第6話 安政の大獄とは計画立案の期間だった?
欧米列強からの植民地化を防ぎながら富国強兵への道を開く。
その事を、弱小国が実現するには大変難しい問題です。
この計画を立てたのが井伊直弼であるとすれば、こんな適任者はいません。
井伊家は戦国時代に強国に囲まれながらも生き延び、譜代大名筆頭まで上り詰めた家柄ですからその知恵と経験は受け継がれ更に発展させていたのではないでしょうか?
井伊直弼が茶の湯を極め「一期一会」という言葉も直弼が著の「茶の湯一会集」から生まれたとあります。100ページにも及ぶ所作が書かれているそうですが、細かく分析し意味づけられた作法が順に並べられ完成された一つの世界を作ってゆく。これは計画立案者に相応しい能力と言えると思います。
吉田松陰は井伊直弼のことを「実に仁君に相応しくその徳の高さに感涙す」と書いていますので、この二人は大いに議論し満足のいく計画ができたものと考えられます。
私が最初に「安政の大獄」が計画立案時期と思ったのは、吉田松陰が江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたとありました。
「評定所」とは江戸幕府の最高裁判所にあたりその場所は諸説あり、大老屋敷でも行われた歴史もあるようです。
「安政の大獄とは多くの知識人が全国から集められ評議された」ととらえるならば、老中である井伊直弼が富国強兵への計画を多くの知識人とともに作っていったと考えることもできると思われます。
さらに、
安政6年10月27日(1859年11月21日)吉田松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまったことで伝馬町牢屋敷で斬首刑に処されています。
安政7年3月3日(1860年3月24日) 桜田門外の変。井伊直弼、暗殺される井伊直弼は3月3日「桜田門外の変」で暗殺されています。
吉田松陰が涙を流して名君と尊敬する井伊直弼を殺せるでしょうか?
二人は計画作成の中心人物であったと考えられ、そのこと自体を秘密にするために松陰は自ら死を望み、直弼もまた死を受け入れたのではないでしょうか。
松陰の「君たち狂いたまえ」との言葉が飛び出したのも、この計画があったためだと解釈するところです。
もしもそうであるならば、その計画は秘密裏に行われなければならず、決して外国に知れてはならぬものであるはずです。
吉田松陰、井伊直弼らも含め多くの君主や志士達がそれぞれの役割を終え、自殺ともとれる死をとげています。
そのことは計画性があったことの一つの証明であり、幕末で起こった事件や騒動もその計画の中で起こったものと考える事もできるのではないでしょうか?
例えば「池田屋事件」 は計画を阻害する人たちの掃討ではないかと思われます。
大獄という名前付けも計画とは全く連想もしないものであり、連想されては困るものであったはずです。
この計画がなかったら明治維新を短期間に実現する事など不可能だったと思われます。
年表を観てみると
安政5年12月24日(1859年1月27日) 朝廷、間部老中を参内させ、鎖国に戻すという説明に心中氷解したという勅書を下した。
安政6年8月23日(1859年9月19日) グラバー来日、長崎にグラバー商会設立。後に討幕派を支援し、武器や弾薬を販売
安政6年10月27日(1859年11月21日) 吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者
安政7年1月22日(1860年2月13日)
日米修好通商条約批准書交換のため万延元年遣米使節が米艦ポーハタン号で出発。護衛名目で咸臨丸も渡米。
安政(万延元年)7年2月11日(1860年3月3日)
長州藩、長崎でケーベル銃千挺購入
安政(万延元年)7年3月3日(1860年3月24日)
桜田門外の変。井伊直弼、暗殺される
以上の事柄を見ると、吉田松陰は朝廷の協力が得られたこと(心中氷解した)、武器の購入窓口ができたことを知ってから、井伊直弼は日米修好通商条約批准を確認したこと、銃の購入ができたことを知ってから死んでいることになります。
この桜田門外の変に思うのですが、銃声を合図に事件が発生していますが、実は暗殺に見せかけた自殺ではなかったのだろうか?
使用された銃は桜の文様が施されたもので貴重な品であって下級武士が持てるものではなかったことから井伊直弼は自分の銃で頭部を打って自殺し、その痕跡を残さないために薩摩藩士の有村次左衛門が斬首して首を持って行ったのではないかと思われます。
また、この事件の前に暗殺に一度失敗しているとのことですが、下級武士が大老を暗殺することは忠義に反することなので、できなかったのではないかと思います。
そう考えると、計画立案者である井伊直弼は自分の死に場所を決めるのに悩んでいて、吉田松陰の知恵も借りながら薩摩と水戸に暗殺されるという筋書きを書いたように思います。そうすることで、薩摩と幕府との間に亀裂が生まれたように内外に見せかけることを考えたのではないかと思えてなりません。
続けて年表を見て見ると
万延元年3月18日(1860年4月8日) 江戸城火災や桜田門外の変などの災異のため万延に改元
万延元年3月27日(1860年4月17日) 遣米使節、ブキャナン大統領に謁見し批准書交換。
閏3月19日(1860年5月9日) 幕府、五品江戸廻送令を発布し物価高騰抑制を試みる(開港初年度で国内産生糸の20%以上が輸出に回されたため、価格が高騰していた)。
万延元年4月10日(1860年5月30日) 万延小判通用開始。金銀交換比が海外とほぼ同一となり、金の流出が止まる。
万延元年6月17日(1860年8月3日) 日葡修好通商条約調印(ポルトガル)
万延元年8月15日(1860年9月29日) 水戸藩主徳川斉昭(慶喜の父)没す。
万延元年9月1日(1860年10月14日) 徳川慶喜らの謹慎解かれる。
井伊直弼が3月3日に暗殺された同じ年の8月15日に水戸藩主徳川斉昭が亡くなっていますがこれもまた切腹してるのではないかと思われます。
理由としては、安政の大獄で攘夷推進の公家たちを処分したことへの詫びと開国推進派(一橋派)の復権であると思われます。
また、徳川斉昭は松平慶永に「自分は従来の経緯があるから攘夷を主張するが,若い人は開国を主張せよ」といったといいます。
つまり、井伊直弼のいう「開国する」ことは幕府も朝廷も一致することであったと思われ、残る、攘夷を主張する公家衆を排除する必要性から安政の大獄が生まれたと考えることができます。
表向き開国の主張は、下関事件、薩英戦争が終了するまで伏せられていたものと思われます。
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