第12話 第二次長州征伐は京都を守るため?


慶応2年6月7日(1866年7月18日) 富士山丸等幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まる。第二次長州征伐開始。しかし薩摩藩は出兵を拒否。

慶応2年6月21日(1866年8月1日) 日白修好通商条約調印(ベルギー)

慶応2年7月16日(1866年8月25日) 日伊修好通商条約調印

慶応2年7月20日(1866年8月29日) 将軍家茂、死去(20歳)

慶応2年8月20日(1866年9月28日) 小栗忠順、ロッシュの仲介によりフランスからの600万ドルの借款契約に成功。これにより幕府の近代化と軍事力の強化を目指す

慶応2年8月30日(1866年10月8日)岩倉具視、親幕派の関白二条斉敬や朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳,中御門経之ら22名が朝廷に列参奏上したが、孝明天皇はこれを退け、逆に22名に対して謹慎等の処分を下した(廷臣二十二卿列参事件)

慶応2年9月2日(1866年10月10日) 幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成立

慶応2年10月12日(1866年11月18日) 樺太問題協議のため函館奉行小出秀実をロシアに派遣[1]

慶応2年11月15日(1866年12月21日) ロッシュ、徳川慶喜の依頼により幕政改革を提言

慶応2年12月5日(1867年1月10日) 徳川慶喜、十五代将軍に就任

慶応2年12月7日(1867年1月12日) 日丁修好通商条約調印(デンマーク)

慶応2年12月8日(1867年1月13日) フランス軍事顧問団、横浜に到着。翌日から幕府陸軍の訓練を開始。

慶応2年12月12日(1867年1月17日)孝明天皇、高熱を発す

慶応2年12月16日(1867年1月21日)孝明天皇の体に発疹があらわれ疱瘡と診断される

慶応2年12月23日(1867年1月28日) 孝明天皇、膿が収まり、吹出物が乾きはじめ、食欲回復、順調に快復

慶応2年12月25日(1867年1月30日) 孝明天皇、容態劇変、発熱、嘔吐、血便に苦しまれ、亥の刻(午後11時)過ぎ崩御。享年37(満35歳)。

12月~ 慶応の改革。ロッシュの意見を入れ老中の総裁制度(職務明文化)を採用


慶応3年(1867年2月5日 - 1868年1月24日)

慶応3年1月9日(1867年2月13日) 明治天皇即位

慶応3年1月11日(1867年2月15日) 徳川昭武、パリ万博のため出発

慶応3年1月23日(1867年2月27日) 幕府、長州征伐の師を解く


 これまでで注目すべきは、4カ国連合艦隊が神戸に停泊したままであることから、朝廷を守るために京都にできるだけの兵を集めたかったこと、第二次長州征伐の開始と長州征伐の師を解くまでの間に、天皇、将軍とも世代が変わっています。


  これには4つの意図があったものと思われます。


 1.攘夷から開国に変わる必要性。

    廷臣二十二卿列参事件にみられるように、公家の尊王攘夷派の一掃

 2.天皇が14歳と大変若いことと将軍が31歳という年齢差があります。これは最初から考えられていたと思われます。つまり若すぎると対外的に信用しづらい面がありますから、外国からは統治能力がないと判断されやすく慶喜側に政権の主導権があるような印象を与えることができます。これは天皇を守るために必要なことだったと考えられます。

 3.外国に対して、日本の政治の主導権が朝廷と将軍のどちらにあるかわかりづらくする必要性があったと考えられます。

 4.朝廷を守るために神戸港の開港をできるだけ先に延ばし、外国船を近づけたくなかったこと。


 長州征伐という名目で、薩摩と長州はイギリスを味方につけ、幕府はフランスの協力のもとに、武器の購入国を2つにすることで武器の大量輸入スピードを加速することができたと考えられます。また同時に軍事教練の技術も取得できたと思われます。

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