第9話 下関戦争は薩英戦争のための演習だった?

年表を生麦事件から薩英戦争まで見てみます。


文久2年8月21日(1862年9月14日) 生麦事件。江戸から京都へ向かう久光一行の通行を妨害したイギリス人4人が殺傷される。

文久2年12月12日(1863年1月31日) 高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち


文久3年2月2日(1863年3月20日) 尊攘派の台頭により長井雅楽失脚し、切腹を命ぜられる。

文久3年2月13日(1863年3月31日) 三事策に基づき、徳川家茂、上洛のため江戸出立

文久3年2月19日(1863年4月6日) 英国代理公使ニール、幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出

文久3年3月 壬生浪士(新選組の前身)結成

文久3年3月4日(1863年4月21日) 徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。

文久3年4月20日(1863年6月6日) 徳川家茂、孝明天皇に5月10日 をもっての攘夷実行を約束させられる。

文久3年5月3日(1863年6月18日) 生麦事件賠償金支払い予定日。攘夷令の影響を受け、幕府、英国に延期を通告

文久3年5月5日(1863年6月20日) ニール、英国東インド艦隊司令キューパー提督に、幕府に対する軍事行動を命令。キューパー、横浜から軍艦を江戸に向かわせる

文久3年5月9日(1863年6月24日) 小笠原長行、独断で賠償金11万ポンド全額を支払い、戦争回避。同時に、攘夷令に基づき開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告するが、口頭で実行の意志がないことも伝える

文久3年5月10日(1863年6月25日) 長州藩 下関戦争

  下関でアメリカ商船ペンブローク号を砲撃。

文久3年5月12日(1863年6月27日) 長州五傑、英国領事エイベル・ガウワーの助けを借り、英国留学のため横浜を密出国

文久3年5月18日(1863年7月3日) 幕府、文書にて開港場閉鎖と外国人追放を撤回

文久3年5月23日(1863年7月8日) 長州藩 フランスの通報艦キャンシャン号を砲撃。

文久3年5月26日(1863年7月11日) 長州藩 オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号を砲撃。

文久3年5月26日(1863年7月11日) 小笠原長行、幕府陸軍1600人を率い、海路横浜を出発、武力上洛を目指す。

文久3年6月5日(1863年7月20日) 家茂の説得により入京を断念するが、家茂の江戸帰還が認められる。

文久3年6月1日(1863年7月15日) 米国、下関に報復攻撃

文久3年6月5日(1863年7月19日) フランス、下関に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。

文久3年6月7日(1863年7月21日) 高杉晋作、藩に奇兵隊編成を建白

文久3年7月2日(1863年8月15日) 薩英戦争

文久3年7月8日、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。


 ここまでの流れとして、薩摩藩は生麦事件を起こし、長州藩は英国公使館焼き討ちをしてますので両藩はイギリスから恨みを買ってしまったと思われます。

 また、下関で長州藩が、米国とフランスとオランダを撃ち払い(攘夷)を根拠に砲撃を行った下関戦争(文久3年5月10日〜文久3年6月5日)が起こっています。

 一ヶ月後の薩英戦争(文久3年7月2日)で薩摩藩がイギリス軍に大きなダメージを与えることができたという史実があるのですが、薩摩藩が、異国の船相手に初めて対峙し、初めて戦う相手に対して何の情報もなく戦い勝利するのは難しく、対戦相手の情報があったからこそ大きなダメージを与えることができたと考えるべきだと思います。


 そうであるならば、薩摩藩にとって下関戦争というのは外国勢の戦略を知るための絶好の経験事例でありますから薩摩に情報が伝わっていないはずはなく、もしかしたら薩摩藩士も参加していたかもしれません。

 なぜなら、大砲を扱うのは経験のいる職人芸だったと思えるからです。それを裏付けるものとして下関戦争における砲撃の技術が徐々に向上していることが伺えます。

 文久3年5月10日 田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号を砲撃。ペンブローク号は周防灘へ逃走した。砲弾は当たっていないようです。

 文久3年5月23日 フランスの通報艦キャンシャン号海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を加え、数発が命中して損傷を与えた。

 文久3年5月26日、オランダ外交代表ポルスブルックを乗せたオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号を砲撃。癸亥丸が接近して砲戦となった。メデューサ号は1時間ほど交戦したが17発を被弾し死者4名、船体に大きな被害を受け周防灘へ逃走した。


 そして、文久3年7月2日–4日(1863年8月15日–17日)薩英戦争で薩摩藩がイギリス軍に大きなダメージを与えたとなるわけですから下関戦争の技術が生かされていると考えた方が腑に落ちます。ですから下関戦争は薩英戦争に勝利するため計画的に起こされた事件と言えると思えます。


 薩英戦争の時に「薩摩は総動員体制に入り、寺田屋事件関係者の謹慎も解かれた。」とありますから、謹慎の間に下関戦争に参加させたとも考えられます。

 ここでも思うことなのですが「謹慎」とか「島流し」とか忠義の熱い有能な志士たちを遊ばせておく時間はなかったのではないか、処分は表向きの事柄であって表に出せない、言えない、知られてはいけない活動を裏でしていたのではないかと思わざるを得ないのです。

 また、下関戦争でも薩英戦争でもいづれの戦争も百姓たちが参加しての総力戦ですが、この百姓たちは、薩摩藩士、長州藩士たちがなりすましていたのではないかとさえ思えてしまいます。



 注目すべきことは、下関戦争が起こった2日後には長州五傑と呼ばれる藩士たちが英国留学のため横浜を密出国してることです。

 外国を知る留学ではありますが、英国本国に対しての政治工作目的でなかったと思われます。


 さらに、

文久3年8月13日(1863年9月25日) 会薩同盟成立

文久3年8月17日(1863年9月29日) 天誅組の変。公卿中山忠光を主将とした尊皇攘夷派浪士が大和国で決起するが、9月27日に壊滅。

文久3年8月18日(1863年9月30日) 八月十八日の政変。七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。

 

 薩英戦争の後に攘夷派の排除運動が起こっています。

 国の世論づくりとして下関戦争までは攘夷の考えが必要であり、薩英戦争後は開国の考えが必要となった。その始まりの事件として「天誅組の変」「八月十八日の政変」が挙げられると思います。

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