地動説 其の三
秋から冬へと季節が変わろうとしていた二年の秋、理佐は忘れられない思い出がある。
科学部では、天体観測が毎年恒例行事で、夏休みと冬休みに一日だけ学校の屋上で観測する。一日と言っても、二十一時までと決まっている。本当はもう少し眺めていたいが、仕方ない。しかし、理佐はこの天体観測を毎度楽しみにしていた。
放課後、科学部は天体観測の予定日と、観測する星を生徒達で話し合っていた。本題から雑談に変わる頃、理佐は教室に忘れ物をしたことを思い出した。忘れ物を取りに行くと言って、理科室を後にした。
理科室を出て、三階から二階へ降りる。数十歩ほど歩いて、第一校舎から第二校舎を繋ぐ廊下を左に曲がり、突き当りを左。そこに理佐のクラスの教室がある。廊下の上を踏む足が、そこへ近づく度、女子達のゲラゲラとした笑い声が大きくなり耳に入る。
――キィン。
またあの耳鳴りがする。歩くスピードが自然と遅くなる。
「ねぇ、月山君と花瀬さんって付き合ってると思う?」
ゾクッと背筋が寒くなる。理佐はその場で足を止める。
「付き合ってるに一票!」
「えー。あれはないでしょ。だって、この前否定してたじゃん」
声の主は、秋頃に月山と理佐が付き合っているか聞いてきた女子達だ。
「月山君、顔はいいけど、話しかけづらいっていうか、ちょっと怖いイメージがあるよね」
「分かる! 頭いいけど、取っ付きにくいっていうか」女子達が共感の声を一斉に放ち、教室の中が更にうるさくなる。
何それ、と呟いて眉をひそめる。
この子達は何も知らない。本当は、面白いし、普通に笑う。それに天体に詳しいとこも知らないでしょ。腹立たしさは消えて、私の方が知ってるという優越感に浸り、自分が誇らしくなった。
女子達の会話は、絶妙な間でコンスタントに話が続く。
「でも意外な組み合わせだよね」
「それな! 花瀬さんって愛想良くないし」
「傍から見たら美男美女なんだけどなー」
「花瀬さん、美人?」
「眼鏡外せば、の話よ」
「えーでも、あの子、ヲタクじゃん」
「え? 何の?」
「ガリレオ・ガリレイ? らしいよ」
「えっ何それ。偉人じゃん。意味わかんない」
「それ、普通のヲタクよりキモくない?」
グサッ、とナイフが瞬時に心を突き刺す。
何であの子達に言われなきゃいけないの。
何も知らないくせに。
今まで周りの声なんてどうでもよかったのに。
平気だったのに。
どうして。
唐突のことで足がすくむ。判断力が鈍り、その場で立ち尽くす。すると、先生が後ろから声を掛けてくれた。内容は覚えていない。
それを遮って、理佐は理科室に向かって走り出した。
理科室に戻れば、いつものメンバーがいる。楽しい感情が欲しい。そして、この悲しさを忘れたい。しかし、この感情を、表情を晒してしまいそうになる。駄目だ。そういったすべての感情を乗せて、理科室のドアの前で深呼吸をする。吐いた時間が息を吸うより長い。窓ガラスが半透明でよかった、と思った。こんな顔、見せるものじゃないと勝手に思っているからだ。
ガラッとドアを開けて「どう? 話進んだ?」とメンバーに明るく振る舞う。
心の傷を相手に見せないのは、咀嚼しないまま飲み込むことと同じことだ。決して嗚咽したり、涙を目に溜めたりしてはいけない。そう心掛けた放課後は、いつもより時間が長く濃く感じた。
それから解散し、顧問が部長をどちらにするか決めるか話し合った。月山に決まり、その後、荷物をまとめていた。窓はクレヨンで塗りつぶされたような黒色。その中に温かいオレンジの街灯が灯り始める。
疲れた体が会話のネタを探す気力すら与えてくれない。教室に生まれる沈黙を破ったのは、
「今日、何かあったの?」
という一言。
理佐は月山の顔を見る。無表情でリュックに筆箱を入れている。顔に出ていただろうか。気を付けていたはずなのに。その言葉を含めた苦笑いで、どうして? と聞いてみる。
「いつもより明るく振る舞うし、頑張ってる感あったから」
そう? と気づいていないふりをすると、
「そうだよ。意外と顔に出やすいんだな」
と無表情で言う。
そんなこと言われると何も言い返せなくなる。理佐は口籠って、そんなことない、と小さく呟く。
「拗ねんなよ」
「別に、拗ねてないし」拗ねてるのではない。気づかれたことが嫌なだけだ。
「じゃぁ、何で怒ってるんだよ」
「怒ってないし」
「なんで不機嫌なんだよ。お前らしくねぇよ」
琴線に触れた。リミッターが外れる。
「らしくないって何よ! 何にも知らないくせに!」
その後の言葉が吐き出せない。月山は黙って理佐を見る。
我に返った理佐は、目をそらした。
「ごめん、八つ当たりした」
怒った勢いで立ち上がった熱を静めるように、椅子に座った。一つため息を吐く。
月山が、その場から移動して理佐の近くに歩み寄る。
「俺でよかったら話聞くけど」
目頭が熱くなる。嗚咽しながら「ありがとう」と笑ってみせた。
理佐は、月山の話を除いてクラスメイトの女子が話していたことを説明した。話を進めるほど、目に涙が溜まり、声がかすれていく。そして涙がぽたぽたと流れた。
聞き終えた月山は、きっぱりとこう言う。
「そいつらが何と言おうと、理佐は理佐だろ」
ティッシュで鼻をかみながら理佐は頷く。
「まぁ、ガリレオ・ガリレイヲタクが広まってたのは意外だったな」笑いを含めながら言う。理佐は、月山の背中を叩く。いたたた、と呟いた後、
「でもいいんじゃねーの。それがお前の良いところだと思うし」
と、さらっと言う。
「本気で思ってる?」
「今更言うなよ。思わなかったら会話してない」
ひどっ! と言うと、ごめんごめんと笑って胡麻化す。
「それだけガリレオ・ガリレイが好きなら科学者になれよ」
頭に疑問符が浮かぶ。
「この前、俺に天文学者になれって言ったろ。それのお返し」
そんなこと言ったなと思い出す。
「そうね。職業まで考えてなかったけど悪くないわ」
「お前なら絶対なれるって」
絶対ということは絶対ないと聞くけど、この絶対は有りだなと思う。
「おい、もう帰れよ」
顧問が勢いよくドアを開けて怒る。二人同時に瞬時に立ち上がって「すみません!」と言った。
月山が時計をチラリと見る。
「よし、走るぞ」
急いで正門を目指して走る。あと数十分で塾の時間らしい。月山の後ろを追いかけていると、言いかけた言葉を思い出す。正門に着く前に言わないと。
コンスタントに地面を叩く音との距離を縮める。
名前を呼んで、コートを少し掴む。
彼は後ろを振り返る。
「今日は、ありがとう」
オレンジの街灯の下に二人。あたたかい気持ちがオレンジと混ざる。クレヨンからデジタルのクリアに。黒色がオレンジを引き立てる。息切れなんてどうでもよくなる。月山は笑って、
「どうもいたしまして」
気を付けろよ、と言った。
この日、理佐の世界が回り始めた。
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