第8話 生麦事件は作戦開始の合図だった?
文久2年6月7日(1862年7月3日) 島津久光江戸到着、幕閣との交渉を開始
文久2年6月10日(1862年7月6日)勅使大原重徳が登城し、将軍より上席に座って、一橋慶喜の将軍後見職・松平春嶽の大老への登用の勅旨を伝えました。
文久2年6月11日(1862年7月7日)議奏は将軍上洛を促す書簡を勅使大原重徳に送りました。
文久2年6月11日(1862年7月7日)将軍は御三家・御三卿を召しだし、勅諚に関する評議を行いました。評議には幕政参与の松平容保・松平春嶽、老中も参加しました。
文久2年7月2日(1862年7月16日) 長州藩主毛利敬親が入京しました。
文久2年7月3日(1862年7月17日) 大久保忠寛(後一翁)が側用取次に任命されました
文久2年7月6日(1862年8月1日) 幕府は一橋慶喜に一橋家再相続(10万石)を命じました。慶喜が登城して将軍に謁し、礼を言うと、将軍は、天皇の思し召しにより後見を勤めるようにとの直命を下しました。
文久2年7月6日(1862年8月1日) 長州藩は議論の結果、藩論を航海遠略策から破約攘夷に転換しました。
文久2年7月7日(1862年8月2日) 慶喜、春嶽に政事総裁職就任を勧告。島津久光、老中に幕政改革の建白書を提出。
文久2年7月27日(1862年8月22日)幕府は新たに京都守護職を設置することにしました。
文久2年7月28日(1862年8月23日)春嶽、会津藩に京都守護職就任の内命を伝える。
文久2年8月1日(1862年8月25日) 京都守護職が設置された
文久2年8月20日(1862年9月13日)会津藩は評議の上、守護職拝命を決めました。
文久2年8月21日(1862年9月14日) 島津久光江戸を出発。率いた軍勢は400人あまり。
文久2年8月21日(1862年9月14日) 生麦事件。江戸から京都へ向かう久光一行の通行を妨害したイギリス人4人が殺傷される
島津久光の江戸での役割は、作戦の実行部隊を指揮命令するための組織をつくることを目的に、幕府と朝廷の要人を京都に集め本部を築くことにあったと思われます。
外から見れば、大砲4門、鉄砲100を引き連れての登城ですから、軍事力による力の政策とも取れるのですが、外国の人から見れば、大砲4門という小さな部隊にしか映らず、その兵力で幕府を動かせるとは、幕府も弱くなったものだと映るでしょし、薩摩という藩が反逆を起こしたとも映る薩摩藩をアピールしたものだったでしょう。
一連のデモンストレーション行列も外国人に見せるためであり、おそらく立派な毛槍も一番目立つようにとの思いから作られていると思います。
全ての行動は外国勢にいかに観せるか観られるか、が重要であったと思われます。
生麦事件はイギリスを怒らせることを目的としたものでこの事件をきっかけとして翌年に薩英戦争が起こるのですが、このことは計算済みの行動と言えます。
おそらく、事件前の幕府にもわかっていたものと思われます。
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