第13話 慶喜が望んだ王政復古


 ここでは、明治天皇の即位から鳥羽・伏見の戦いが起こるまでの流れを観て見ます。

 注目すべき点は12月7日の神戸港の開港です。この日は英・米・仏の艦艇17隻が集結し各国公使も大坂に滞在とあります。これは、外国からの最大の圧力と見るべきで、この日を境にして国内の情勢が大きく、しかも急激に変わってきています。


慶応3年 1月9日(1867年2月13日) 明治天皇即位

慶応3年1月11日(1867年2月15日) 徳川昭武、パリ万博のため出発

慶応3年 1月23日(1867年2月27日) 幕府、長州征伐の師を解く[1]

慶応3年2月6日(1867年3月11日) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと会見(同月7日、20日にも会見)

慶応3年3月25日(1867年4月29日) 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。このとき、パークスのみが慶喜の敬称を「陛下」ではなく「殿下」とした

慶応3年4月14日(1867年5月17日) 高杉晋作死去

慶応3年4月15日(1867年5月18日) フランス新外相ムスティエ、600万ドル借款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。

慶応3年5月4日(1867年6月6日) 四侯会議(島津久光、松平慶永、山内豊信、伊達宗城)

慶応3年5月17日(1867年6月19日)赤松小三郎、松平慶永に日本最初の議会制民主主義体制の建白書「御改正之一二端奉申上候口上書」を提出。同様の建白書を幕府や薩摩藩の島津久光にも提出した

慶応3年5月24日(1867年6月26日) 徳川慶喜、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得る

慶応3年5月25日(1867年6月27日)四侯側の敗北を受けて会議を開き、薩摩藩は武力倒幕の方針を固める

慶応3年6月10日頃(1867年7月11日頃) 坂本龍馬、土佐藩参政後藤象二郎に大政奉還を含む船中八策を提示

慶応3年9月3日(1867年10月1日)赤松小三郎、薩摩藩の中村半次郎と田代五郎左衛門に暗殺される

慶応3年9月18日(1867年10月15日)毛利敬親、討幕挙兵の断を下す。「禁闕奉護の処、実に大事の事にて、玉を奪われ候ては実に致し方なき事とはなはだ懸念。かえすがえすも手抜かりはこれ無き筈ながら別して入念に候様」。敬親は大久保一蔵を身近に招き、手ずから短刀一振を与える(大久保一蔵日記)

慶応3年9月21日(1867年10月18日)徳川慶喜が大納言から内大臣に任ぜられ、牛車を許される。徳川慶喜は自ら従前の三条における若州邸(小浜藩邸)より二条城に移る。

慶応3年10月3日(1867年10月29日) 土佐藩主山内豊範、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出

慶応3年10月6日(1867年11月2日)薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎、岩倉具視に幕府との戦争に備えて錦旗の偽造を提案し、密造するに至る

慶応3年10月14日(1867年11月9日)岩倉具視、中山忠能と正親町三条実愛と中御門経之と画策して 討幕の密勅を薩摩藩と長州藩に下す

慶応3年10月14日(1867年11月9日) 徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)。坂本龍馬は「将軍家今日の御心中さこそと察し奉る。よくも断じ給へるものかな。余は誓って公の為に一命を捨てん」と語った(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』)。朝廷、これを受けて薩長に倒幕延期の沙汰書を下す。これ以降、武力倒幕の大儀を失った薩摩藩の西郷隆盛は、相楽総三ら尊攘派浪士を用い、江戸で辻斬り・強盗・放火・強姦など凶悪犯罪を繰り返し、幕府側から戦端を開かせようと挑発し続ける

慶応3年10月24日(1867年11月19日) 徳川慶喜、征夷大将軍辞職を申し出るが、朝廷はこれを認めず

慶応3年11月15日(1867年12月10日) 坂本龍馬、中岡慎太郎、暗殺される(近江屋事件)

慶応3年11月18日(1867年12月13日)長州藩世子毛利広封、薩摩藩主島津茂久と西郷吉之助と武力討幕の挙兵を計画

慶応3年11月22日(1867年12月17日)長州藩の木戸孝允、同藩の品川弥二郎宛て書簡に「甘(うま)く玉(ぎょく)を我方へ抱き奉り候御儀、千載の大事」と書く

慶応3年12月7日(1868年1月1日) ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。各国公使も大坂に滞在

慶応3年12月8日(1868年1月2日)岩倉具視、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩に王政復古への協力を求める。朝議では長州藩主毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の赦免、三条実美ら五卿の赦免などが決められた

慶応3年12月9日(1868年1月3日)五藩兵が御所の九門を封鎖。摂政二条斉敬や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳は参内を禁止され、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して 王政復古の大号令を発した。徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止、京都守護職・京都所司代の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職をおく

慶応3年12月9日(1868年1月3日)小御所で最初の三職会議が開かれた。山内容堂らは大政奉還を英断した徳川慶喜の出席を求め、慶喜を議長とする諸侯会議政体を主張した。しかし岩倉具視らは慶喜の辞官納地を主張し、会議は紛糾。西郷隆盛の「ただ一匕首(ひしゅ)あるのみ」という言葉が土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者はなく、慶喜の辞官納地が決定した。ただし松平春嶽らの努力で400万石全納から200万石半納になった

