうは遠くからでも攻撃できる。わたしは爪しか無い……近くても離れていても同じなら、少しでもあの子に近付く!!)


 そう考えて黒いガラスのような大地を蹴る。

 出来るだけ相手を惑わすように、ギザギザに曲がりながら走り抜ける。

 しかし目の前の少女はこちらの動きを把握しているかのように、顔すら向けないままこちらに銃口を向け、


 ざざざざざ

                    ザザザザザザザザザザザザザザ


 二発目の軌道は読めた。飛び込んで転がるようにその攻撃を退ける。

 横目で少女はこちらを確認した。

 なおも近付こうとするサーバルに攻撃の方法を変えてきた。

 四つの乾いた音がその耳に届いたとき、既に盤面は詰んでいた。

 

 素早い装填音が終わるのと同時に。

 もう一発の弾丸が、放たれる。


 ざざざざざざざざざざざざざざざざ!

              ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ!!


 ギリギリだった。

 少女は目と鼻の先だ。

 幸い、今も体は五体満足を保っている。

 その腕目掛けて爪を振るうが、手のひらに拳銃のグリップの底を当てられ弾かれる。

 少女はその直後拳銃を上空に放り投げた。あまりにも突発的な行動に、サーバルは拳銃を目で追ってしまった。

 それこそが自分あいて間違ねらいだった。

 最も警戒すべきは拳銃ではない。

 驚異的な思考能力と、驚異的な応用能力。

 それを兼ね備えた少女自身こそ、一番警戒しなくてはならないモノだったのだ。

 少女から視線を外した直後、手首と胸ぐらを掴まれ、背負うように体を投げ飛ばされた。

 真っ黒な地面に叩きつけられる。肺から全ての空気が吐き出され、考えるという行為を放棄せざるを得なくなる。それを黒髪の少女は逃すこともなく、両足で的確にサーバルの下半身を封じ、間髪入れずに馬乗りになって左手で首を絞め上げた。

 その苦しさに思わず両手で少女の手首を掴む。

 落ちてきた拳銃を少女は片手でキャッチすると、その銃口を顎に押し付けた。

 少女に目だけを向けて、その顔を見る。

 無表情で、眉一つ動かすことすらしなかった。

 かばんの姿をした人形みたいだったけれど、その解釈もきっと正しくはないはずだ。

 何処か違う場所で異なる選択をした、優しさというものが存在しない少女。

 それが目の前にいる名もない誰かの本質なのだろう。


『いい加減気付いたらどうですか?』

「気付いてるよ」


 背後から声がした。

 全ては色を失い、その行動が止められている。

 今サーバルは少女に馬乗りにされ、背中の向こうはガラスの大地であるはずだ。

 しかし『神』というものはこちらの想像を軽々しく凌駕する。

 恐らく、そんなこともお構いなしにガラスの大地を一枚壁として背中を預けているのだろう。

 そして、サーバルはこの『世界』の核心に近い何かを理解していた。


「きっと、こうなったのは今だけじゃない」


 時間は止まっても、首を絞められた状態は継続している。

 サーバルは苦痛で顔を歪めながら、


「何回だって負けちゃって、何回だって繰り返してる。この子がけんじゅうを使った時にいつもわたしは死んじゃってるんだと思う。でもわたしはそれをちゃんと受け止められてないから、どうにか出来てるみたいに見えてるんじゃないの?」

『当たらずといえども遠からず、ですね。ここで起こっているのがそれだけだと?』

「……始まりはもっと前。


 以前にキタキツネがやっていたゲームを思い出す。

 何回やったってクリアできないような難易度のステージが幾つもあって、最後にはボスと呼ばれる敵を倒して先に進むと言った内容だったはずだ。

 しかしこのゲームが難しいと言われる所以ゆえんは他にある。

 

 つまり。

 この『世界』はそういう風に出来ていた。

 何度も何度も繰り返す。それはある意味で宣言通りに、飽きることなく輪廻する。

 サーバルの心が折れる、その時まで。

 折れるポイントは何処でも良いのだ。この戦闘で敵わないことを知っても構わない。その前の無限地獄でも、どこかで立ち上がれないものを目の当たりにすればサーバルは終わる。それはまるで、クリアできないゲームを放り出すのと同じように。

