第2話 ジョン万次郎は日本から送られた留学生?

 幕末に活躍したジョン万次郎ですが、彼のことを調べて見ました。

以下 Wikipediaの抜粋です。


1.出発について


  天保12年1月5日(1841年1月27日)に足摺岬沖での鯵鯖漁に出航する漁船に炊係(炊事と雑事を行う係)として乗り込んだ

ところが、万次郎達は足摺岬の南東15キロメートルほどの沖合で操業中、突然の強風に船ごと吹き流され、航行不能となって遭難してしまう[3]。5日半(資料によっては10日間[2])を漂流した後、伊豆諸島にある無人島の一つである鳥島に漂着し、同年5月9日(1841年6月27日)[3]、万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が新鮮な植物を調達しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された。


2.アメリカの生活について


 その後、アメリカで船長の船長の養子となって一緒に暮らすことになる。1843年(日本は天保14年)にはオックスフォード学校、1844年(弘化元年)にはバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。

 

3.帰国準備について


 1850年(嘉永3年)5月、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、金鉱にて金を採掘する職に就く。そこで得た$600(16302ドル為替レート110円とすると約180万円)の資金を持ってホノルルに渡り、土佐の漁師仲間と再会する。1850年12月17日、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。


4.帰国後について


 嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。


 以上のことを知ることができるのですが・・・

 あまりにも出来すぎてる感じはしませんか?


 ここは、「土佐藩がアメリカにジョン万次郎を留学させた」と考えることはできないでしょうか?

きっとジョン万次郎以外にも留学させた人がいたと思います。


 海外のことを詳しく知りたいと思うならば、大海の航海術がまだない日本にとって取れる策として漂流しかありません。

 アヘン戦争が始まった翌年であること、帰ってきたのがペリー来航の2年前であるから、その後の活躍を見ても、計画的であったと思わざるを得ません。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る