慶応3年12月10日(1868年1月4日)長州軍、上洛

慶応3年12月12日(1868年1月6日) 徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着

慶応3年12月12日(1868年1月6日)薩摩の強硬な動きに在京諸藩の反発が広がり、肥後藩・筑前藩・阿波藩などが薩摩軍を御所から引揚げるよう要求する。薩摩藩内部からも大久保・西郷の強硬路線に反発の声が上がる。松平春嶽、「何れも薩の大久保一蔵・岩下左次右衛門・大嶋(西郷)吉之助等、悪まさるものなし。何分ヶ様相成候上からは早ふ真公議会にいたし度と、薩外(土佐・安芸・尾張・越前)は尽く骨折申候」。春嶽は、大久保・西郷を「奸士」と呼び、早く「真公議会」を始めたい、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩だけでは「私議」である、と述べている(松平茂昭宛書簡)

慶応3年12月14日(1868年1月8日)仁和寺宮(議定)が岩倉や大久保ら身分が低い者の強硬意見を抑えるべく、身分を正すことを求める意見書を提出

慶応3年12月16日(1868年1月10日) 徳川慶喜、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロシアの6カ国公使に「全国の衆論を以て我が国の政体を定るまでは、条約を履み、各国と約せし諸件を一々執り行ひ、始終の交際を全うするは余が任にある」と政権維持を宣言

慶応3年12月19日(1868年1月13日)大久保、新政権の諸外国からの承認獲得と外交の継続を宣言すべく、アーネスト・サトウ(英国公使館)らと協議し、諸外国への通達詔書案を作成。しかしそこに「列藩会議を興し、汝に告ぐる」とあることから、松平春嶽・山内容堂らは、小御所会議は数藩の代表でしかなく列藩会議とは言えないとして、改めて議論すべきと主張

慶応3年12月19日(1868年1月13日)慶喜、総裁有栖川宮に「天下ノ公議輿論ヲ採リ」「天下列藩ノ衆議ヲ尽シ、公明正大ノ理由ヲ以テ正ヲ挙ゲ奸ヲ退ク」べきとし、それができないなら王政復古の大号令を取消すことを要求。

慶応3年12月22日(1868年1月16日)朝廷、「徳川祖先ノ制度美事良法ハ其侭被差置、御変更無之之候間」と告諭

慶応3年12月24日(1868年1月18日)徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現となり、慶喜への処分的な色彩は失われれ、納地高も「天下公論の上」すなわち諸侯会議において決定するとされた

慶応3年12月25日(1868年1月19日) 江戸市中での薩摩藩による度重なる挑発行為に対して、庄内藩が薩摩藩江戸藩邸を攻撃、砲火により焼失した

慶応3年12月28日(1868年1月22日)徳川慶喜、辞官納地を承認。 朝廷、慶喜を前内府として議定に任じることを決定。朝廷、大坂城の慶喜に上洛を命ず。大坂城に薩摩藩邸焼き討ちの経緯が伝わり、「薩摩討つべし」の声が高まる


慶応4年/明治元年(1868年1月25日 - 1869年2月10日)

慶応4年1月1日(1868年1月25日)慶喜、「討薩表」を発す

慶応4年1月2日(1868年1月26日)慶喜、大阪から京都へ向けて出発

慶応4年1月3日(1868年1月27日) 慶喜の入京を阻止せんとする薩摩兵の一斉射撃によって鳥羽・伏見の戦い起こり、戊辰戦争始まる



 ここまでの流れを見ると、徳川慶喜は9月21日から12月12日まで二条城にいたことになります。

 ですから、

  慶応3年10月6日 幕府との戦争に備えて錦旗の偽造を提案し、密造するに至る

  慶応3年10月14日 討幕の密勅を薩摩藩と長州藩に下す

   同日      徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)

慶応3年11月18日 長州藩世子毛利広封、薩摩藩主島津茂久と西郷吉之助と武力討幕の挙兵を計画

慶応3年12月7日 ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。

慶応3年12月9日  岩倉具視らが参内して 王政復古の大号令を発した。徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止、

  同日       小御所で最初の三職会議が開かれた。

           慶喜の辞官納地が決定

  慶応3年12月10日 長州軍、上洛

 慶応3年12月12日  徳川慶喜、二条城を退去。翌日大坂城に到着

 

 上記の事は徳川慶喜も含め日本の舵取りをする要人達が同じ二条城という建物の中で次々と決め実行していった出来事です。

 つまり、すべてのことは合議のもとで行われたと解釈すべきで、武家社会で最大の権力者である徳川慶喜の意向が反映されていないなどと考えるには無理があります。

慶喜が二条城を出た後に薩摩の強硬な動きに見えてしまう在京諸藩の反発の広がりには理解できるところです。


 大阪に戻った慶喜が12月16日に6カ国公使に政権維持を宣言していますが、これは外国の勢力を自分に引き止めておくことで、朝廷に近づけさせない工作であったと思われます。


 さらに、12月25日 「庄内藩が薩摩藩江戸藩邸を攻撃、砲火により焼失した」ことをきっかけとして「討薩」機運が高まり、京都へ向っていた慶喜の入京を阻止せんとする薩摩兵の一斉射撃によって「鳥羽・伏見の戦い(慶応4年1月3日 )」が起こります。

 これらも、慶喜が二条城に滞在してた時にすでに決まっていたものと思われます。

戦いに敗れた慶喜が江戸に帰り謹慎を貫き通す事になるのですが、これは、諸藩の動きを止めるためであったと思われます。


 倒幕の戦争のきっかけを作ったのが、庄内藩による江戸薩摩藩邸の焼き討ちでしたから、戊辰戦争後の庄内藩に対して寛大な処置を行ったのは、薩摩から自藩邸の焼き討ちを要請をして、これに庄内藩が協力してくれたお礼ではなかったのかと推測するところです。



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