 しかし繰り返すというのは必ずしも絶望ばかり招くものではない。サーバルはもう一つ、隠された真実に気付いていた。


「でも、せかいだけじゃなくてあなたについても分かったことがある……」

『フレンズにセルリアンが理解できるのですか? それも、貴女のような知識のないけものが』


 背後から何か気配の変わる感覚があった。不審に思いながらも、サーバルは分かったことだけを的確に突きつける。


「殺せるならいつでも殺せたはず。だから殺さないんじゃない。それは、あなたの技は夢のようなこのせかいを自由に弄れるだけで、元のせかいには何も出来ないから。違うかな?」

『…………、』


 気配が消えた。

『世界』に色が戻り、全てが動き出す。

 そして。

 サーバルが何か行動を起こす前に少女が引き金を引き、真っ赤な花が大地に咲いた。

『世界』はまた繰り返す。


 ざざざざざざざざざざざザザザザザザザザザザざざザザザザザザざざざざざざざざざざざざザザザザザザざざざざざざざざざざザザざざざざざざザザザザざざザザザザザザザザざざざざざざザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ!!!!!!



 24



「…………っっっ!!??」


 何度繰り返したかもう覚えていない。

 たった一つの決意を胸に抱きながら、サーバルはそれを見た。

 目の前には少女しかいないが、ガラスの大地に反射された光景にそれはいる。

 それは、視界を覆うほど大きな液晶に一つ目の黒い瞳を浮かべていた。

 それは、液晶の背面から様々な色をしたコードが四方八方に広がりながら天に向かって伸ばしていた。

 それは、液晶の周辺を様々な形の歯車が取り囲み、まるで巨大な花のようだった。

 それは、黒セルリアンの脚を強引に腕にしたような歪な両腕を無気力に垂れ下げていた。

 そして、それは指先から赤い糸で少女と自分の体に絡めさせ、操り人形のような状況を生み出していたのだ。

 いいや、それだけではない。

 ガラスの大地は真理を映す。


 或いは、それは背後から。

 或いは、それは真上から。

 或いは、それは真横から。

 或いは、それは正面から。

 或いは。

 或いは、或いは。

 或いは、或いは、或いは。


 見渡す限りあるのは目。地平線の直下に位置するガラスの大地の黒い背景には無数の目がぎょろぎょろと浮かんでいた。

 顔を上げても、そこには何もない。

 少女しかその目に入らない。

 でも分かる。

 それは、そいつは、確実にそこにいるのだと。


「それが、あなたの正体……」

『さぁ、それはどうでしょう』


 声というより文字列の情報が直接頭に叩き込まれたようだった。

 もはや少女ですらない。男や女、大人や子ども、聖人や囚人、ヒトや獣、そしてフレンズに至るまで、全てが混ざり合ったような声が、聞くだけで心臓を鷲掴みされるような不快感を持つ音が流れ込んでくる。


『……私に定められた形はないのです』


 声がした。


『そもそもの話、お前は何を根拠に正体なんて言ったんだ?』


 声がした。


『見せただろ、一番最初に。オレは誰にだって、何にだってなれる』


 声がした。


『だからその考えは的外れなのだ』


 声がした。


『だからさー、もっと簡単に考えてよー。一つのことに縛られずにさー』


 友だちの声で。

 知り合いの声で。

 的確に、サーバルの神経を逆撫でするように不協和音を奏で続ける。


「…………あなたは」


 難しく考える必要はない。異界の『神』が告げたことを羅列すれば自ずとそれが導かれる。

 定まった形はない。

 それが何であろうと、誰であろうとお構いなしに変身できる。

 今まで見せた姿に共通するもの。

 それを踏まえた上で、サーバルは看破した。


「あなたはわたしの……あなたのせかいに来た子が思ってることから形を決める。戦いたくなかったり、よく分からないものだったり……

『……ククク』



 25



 神について再定義してみよう。

 ヒトが残した、言葉の意味を綴った書物にはこう記してある。

 曰く、肉体に宿る精神や心である。

 曰く、優れた技術や才能を持つ者を指す。

 曰く、それは人知を超越した絶対的な能力を持つ。

 曰く、万物を支配する不思議な力を持ち、畏怖や崇拝する対象になる存在である。

 たった一つの言葉が複数の意味を持つことは珍しくない。どれも神という言葉の解釈であることに間違いはないが、先入観や偏見によってほとんどが特定のものを思い浮かべる。しかし一口に言っても種類は様々なのだ。


