第9話 責任
教室の扉を潜った瞬間、朝のざわざわが一瞬にして静寂へと変わった。
これが、イジメというものなのだろうか。
とすると、これは人生で初めてのイジメられ体験、ということか。
考えていた以上に心が痛む。
チクチクチクチク。
あっちからこっちから、顔と名前を知っているだけの同級生達の視線が僕を切り刻んでいく。
ふぅ。
席へと一直線に向かっていた僕の足は怨霊にしがみつかれたようにぴたりと動かなくなった。
それは本当に怨霊の仕業ではなく、あいつが……、時原小町があからさまな敵意を持った目で僕を睨んでいたからだ。
見ないように。見ないように。目を合わせないように。
なかなか無理なミッションを自身に課しながらも、なんとか気合いで乗り切った。
後は今日一日右側を見ないように過ごすことが出来れば……。
「ねえ」
出来れば、僕の一日はたぶんこれまでどおりの……。
「無視? ここでも無視するんだ」
これまでどおりの特になにもなく平和な……。
「へええ。不可抗力な私のあんなところを全部見ておいて、そんなことするんだ」
平和な……一日を……、送れるはずだった!
「不可抗力って。それはこっちの」
「こっちのなに?」
「……こっちの台詞」
「ふうん。人のパンツ全部見ておいて? うつ伏せで動けなくなった私のパンツを全部見ておいて?」
……。
…………。
サアアァァっと、なにかが体の中から引いていく感じがした。
立っているだけで目の前が揺れたから、それはたぶん血だったのかもしれない。
「おっはようさん!」
と、勢いよく教室に入ってきた岡部でさえ、一瞬言葉を失ってしまったのだから、それはもう相当な、異常とも言える静まりようだったのだろう。
そして、その静まりについて岡部は呟くようにこう言った。
「お前ら、銀行強盗に人質にされたみたいな顔してるけど、大丈夫か?」
∥ ∥ ∥ ∥ ∥
とりあえず昼休み話をしよう。
提案をそのまま受け入れてくれるとは思っていなかったけれど、時原小町は怒った猫の目を細くしたような目で「わかった」と頷いた。
そして昼休み。
僕たちが揃って弁当箱を持ち席を立つと、教室はやっぱり静まりかえった。
僕はスタスタと逃げるように教室の扉を潜り、四階の視聴覚室を目指した。
四階の視聴覚室前は僕が見つけた穴場スポット。
基本的に視聴覚室が使われることはないので誰かやって来ることはない。それに視聴覚室は四階の隅のぽっこりへこんだ場所にあるので、視聴覚室前は絶好のぼっちになれるスポット。もうかれこれ三回ほど僕はここで孤独な昼休みを過ごしている。
「……なに? こんな人気のないとこ連れてきて。一回パンツ見たからって、なんでもできると思ってるんじゃないわよね? そうだとしたら、遠慮なく死後の世界へ送ってやるから」
僕は溜息で返して、床に腰を下ろした。
「えっ。ちょっとやめてよ。そんなに下から堂々と覗こうとするなんて」
「してない!」
つい、声が大きくなってしまって、廊下に響いたその声に一人そわそわしてしまった。
「まず、話し合おう」
「なにを」
「正直変態扱いされるのは困る」
「困るって言われてもね」
「困る。とにかく困る。すごく困る。だから」
「だから、潔く責任を取らせて下さいってわけね」
なんていう清々しい表情。目はぱっと明るく煌めき、口元はなんとも見事な三日月を。
僕は頷きかけた首を押し返し、彼女の目の奥を覗いた。
「見つめても無駄よ。そんなことしたからって体は絶対に許さないから」
「誰もなにかしようだなんて思ってない」
「ふんっ。で、どうするのよ。責任。きちんと取ってくれるのよね?」
「……内容次第」
「内容次第? ふうん。じゃっ。君は一生女子のパンツをガン見した変態男でいいってことね? わかったわ。ありがとう、変態君。じゃあね」
「ちょっと待った!」
「えっ? なに。堂々と学校内で私の体を貪ろうっていうの? まっ。その前にあなたを幽体離脱させてあげるけどね」
「わかった。わかったよ。飲む。そっちの言うことを聞く」
「責任を取るって、そう言いたいのね。わかったわ。それじゃ、まずお昼にしましょう」
時原小町はそう言うと、すとんとというかぺたんと床に腰を……。
