第5話 公武合体とは朝廷も作戦に加わることだった?
流れを知るために事柄を整理して年表を見て観ることにします。
少し長くなってますが、注意して観ると何が起こったのか推測できます。
嘉永6月3日(1853年7月8日)
マシュー・ペリー、4隻からなる艦隊(内蒸気船2隻)を率いて浦賀に来航
嘉永6年6月22日(1853年7月27日)
家慶が病死
嘉永6年7月1日 (1853年8月5日)
老中首座・阿部正弘、大名・幕臣、庶民にまで広く意見を求める。
上は御三家の尾張家や水戸家から譜代・外様の大名、幕府役人、非役の幕臣・御家人、諸家の藩士、浪人など多数から賛否両論の上書が提出された。
勝麟太郎(30歳)上書
勝の意見は彼我の力を正しく認識し、無いものねだりをせずコストを考えながら段階的に富国強兵を実現する考え方である。 特に軍艦・武器等の充実には交易の利益を充てる事、軍事教練学校を設立し西洋流の兵制に変える事、有益な洋書を正しく翻訳し出版を官費で行うこと、そして困窮する下級武士階級を兵士として転用する事や、幕府管理の武器工場で活用する事などが述べられ
井伊直弼
「別段存寄書下書(べつだんぞんじよりがきしたがき)」は直弼が提出した2度目の意見書。アメリカとの戦争を避け、積極的に交易をし、航海術や海軍調練をおこない、外国に対抗してゆくこと、その後、場合によっては鎖国に戻すことを主張したものです。
嘉永6年10月23日(1853年11月23日) 徳川家定、十三代将軍に就任
嘉永7年1月16日 (1854年2月13日)ペリー、再来航。9隻の軍艦を率いて浦賀に来航
嘉永7年3月3日(1854年3月31日) 日米和親条約調印
嘉永7年4月6日(1854年5月2日) 吉田松陰、国禁を犯して米国に航しようとした罪で投獄される。
安政3年12月18日(1857年1月13日) 徳川家定、島津斉彬(一橋派)の養女篤子と婚儀。
安政4年10月21日(1857年12月7日)徳川家定、米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見
安政5年2月5日(1858年3月19日) 老中堀田正睦、日米修好通商条約の勅許を得るために入京。
安政5年3月20日(1858年5月3日) 孝明天皇、条約勅許を拒否
孝明天皇は、広く全国の大名たちと衆議を尽くしたうえで再度奏聞するよう幕府に命じた。
安政5年4月23日(1858年6月4日) 南紀派の井伊直弼、大老に就任
安政5年6月19日(1858年7月27日) 日米通商条約調印
諸大名の意見をまとめないまま調印したので一橋慶喜は猛反発。
安政5年7月5日(1858年8月13日) 井伊直弼、一橋派の徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶勝、松平慶永を隠居謹慎などに処す。安政の大獄の始まり
安政5年7月6日(1858年8月14日) 十三代将軍徳川家定、死去
安政5年7月16日(1858年8月24日) 島津斉彬急死。
安政5年8月8日(1858年9月13日) 朝廷、水戸藩に勅書を送る(戊午の密勅)。
戊午の密勅の内容
・勅許なく日米修好通商条約(安政五カ国条約)に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。
・御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。
上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。
安政5年12月24日(1859年1月27日) 朝廷、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。
「鎖国に戻すという説明に心中氷解した」とありますが、このことは井伊直弼の考え(開国し交易を行う)を孝明天皇が理解したと取ることができ、井伊直弼の計画に同意したことを示したのだと捉えることができるでしょう。
以上の歴史の事実から、大きな流れとして、朝廷は条約を結ぶにあたり、諸大名たちの意見を聞いてからにしなさいと言っているのに対して、井伊直弼は諸大名の意見をまとめないまま条約を結んでいます。考えられるのは、諸大名の意見はすでに聞いてあるので、朝廷の許しがないのであれば致し方ないとの思いだったのでしょう。
そして、大事なことなのですが、安政5年8月8日(1858年9月13日)朝廷から「御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ」と命令(戊午の密勅)が水戸藩にされています。
ここでいう「公武合体」を「朝廷もまた武士たちとともに協力し難局を乗り越えようではないか」との意味に解釈すれば、井伊直弼の立てる計画も朝廷の協力なしには成り得ないものでしたから、戊午の密勅は計画に力を与えてくれるもので、実効性が増したと考えられます。
つまり、孝明天皇は「広く全国の大名たちと衆議を尽くせ」の静観とも取れる消極的姿勢から、「公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよ」の積極的姿勢に5ヶ月の間で変わっています。
そして、この2つの勅命の間に、将軍徳川家定の死去と島津斉彬急死があるわけですから、二人の死の意味するところは、朝廷に国難打開のために協力をしてもらえるよう願い出た死の直訴ではないかと想像するところです。
そうであるならば、二人の死因は伏せておかなければならないことになります。
想像ではありますが、将軍徳川家定は切腹においては介錯がつき、島津斉彬は切腹に際して介錯をつけなかったのではないだろうか?
何故ならば、同じ日に二人が死んでいれば周りから疑問を持たれてしまいますし、そのことを避けるために時間差を設ける必要があったと思われます。
また、生麦事件において、リチャードソンが負った傷は、腹から内臓が突出するほどだったとありますから、島津斉彬の切腹の痛みをイギリス人にも解らせようとの思いからの「無礼討ち」のように思えてなりません。
ここでいう計画の名前が「幕政改革」ではないかと思われます。
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