 では、サーバルが邂逅した『神』と名乗るそれはどれに当てはまるだろうか。


 過去も未来も知っている。

 どう生まれ、どう活動し、どう壊れていくのかも知っている。

 人知を遥かに超越した力を持っているその者は、ヒトの言葉を借りれば神に値するだろう。


 違いは何だ。

 神と『神』。

 フレンズ化物セルリアン

 試練に立ち向かう者と試練を生み出す者。


 違いは何だ。

 一つの決意を胸に抱き、他者の目論見を砕く者と。

 その決意を徹底的に破壊し尽くすために嬲る者。


 どちらも罪人だ。

 どちらも咎人だ。


 違いなんて無い。

 立場や手段、姿が異なるだけでしていることは誰かの夢を砕く行為そのものだ。


 醜いだろう。

 浅ましいだろう。

 しかしそれが心を持つ者の行く末だ。目を逸らさず、受け入れるしかないのだ。

 否定できない、ただ一つの真理。




 己のために、誰かの希望ゆめを粉砕せよ。



 26



 殺された。

 何度だって殺された。

 まともな戦いなんて出来るわけがない。

 眉間を的確に撃ち抜かれた。四肢を封じられた後首を絞められ窒息死した。心臓を穿たれ出血多量でまた死んだ。

 少女はサーバルに憎悪を抱いているわけではない。

 あるのは決意。

 目の前のけものを殺すという純粋でどんな刃物よりも鋭い切れ味を誇るやいば

 繰り返した数などもう覚えていない。死んで覚えることすら出来るようになった途端、少女はいち早く勘付きパターンを変えてくる。

 数億数兆では済まされない。膨大な屍が転がっていくのだ。

 サーバルはもう一度、その『世界』に戻ってきた。


「これは……


 パターンが変わった射線を運動神経と反射神経だけで回避する。ごろごろとガラスの大地を転がっている間に、足の腱を撃ち抜かれた。

 それでも話し続ける。

 整理するという行為こそ、サーバルに与えられた唯一の有力な武器だから。


「このせかいには〝しんり〟っていうのがある」


 そう言い終えると同時に、サーバルの脊髄は血飛沫として『世界』を染めた。

 漆黒の『世界』。無限地獄。それを踏み越えてもう一度戻ってくる。


「食べるか食べられるかってかばんちゃんは言ってたけど、ここだけはそうじゃない。だって、かみさま、ここのルールはあなたが決めてるんでしょ?」


 応答はなかった。

 元より会話など期待していない。

 これは確認だ。覚えたことをちゃんと頭の中に定着させるために、誰かに説明するのと同じ理屈だ。

 この『世界』の真理。『神』が定めたルールであり掟。断ち切れない絶対の楔。

 そう、それは。




。それがこのせかいの〝しんり〟じゃないの?」




 それだけだった。

 たったそれだけを告げて、サーバルはまた赤い火花を『世界』に散らせた。

 根本的な問題として、神は絶対的な存在だ。拮抗や互角はありえない。あるのは一方的な虐殺か蹂躙であり、神のあり方が機械システムに近付けば近付くほど手法や構造はおぞましく邪悪になる。

