第10話 第一次長州征討は幕府からの援軍だった?
長くなりますが年表を薩英戦争からみて観ます。
文久3年7月2日(1863年8月15日) 薩英戦争
文久3年8月13日(1863年9月25日) 会薩同盟成立
文久3年8月17日(1863年9月29日) 天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士が大和国で決起するが、9月27日に壊滅。
文久3年8月18日(1863年9月30日) 八月十八日の政変。七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。
文久3年9月1日(1863年10月13日) 一橋慶喜、鎖港談判の着手勅命を受ける。9月15日、米・蘭との交渉を行うが、両国これを拒否
文久3年10月5日(1863年11月15日) 薩英戦争の講和成立、賠償金2万5千ポンド支払い。この交渉を通じて、薩摩と英国が接近
文久3年10月12日(1863年11月22日) 生野の変。平野国臣等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される
文久3年12月8日(1864年1月16日)小栗忠順、横須賀製鉄所建設案を幕府に提出
文久3年12月29日(1864年2月6日) 横浜鎖港談判使節団、フランスへ向けて出発
文久3年12月29日(1864年2月6日) 日本瑞西国修好通商条約調印(スイス)
文久3年12月30日(1864年2月7日) 一橋慶喜・雄藩諸侯(松平慶永、山内豊信、伊達宗城、松平容保、島津久光)ら朝議参預に任じられる(参預会議)
文久4年1月13日(1864年2月19日) 島津久光を参与に加える。
文久4年1月15日(1864年2月21日) 徳川家茂、再度上洛
文久4年2月20日(1864年3月27日) 讖緯説に基づく甲子革令の年に当たるため元治に改元
元治元年3月9日(1864年4月14日) 参与会議瓦解
元治元年3月19日(1864年4月24日) 西郷隆盛、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される
元治元年3月22日(1864年4月27日) 第二代フランス公使レオン・ロッシュ着任
元治元年3月27日(1864年5月2日) 天狗党の乱。水戸藩執政武田耕雲斎を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年1月14日)投降
元治元年5月 (1864年5月) 神戸海軍操練所設置。江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関
元治元年5月17日(1864年6月20日) 外国奉行池田長発、パリ約定締結[1]。横浜鎖港を求めて渡仏したが拒否され、フランス側のさらなる要求を飲まされる。
元治元年6月5日(1864年7月8日) 池田屋事件。長州藩、土佐藩などの攘夷派多数が新選組に斬殺・逮捕される
元治元年6月10日(1864年7月13日) 長州五傑の内伊藤俊輔、井上聞多、緊急帰国。オールコックの同意を得、長州藩の攘夷中止の説得を試みるが、失敗
元治元年6月28日 長州藩、外国船との戦闘を布告
元治元年7月11日(1864年8月12日) 京都三条木屋町で佐久間象山暗殺される。
元治元年7月18日 (1864年8月19日) 英米仏蘭4カ国連合艦隊、出撃を通告
元治元年7月19日(1864年8月20日) 禁門の変。薩摩藩・会津藩が、御所を攻撃した長州藩を京都から駆逐。(久坂玄瑞 自害)
元治元年7月23日(1864年8月24日)孝明天皇、禁裏守衛総督一橋慶喜を召し、長州を「すみやかに誅伐せよ」と自らの言葉で伝える。長州藩は朝敵とされた。
幕府(慶喜)は中国・四国・九州の二十一藩に出陣の用意を命じる。
元治元年7月28日(1864年8月29日)この日と前日にわたり、4ケ国の連合艦隊が横浜を出港し下関へ向かう。「幕末長州藩の攘夷戦争」 二日間で出航した軍艦は、イギリス9隻、オランダ 4隻、フランス3隻、アメリカ1隻であった。
元治元年8月2日(1864年9月2日)将軍家茂は長州親征を宣言 将軍家茂は長州親征を宣言し、御三家紀州藩主徳川茂承を征長総督を命じる。徳川茂承はこれを固辞する。 幕府は在府の諸大名、布衣以上を江戸城に集合させ、将軍家茂直々に長州征伐を諸藩(中国、四国、西国35藩)に命ずる。(第一次長州征伐)。
元治元年(甲子)8月2日(1864年9月3日) 四国連合艦隊が姫島に終結。
英、仏、蘭、米のユリアラス号(英)を旗艦とする四国連合艦隊17隻が国東半島の姫島沖に集結する。
元治元年8月3日(1864年9月3日) 将軍家茂、長州藩討伐の令を発す。
元治元年8月5日(1864年9月5日) 馬関戦争。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。
