とんでも妄想幕末記 ーもしかしたら真実かもしれないー
坂本信二
第1話 幕末を調べ始めたわけ
まず、幕末の歴史記述についてはだれもが謎が多いこと、嘘の情報があることに気づいてる人も多く、私もその一人です。そこで、私なりの疑問点の解釈と仮説を書いてみることにしました。
事の始まりは、私が東北の街に引っ越してきて住むことになったのをきっかけに、歴史を調べてみようとの思いからでした。
よく「その地方独特の文化や考え方、習慣などの特色は江戸時代や維新のときの影響が色濃く影響している」と言われますし、このことは専門家のみならずとも異論がないことでしょう。
この街には戊辰戦争のときの歴史的人物の首塚があります。
私の出身地の熊本でも同じように歴史的な遺産があったか考えた時、小さいときに母親から「肥後の石工」の話を何回も聞かされていたことを思い出しました。
話にも出てくる有名な石橋が両親の実家である矢部町(現在名は山都町)に造られたことを知ったのは高校を卒業して社会人になってからでした。母親にしてみたら地元でもあり知ってて当たり前の思いから、私におしえて無いことに気づいていなかったのかもしれません。
初めて見た通潤橋の印象はその大きさに驚きそして誇りにも思っています。当時の最先端の技術を持って造られたでしょうし、現在の建物に例えるならば、「東京スカイツリーがど田舎に造られた。」と言ってもいいのではないかと思います。おそらく当時としてはそれほど衝撃的なことだっただろうなと感じました。
通潤橋のことをWikipediaで調べてみるかとの気軽な思いから始まった幕末歴史の調べ物でしたが、次から次へと建造当時の幕末に疑問点が生まれ、とんでもない仮説にたどり着いてしまったのです。
そのことを順を追って思い出しながらお伝えしたいと思います。
あくまでもWeb情報を元に仮説をたてていますので、資料不足、思い込みがあることは承知していただきたいのと、仮説に沿って調べてみるのも面白く、自分自身の勉強にもなるかなと思いで始めることにしました。
最初の疑問点は通潤橋はいつ、誰が、何のために作られたのか?
答えはWikipediaで調べてもらえばわかるのですが、
・米の増産のためにだけに作られたにしてはコスト高ではないのか?
・こんなに大きな水道橋を石で作る必要があったのだろうか?
と思いながらも、
「造られたは1854年。おお、世はまさに幕末。戊辰戦争と同じ時代ではないか。」
「あれ、どこかでつながっているのかも・・・・」
との漠然とした思いがしましたし
「もしかしたら、私がここにきたのも何かの縁かもしれないな・・・・・・」
と想像してしまいました。
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