 歪でも神は神。その支配下にある世界にいる限り、どんな存在であれ勝利をもぎ取ることは出来ない。いずれ心は折られ、宇宙のボウフラとして打ち捨てられる。

 そのはずなのに。

 折れない。

 蹴り殴り撃ち屠り穿ち締め上げて殺しても、そのけものは戻ってくる。

 折れてしまえば楽になるのに。

 何度も何度も何度も何度も。

 そのけものは戻ってくるのだ。


「……、」

『その顔は……もうお気づきのようですね』


 頭の中に直接情報が書き込まれる。誰の声なのかは分からない。ただそう言っていることだけは分かるのだ。おそらく、文字という情報だけを流し込まれる感覚という表現が一番近い。


『確認してくださいよ。貴女の武器がそれだけだと思っているなら、やってみてくださいよ。ほら、言葉に出して、さぁ』

「ここは…………」


 掠れた声で、絞り出すように。


「この戦いはあなたとわたしの戦いじゃない。わたしが、自分の中で決める戦い。この子を殺すか、諦めるか。それを決めるまで、殺され続ける場所。……わたしは」


 続かなかった。

『世界』の時は止まっていなかったのだ。

 善意や迷いなどといった無駄なものを全て排除した少女は、躊躇することなく引き金を引いた。



 27



 頭の感覚が麻痺していくのを感じる。

 殺される度に、思考が傾いていくのを感じる。

 死ぬのも、殺されるのも、もう慣れた。

 憎まれるのも、恨まれるのも、糾弾されるのも、もう慣れた。

 やっていることは単純だ。

 諦める。

 立ち向かうことを、ではない。

 躊躇することをだ。

 これまでの戦いで、サーバルは少女の攻撃を回避することしかしてこなかった。それも読まれ、殺されていったが問題はそこではない。

 一回たりとも、サーバルは少女に爪を向けられなかったのだ。

 前提として、フレンズの身体能力はヒトを遥かに凌駕する。元の動物がヒトか獣か、それだけでも大きな違いが出てくる。それを踏まえた上で考えると、やはりサーバルと少女の戦いはおかしかった。

 初見で殺されるのはまだ分かる。

 拳銃の性質を理解できず、少女の思考速度と応用能力に意表を突かれるのであればまだ分かる。

 ただ、それを全て理解し、経験した上で勝てないのは何故か。

 不意打ちを防げるほどの情報は記憶しているのに。

 身体能力で比べれば劣るはずがないのに。

 拳銃の有無は関係ない。

 それは端的に、気持ちの問題だった。

 どうしても捨てられなかった。

 かばんではないにしても、かばんになっていたかもしれない少女を手に掛けることを躊躇し続けた。

 でも、それももう終わる。

 この少女を終わる。

 殺されて、最初の『暗黒の世界』に戻る度に思考が固定する。

 繰り返して、真っ暗な戦場で少女と対峙する度に迷いが消える。

 そして。

 ついに。



 28



 ずぷりと。

 鉄を思わせる匂いを帯びながら、不愉快な水音が響いた。


「かっ……は、…………っ」


 少女の口から血とともに声が漏れた。

 驚きのあまり目を見開き、下へゆっくりと下ろしていく。その先にあるものを捉えようと目で追っていく。

 胸。その中央。

 そこに黄色の腕が突き刺さっているのだ。

 追いかける。その先にいる、誰一人として触れることが出来なかった肉体を傷つけた存在を。

 サーバルキャット。

 死んだ魚のような目をしていた。焦点は合っていなかった。瞳孔は開くことはなく、小さいまま見続けていた。

 自分の五体から、力が抜けていく。

 少女は疑問に思っていた。

 何故、自分はここにいるのか。

 どうして、目の前のと戦っているのか。

 でも。

 そのはずなのに。

 少女は薄っすらと微笑んでいた。


「……っ?」


 目の前の誰かは疑問に思っているようだ。それもそうだろう。

 もうじき、少女は死ぬ。完全に活動を停止する。

 なのに笑っている。

 その矛盾は、きっと目の前の誰かには理解できないはずだ。


(あぁ──、)


 沈んでいく意識の中で、途切れ途切れに想いを紡ぐ。

 微笑みながら。

 力弱く、抱きしめるように腕を回しながら。


(これで、終わるんだ……。やっと、操られるだけの運命から……)