青。
目線を、目線を早く避難させないと……。
早く、目を、目を逃がさないと……。
「あっ! えっ!? ちょっと! なに見てんのよ!」
「……なに? なにも、……見てないけど」
我ながら下手くそすぎる演技。
「う、ううん。そう? それなら。まあ、あれね」
ありがたや。ありがたや。
時原小町は一人ふんふんと頷いた。
「でも、気をつけてね。私の女の部分は全部運命の相手に捧げるって決めてるんだから。じゃあ、とにかくお腹空いてるからお昼」
そう言うと時原小町は大きな巾着袋からおにぎりを二つ、あっ、三つ取り出した。
三つとも三角を崩した丸みたいな歪な形で、どれも海苔のない真っ白なご飯の塊だった。
中には具も入っていなく、おにぎりというよりただの白飯のようだった。
それでも時原小町はパンケーキでも食べるように、一つ、また一つと美味しそうに口に運んだ。
僕はそんな時原小町の様子をおかずに、冷凍食品を詰め合わせたマイ弁当に箸を向けた。
黙々とした昼食を終えると、時原小町は巾着袋を振り回しながら僕に言った。
「じゃっ。ご飯も食べ終わったし、パンツを見たその責任を取ってもらいましょうか」
僕は不承不承ながらもゆっくりと頷いた。
「これからたまに私と二人だけの時間を作ること」
は、い?
「ちょっと個人的にね、必要とすることがあるのよ。それには君が必要なのよ。あっ。正確に言うと、君というかお姉さんね。私一人だけじゃ色々と手間取ることもあるから、そのお手伝いをして欲しいの」
「うん? よくわからないんだけど。お姉さんって菊江さん?」
時原小町は親指を立て、それから中指を立てかけて、また親指を立てた。
「それは、僕に言われても困るんだけど。菊江さんに確認しないと……」
「ああ。それは大丈夫。君がいいって言えば絶対断らないから。どんなことでも『はい~。わかりましたわ~』って言ってくれるから」
「……なんか信じられないな。あれ? って、今菊江さんは?」
そういえば菊江さんの話題が一度も上がっていない。
「いるんじゃないかな。そこら辺に」
時原小町は視聴覚室の入り口を指さした。
「じゃないかなって、見えないの?」
「うん。今日はね。昨日の夜から面倒なことがあって一時的に見えないようにしてるの。あっ。聞こえないようにもね」
「なによ、その怪しむ目は。君にはわからないと思うけど、毎日毎日人間じゃないものが見えたり、変な声が聞こえたりすると疲れるのよ。すっっっごく。だから、そういう時のために色々と便利なグッズがあるのよ。見たくないときには見えなくする目薬。聞きたくないときには聞こえなくなるお香。そんなのがないと、幽霊の存在に私が死んじゃうでしょ」
まあ、確かに。
休む暇も眠る暇もなさそうだ。
「で、どっちなの。この提案を飲むの、それとも飲まないで変態として残りの高校生活を送るの?」
3秒待つ。
時原小町は左手の中指を立てた。
そして、人差し指。
続いて、親指。
アメリカのラッパーみたいだった。
「どっち?」
菊江さん。
僕の心の声が聞こえていますか。
僕はどうすれば……。
どうすれば……。
「変態っ!!!!」
!?
「なんだよっ。なに、叫んでるんだよ」
「ここに、へんたいが――――」
「わかった!!! わかりましたっ!」
「ん? なにが?」
ごめんなさい。菊江さん……。
今度しっかり謝罪しますから……。
「その、あれだよ。責任」
「私のお手伝い?」
「そう。引き受ける、よ」
「ほんとっ!? ありがとうっっ! 引き受けてもらえないんじゃないかって、不安だったんだ」
嘘つけ……。
「じゃあ、今後のこともあるから、今日の帰り集まりましょう。さすがにね、一緒に校門出るのはちょっと気が引けるから、昨日私のパンツを見られたあそこで会いましょう。いい?」
僕は重力に首をあずけた。
「ということで。また、あとで」
時原小町はすくっと跳ねるように立ち上がった。
その拍子に、……その拍子にまた残念ながら青いものがちらりと目に入ってしまった。
菊江さんと時原小町は仲が悪い シンイチ @shin-ichi
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