第4話 将軍継嗣問題は朝廷の歴史を変えた?
将軍継承問題で活躍した橋本佐内の動きを見てみます。
安政2年10月18日(1855年11月27日) 橋本左内が越前藩御書院番組となる(医者を止める)
安政2年12月27日(1856年2月3日)西郷隆盛と橋本左内がはじめて水戸藩士原田八兵衛の邸で会う。
西郷は、かねて懇意の越前藩の参政鈴木主税(重栄)に対して、橋本左内の人物を称誉し、これを抜擢するよう薦める。鈴木主税は同僚の中根雪江と謀り、藩主の松平慶永に橋本左内を推挙することになる。
安政4年10月21日 (1857年12月7日)ハリス、将軍家定に謁見
安政4年12月8日(1858年1月22日) 西郷吉兵衛と橋本左内が橋本左内の小屋で、将軍継嗣の件で会談。西郷隆盛は一橋慶喜擁立についての島津斉彬の書簡を松平春嶽に渡す目的を持っていた。
安政5年1月14日(1858年2月27日)
朝廷(天皇)は三公および議奏、武家伝奏両役に外交の処分を諮問。
安政5年1月27日(1858年3月12日) 朝早く、越前藩士橋本左内は松平慶永の命をうけ、山内豊信から三条実万とその諸大夫森寺因幡守への直書をもち、開国論を公家に説くため桃井伊織と変名し上京の途につく。
安政5年2月9日(1858年3月23日)三条実万に面会し海外事情の切迫、慶喜の将軍就職の必要性を述べる。このときの感想「公家は西洋事情を詳しく知る気力がなく堀田正睦は大変」を松平慶永に報告。
安政5年2月30日(1858年4月13日) 橋本左内が三条実万に入説。西洋諸国が貿易を必要としていること、和親通商要求は西洋一体の通習で奸計悪謀はない。攘夷の無謀を説明する。三条実万は、外夷に対する処置には英主(慶喜)が必要との考えになった。
安政5年3月12日(1858年4月25日)廷臣八十八卿列参事件
関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計88名の堂上公家が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。
安政5年3月24日(1858年5月7日)
橋本は内勅に「年長、英明、人望」の字句がなかったことを知る。
安政5年6月19日(1858年7月29日) 日米修好通商条約調印(老中松平忠固が無勅許でも即時調印を主張)
安政5年7月6日 (1858年8月14日) 十三代将軍徳川家定、死去
安政5年7月10日(1858年8月18日) 日蘭修好通商条約調印
安政5年7月16日(1858年8月24日) 島津斉彬急死。
安政5年7月18日(1858年8月26日) 日英修好通商条約調印
安政5年8月8日(1858年9月13日) 朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅)。外国奉行を置き、水野忠徳らが任命される。
安政5年9月3日(1858年10月9日) 日仏修好通商条約調印
安政5年10月25日(1858年11月30日) 徳川家茂、十四代将軍に就任
安政6年6月2日(1859年7月1日) 神奈川・長崎・箱館を開港
安政6年6月12日(1859年7月11日) 英国と修好通商条約交換する。
安政6年7月23日(1859年8月21日) ロシアと修好通商条約交換する。
安政6年8月10日(1859年9月6日) フランスと修好通商条約交換する。
安政6年8月23日(1859年9月19日) グラバー来日、長崎にグラバー商会設立。
安政6年10月7日(1859年11月1日) 橋本左内処刑。
安政6年10月27日(1859年11月21日) 吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者
安政7年1月22日(1860年2月13日) 日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。
安政7年3月3日(1860年3月24日) 桜田門外の変。井伊直弼、暗殺される
将軍継承問題は、一般に一橋派と南紀派との政治抗争のように理解する向きがあるのですが、そうではなく幕府は一枚岩であったと思われ、「公家に対する意識改革」のためにあえて窓口を一橋派から南紀派に変えた面が大きいと思われます。あまりに攘夷か開国かを迫ってしまうと危機感と実感のない公家たちが南北朝みたいに分裂しかねないとの意識があったとみられます。
朝廷が「年長、英明、人望ある者を継嗣たる資格を持つものである」としてしまったら武士に頼ってしまい、朝廷の立場が今までと変わらなくなってしまいます。
それでは困りますから、朝廷の意見が言いやすく命令しやすい13歳という若い将軍にしたことで決着したものだと思われます。
目的は、
①攘夷から開国への意識を変えていただくこと
②朝廷から武士への指示を明確にしてもらこと
であったと思われます。
何故、将軍継嗣問題でもともと医者であり福井藩藩士なりたて2年目の橋本左内が藩主松平慶永の使いとの立場ですが、公家三条実万を相手にできたのか不思議に思えます。
公家三条実万にとって橋本左内が地位の低くいので話をしやすかったと思われますので、この地位を利用して公家たちの考えを聞くということが主な役割だったと思われます。
もし、継嗣問題で幕府の想いを通したいのであれば、朝廷を含む公家たちは幕府に政治を任せていたのですから、松平慶永がその地位を利用して公家に直接訴えれば済むことでした。
一橋派と南紀派との抗争のように映るのは、南紀派の井伊直弼が悪者のなることを引き受けて一橋派を守り、安政の大獄と呼ばれる時期に、計画の路線に沿わない公家たちを排除することができたのだと思われます。
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