 少女には何も分からなかった。

 ただ、頭の中に直接声が届いてきたのだ。

 逆らう力など無かった。抗おうとしても体は勝手に動き続けた。

 止めようと思っても、出来なかった。

 それも終わる。

 終わるのだ。

 そう、だから。


(あ、り……ぅ………………)



 29



 終わった。

 殺した。

 名も知らない少女を。

 顔は知っている少女を。

 間違いなく、疑いようもなく、自分の手で。


『ブラボー、ブラボー。素晴らしい。認めましょう、貴女の決意を』


 わざとらしく大げさな身振りで拍手をしながら、再びかばんの姿で現れた。


『これは僕からのご褒美プレゼントです。貴女が考える、元の世界へお帰ししましょう。ついでに体の方も治療しておきました。ご遠慮することなくお受け取りください』


 パチンと乾いた指の音に反応するように、ガラスの大地しかない真っ黒な『世界』は塗りつぶされた。

 その景色は見覚えがある。

 劇場。

 確か、全てが終わる前に自分が目覚めた場所だ。


『お出口はあちらです。どうぞ、扉を開けて進んでください。しばらくしたら目が覚めるでしょう』


『かばん』が指し示した先に赤い大きな扉がある。劇場の出入り口だが、この『世界』の出入り口としても機能するのだろう。勿論、それも『かばん』が決めるのだろうが。

 サーバルは何も言わなかった。ただ扉に近付いて、開ける。

 思ったよりあっさりとその扉は開いた。奥には薄暗い廊下が続いており、先は見えない。

 一歩、踏み出す。

 二歩目で、劇場を出る。

 三歩目が出れば、あとは勝手に歩いてくれた。

 暗く、長い廊下を歩く。

 徐々に光が視界を覆い、そして。



 30



「……………………みゃっ!?」


 サーバルはそこで目を覚ました。

 目の前にはステージがあり、先程までいた場所よりも少し明るい。

 状況を受け止めきれず、放心していたときだった。


「目が覚めたのですか、サーバル」


 声に反応して振り向けば、右の方に腰掛ける二人のフレンズがこちらの顔を覗き込んでいた。

 博士にツチノコ。

 ここまでの旅を一緒に歩んできた仲間だ。

 何となくだが、サーバルは察した。


「……帰って、きたんだ……わたし…………」


 先程の光景が夢かどうかは曖昧だ。

 しかし、そうではないと結論付けるものがあった。

 足。

 動物園で負った傷が消えてることに気付いたのだ。

 自分の両手をまじまじと見つめる。

 毛皮のせいで、その両手は白く見えるが、サーバルは知っている。

 この両手は。

 自分の両手は。

 もう、真っ赤に染まっているのだと。


「何があったかなんて聞かないぞ」


 ツチノコは顔を伏せてそう言った。今更気づいたが、博士もツチノコも顔色は最悪だ。彼女の言葉を解釈すれば、つまりはそういうことなのだろう。


「…………ありがとね、ツチノコ。行こう、セーバルを追わなきゃ」


 前を見て先に進む。

 首にかけた帽子を確認し、リュックを背負うと出口に向かい始めた。

 ツチノコがサーバルには聞こえないギリギリの声で、博士の横でボソリと呟く。


「いいのか、あのまま行かせて。アイツの顔色、悪いってレベルじゃねぇぞ」

「私にはどうしようもないのです。……私たちは、乗り越えられなかったのですから」

「…………そう、だな」


 出口付近でこちらの名前を呼ぶサーバルに返事をすると、二人もその腰を上げた。

 三人は劇場を出ていく。

 心の底で、様々な想いが渦巻いたまま。



 31



『ククク』


 誰もいない静かなステージの上で、『かばん』はくつくつと笑っていた。


『クク、クククククッ、クハハハハハハハハハハハハハ! ハッハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!!!! 殺した! 殺した! その手で、自分の手で!!』


 サーバルは諦めなければ活路が見えると信じていた。

 頭を腐らせる『世界』を乗り越え、少女と対峙するのを続けていけば、いつかは希望が見えてくると信じていた。

 しかし来ないのだ。

 待てども待てども転機など訪れるわけがないのだ。

 サーバルは知らない。近付くことは出来ても知ることはない。

 これは。

 この物語たたかいは。


 サーバルをこわす物語であることを。


 終わらない。

 何度だって繰り返す。

 そもそも、サーバルは導き出した真理を都合よく当てはめてはいなかっただろうか。

 殺すか、殺されるか。

 それがあの『世界』の真理だと誰が言った?

