地動説 其の二
正午を過ぎようとしていた頃、教室の向こうからコンスタントに続く、力強い足音が聞こえる。その足音は段々近づいてきて、教室のドアを目の前にして止まった。二人はドアに駆け寄り、
「どうしたの、こんなところで」
と理佐が聞いた。ドアの前で息を切らしていたのは、科学部の後輩の男子生徒だった。
「ずっと二人を探していたんです。僕についてきてください」
とりあえず一旦落ち着いてからにしよう、と月山が声をかけて、彼の息が整ったのを確認して、理科室を後にした。
そこから一階に降りて、突き当りを進む。
あぁ、あそこか。理佐は見当がついた。
もう一つの理科室に向かっている。顧問の机がある化学準備室の隣、化学講義室だ。
本来なら顧問が担当している教科の講義室を使うのだが、昔から物理室を使っているという理由で、物理室を科学部の部室と化した。ちなみに副顧問は、女性の国語の先生だ。
彼は、理佐の予想通りに化学室の目の前まで案内した。ドアを目の前にしたとき、すっと退いて「開けて下さい」と静かな声で言う。
理佐と月山は目を合わせて、月山が顎を突き出す。開けろ、という意味らしい。
ドアをそっと横にスライドさせる。
ドアを開ききった、その時。
パーン!
クラッカーの爆発音が複数回。
「え……? どういうこと?」
突然のクラッカーの音できょとんとしている理佐。
「ご卒業、おめでとうございます!」
科学部の後輩達と顧問、副顧問が並んでいた。
言い終えた後、皆で咳込んで、瞬時に後輩が窓を開ける。
「卒業祝いだってさ」まだきょとんとしている理佐に月山は笑って言う。
「ありがとうございます! こんなことしてくれるなんて思ってなかった」
笑いながら、嬉しそうに皆に伝える。月山が、ほらお前も、と理佐に述べるよう促す。
「こんなこと、してくれるなんて思ってなかったからビックリしました。あ、ありがとうございます」
その後は、後輩たちが寄せ集めた菓子とジュースを食べて、飲み、全員で笑って語る。卒業式の後に集まって祝ってくれるほど、この代の科学部は仲がいいということだろうな、と理佐は感じた。
「あっ、思い出した」
突然理佐が席を立つ。
「どうしたんだ?」月山に返事する前に、理佐は自分のリュックを漁る。
「危ない、返しそびれてた」取り出したのは、茶色の紙のブックカバーが施された一冊の文庫本。
「何の本?」月山が本を覗き込む。
「夏目漱石の『こころ』。先生に借りてたの」
「学校で習ったじゃん」
「あの後に続きがちゃんとあるの」
へー、と月山が空返事をする。月山の耳に近づけて、
「ちなみに、これもヒントよ」
と耳打ちした。
ゾワッと鳥肌を立てた月山を無視して、理佐はブックカバーを外して副顧問の元へ駆け寄った。
「先生、本、ありがとうございました」
副顧問は振り返って、本を受け取る。
「どうも致しまして。面白かった?」
「はい。今まで読んだ物語の中で一番面白かったです」
「それはよかったわ。面白い本に巡り合えるなんて素敵なことね」
「そうですね。先生の教え方が上手いからこの本にハマったんですよ」
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。ありがとう」
もう二度と先生の現代文の授業を受けられないなんて、寂しい。その言葉を言おうとしたが、口に出すと更に寂しくなりそうになるので、理佐は心の中で留めた。
席に戻ると月山が「何であの本にハマったの? 普段物語とか読まないのに」と聞いてきた。理佐は、口に手を被せて唸り、言葉を探しながら、
「共感、できたからかな」
と絞り込んだように言う。
「共感? どっちに?」
現代文の授業で、夏目漱石の「こころ」は、後半の先生の遺書で「K」が「私」に談判したところから、「K」が自殺するまでのシーンを学習する。月山が言う二択は、「K」と「私」を表している。
「『私』に。もし、私が同じ立場に立ったら、ゾクッとするし、同じことをしそうだなって」
「意外。花瀬が恋愛ものにハマるとか」
「わ、私だって読むわよ!」
人を好きになることがこんなにも苦しいことが「こころ」を読んで深く胸に刺さるように共感した、なんて言えるはずがない。でも、夏目漱石が言いたかった趣旨はそれじゃない、と理佐は思う。
理佐は、それを弁解するように、
「『私』は、ただ素直に好きで居たかったんだと思う。だけど、『K』が苦しんでいるのを見て、自分も追い込まれて。恋愛感情を超えて、人としての善や悪の間をどう選んでいくべきか迷ってる。そんな作品、探してもなかなか見つからないって」
月山がこくり、と首を縦に振る。
「だから私、こんな作品がこの世の中にあるんだって感動したし、夏目漱石が何を残したかったのか考えさせられた」
「何を残したかったか分かった?」
「ううん、全然。自分の感覚で何となく分かっているけど、上手く言葉にできない。強いて言うなら、好きな人のためなら善悪を問わない」
「それ答えになってる?」
理佐は目をそらして、顎を持つ。
「共感、になってる」何せ私達理系だから仕方ない、と笑って胡麻化した。ま、俺らの仕事じゃねぇしな、と月山も言って笑いあった。
「そこまでハマるってことは、誰か好きになったの?」
理佐の息が止まる。世界はサイレントと化する。頭に熱が上がるのが分かる。
この、鈍感男め。
この鈍感さの所為でどれだけ悩んだことか。
でも今日でお仕舞い。
何でだろう、少し、寂しいのは。
理佐は目をそらす。顔が真っ赤なのは自覚済みだ。
半分拗ねて、半分照れ隠し。
「う、うるさい」
ぷっ、と月山が吹き出す。くすくすと笑いだす。
「な、何よ! 急に笑い出して!」これに理佐は癪が触った。
笑いながらごめんと言うが、まだ肩を細かく揺らす。
前言撤回。寂しいなんて嘘だ! 理佐はさらにご立腹。
後ろから副顧問が囁くように声をかける。
「あの、もう下校時間だからお仕舞いにしようと思うんだけど」
月山と理佐は、赤くなった。
「わ、分かりました。片付け、手伝いますね」
月山がそう言って、二人は立ち上がり、片付けを始めた。机を上に何も物を置いていない状態にして、後輩と先生達からマグカップとメッセージカードのプレゼントを貰った後、もう一つの理科室を去った。
月山がドアの前で理佐に呼びかける。
「ねぇ、まだ謎解き終わってないんだけど」
「あ、すっかり忘れてた」
腕を肩の下まで上げて「まだ下校時間来てないよ」と腕時計を確認した。
「理科室、行く?」
理佐は息を吐く。
「うん、行く」
これが、ラストチャンスだ。
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