元治元年8月6日(1864年9月6日) 連合艦隊が長州沿岸前田等に上陸し砲台占領 。
元治元年8月7日(1864年9月7日) 4ケ国連合艦隊の工作隊、海兵隊が上陸し砲台の処理をする。
元治元年8月8日(1864年9月8日) 高杉晋作を正使とする長州藩の講和使節が旗艦ユーリアラスを訪れ和議を伝える。
元治元年8月10日(1864年9月10日) 長州と連合国との第2回会談が開かれたが正使は前回の宍戸刑馬(高杉晋作)ではなかった。高杉晋作は病気と称した。
キューパ提督の要求3項目が示された。
元治元年8月13日(1864年9月13日)幕府は征長出陣を命ずる。
幕府は薩摩、土佐、彦根藩等に命じ征長の部署を定め征長総督に徳川茂承を置く。
幕府は諸大名の部署を決定する。
元治元年8月14日(1864年9月14日)下関戦争の3回目の講和会議が、午後二時、ユーリアラス号で行われる。
四カ国連合艦隊と長州藩との和議が成立した。
条件として砲台の撤去、3百万ドルの賠償となる。この賠償は幕府にツケをまわした。
この会議に於いてキュ-パ堤督は彦島の租借を申し出たが長州側は断固これを拒絶。日本史を神代からとうとうと説きあかし、ウヤムヤにした。キューパ提督も軍事的観点から保証占領という構想には同意出来なかったのではないかと思われる。
元治元年11月18日(1864年12月16日) 第一次長州征伐。征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順
元治元年12月15日(1865年1月12日) 高杉晋作、下関で挙兵(功山寺挙兵)。長州藩の藩論が倒幕に統一される
これまでの流れで言えることは、薩摩は薩英戦争の後3ヶ月で講和成立していますが長州藩は下関戦争から和解までに1年3ヶ月かかっています。
これは4カ国連合という連合体であることから意見をまとめるのが難しかったことが挙げられると思うのですが、オランダという日本と親しい国を含んでいるので連合艦隊の情報は幕府にも伝わっていたのではないかと思われます。
また、オランダ船は日本人の役人も乗り合わせているにもかかわらず下関戦争で砲撃を受け大きな損傷を受けていますが、これは親しいからこそできたことではなかったのかと思えます。
幕府の動きとしては、7月18日 (1864年8月19日) 英米仏蘭4カ国連合艦隊、出撃を通告を受けて、翌日には長州藩の久坂玄瑞が自決した禁門の変が起こり長州藩が「朝敵」となり第1次長州征討が組織されています。
征長軍を長州藩に対する援軍と捉えるならば、4カ国連合に対して素早い対応と見ることができます。
高杉晋作が4カ国連合艦隊との和議交渉において前面に出ていますが、8月10日の2回目の交渉を休んでいます。これは、幕府と相談したものと思われます。
その結果、8月13日に幕府は征長出陣を命じており翌14日に和議が成立しています。
このことから、第一次長州藩征討は和議成立ができなかった時の戦闘要員、援軍ではないかと思われます。ですから高杉晋作も交渉が決裂し戦争になれば20万の兵力があるとの強気の交渉を臨めたと思えるのです。
また、第1次長州征討が発せられる原因となった禁門の変は「京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。」とされているのですが、この事件は長州征討軍を迎えるための「朝敵」となるのが目的であったため、京都市民を大勢巻き込むことは本心ではなかったと思われます。
ですが、記録によると「約3万戸消失」しかも社寺を含んでおり3日間も燃え続いた大火「どんどん焼け」と言われたそうです。この記録は本当なのか信じられません。なぜなら、放火は必要のない事でしたし、人的被害も少なく仏像や貴重な文化財も焼失せず今現在に残っているように思うからです。
幕末の事件や権力側の記録は常に外国の目を意識した外に向けてのものであったと思われるので大げさに記録しておく必要があったのではないかと考えます。しかも、京都は朝廷と幕府の中枢の要人たちが集まり、外国人を寄せ付けない要塞化している街だったはず。
もちろんこの事件の時には薩英戦争が終わっているので厳重な警戒の必要性は、なくなっていると思われるのですが、果たして事実はどうだったかのか知りたいところです。
禁門の変が起こる8日前に佐久間象山が元治元年7月11日(1864年8月12日) 京都三条木屋町で暗殺されていますが、彼は下関事件と薩英戦争の両方に参加していると思われ、このことを隠す必要があって彼は暗殺されたと想像するところです。
おそらく、この頃には幕府は4カ国連合艦隊の出撃のことを知っていたのではないかと思います。
また、和議が成立した8月14日には勝海舟が姫島に到着しています。
2回目の交渉に姿を見せなかった高杉晋作は、幕府の窓口である海舟や西郷らと対応をどこかで検討していたのではないかと推測するところです。
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