 確かにこうは言っていた。この『世界』は後に訪れるかばんを止める戦いの模擬試合リハーサル

 そのけものは嫌だった。

 それだけはやりたくなかった。

 仲間を傷つけ、幸せを壊し、『理想の世界』を拒んでも。

 その選択だけはしたくなかったのだ。

 なのに。

 なのに!!


『あァあァあァ! やってしまいましたねぇ、一番守らなきゃいけない存在なのに手を掛けてしまうとは! いや、それでは語弊がありますか。ふむ、自分に正直と言い換えるべきですかね? まぁそれでも、愚かであることには代わりありませんが。ククク……本当に思い通りに動いてくれますね。原初の獣さんは』


 サーバルは真理を掴むことは出来ていた。

 しかし、それはただの一端に過ぎない。

 そう、有り体に言えばサーバルは勘違いをしていたのだ。

 まず、第一の前提として。


 最初から、サーバルには選ぶ権利など与えられていなかった。


 殺しても、殺さなくてもいいのではない。

 殺さなければ無限の地獄と破壊を永遠に繰り返す。

 殺したら最後、ずぶずぶと底なし沼に沈んでいく。


『これで破滅の種は埋め込みました。。一度手に掛けてしまえば二度目は容易いはずです。一度盗みを犯した人間が、再び盗みを働くのと同じようにね』


 罪を犯すことに対する拒絶の意思。それが最も現れるのは皮肉にもする前なのだ。一度手を出してしまえばもう戻れない。一度やってしまえば嫌でもその感覚に順応する。

 だから順応させた。

 大切な誰かを、自分の我儘で殺すということを。やらされるのではなく、自らやるという行動を。

 どこでも良かった。

 サーバルが最後に壊れてしまえば、その瞬間がいつ訪れても気にしないことだったのだ。

 少女との戦闘で敵わないことを知っても良い。その前の無限地獄で立ち向かう意思を失ったって良い。

『神』には敵わない。

 一矢報いることさえ出来やしない。


『クッククク。どこまでちますかねぇ。いつまで友だちとして振る舞えますかねぇ。ヒトを殺しておいてトモダチなんて名乗るつもりですか? あぁ反吐が出る』


 邪悪にその笑みを深め、不気味にその表情を染めていく。

 だが、その表情もまったくの無に変貌した。

 結局の所、愉悦も快楽も加虐心も仮初めの虚像だった。

 セルリアンは何も感じない。それが真理なのだから。


『後悔してください。どうしようもない未来に絶望してください。他者を欺く詐欺師には、そのくらいが丁度いい』


 それを最後に、『かばん』は切って貼り付けたような笑顔を向けた。

 誰もいない客席に。

 或いは、誰もがいる客席に。


『さて皆様、いかがでしたか? 一匹の獣が贈る愚かで醜い物語。楽しんでいただけたら幸いです』


 しかし誰も応えなかった。

 だが、批判と称賛の声が劇場内を飛び交っている。聞こえるはずのない、誰かの声が。

 営業する時に振る舞うような偽物の笑顔から移り変わり、誰かを嬲る時に生じる狂気の微笑みをニタニタと浮かべていく。


『またいずれ、決して覚めることのない夢の中でお会いしましょう』


 劇場は幕を閉じる。

『世界』を利用した一方的な蹂躙は終わる。

 最後に。

 その『誰か』は丁寧に腰を曲げ、頭を下げるとこう締めくくった。




『では、ごきげんよう』




 分かりやすい逆転劇が起きることはない。

 救いなんてものはあり得ない。

 そう。

 何故なら。

 これは。

 サーバルキャットの心を挫く物語なのだから。

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