第7話 幽霊でした?


 理解しながらも首を傾げてしまうことがある。

 菊江さんの話を聞いても、時原小町の話を聞いても、素直に信じることが出来なかった。

 菊江さんが、隣に座り前髪をかき上げ、そっと僕に微笑んでいるこの菊江さんが……、


 幽霊だなんて……。


 

 信じられない。

 けれど、信じるしかない。


 菊江さんのお腹から時原小町の左手がぷらりと下がっているのだから。

 

 僕、菊江さん、時原小町。

 菊江さんを挟む形のこの密着フォーメーションでさっきから僕たちは普通ではない話を続けている。

 

 菊江さんが幽霊。

 それを僕に伝えたのは菊江さんの胸から顔を出した時原小町だった。

 時原小町は、初めての手品で成功したようなにっこりとした顔で言った。


「このお姉さん幽霊よ」と。


 時原小町の顔の上で菊江さんは目を閉じ、口を真一文字に結んでいた。

 そして、ゆっくりと時間をかけて唇を開いた。


 菊江さんは、青函連絡船の運航が始まった明治四十一年生まれで、富岡町で暮らしていたとのことだった。

 富岡町は僕が函館時代に暮らしていた町だったので、僕もそうだと伝えてみたところ、当時の富岡町は函館山の麓に近いところにあったのだと菊江さんは言った。

 僕が暮らしていた富岡町は当時亀田地区と呼ばれていたところだったらしい。十二年間暮らしていながらもまったく知りもしないことだった。


「私が暮らしていた富岡町は今は元町という名前に変わっているの。一応ね、その時の富岡町があった所に碑も立っているのよ」


『旧町名富岡町』


 そう書かれた碑が元町のどこかにあるというのも初耳だった。


 当時の函館はとにかく賑わっていて、函館港はいつでも船でいっぱいで、函館駅前の大門は店がひしめき人でいっぱいだったそうだ。

 その時のことを思い出しているのか、菊江さんは目を輝かせたり伏せたりしながら、当時のことを語り聞かせてくれた。

 

「そして、私は昭和六年。二十三歳の時に死んだの」


 死んだ。

 菊江さんはなんでもないようにさらりと言った。


「なんで?」


 !?


「気晴らしに川沿いを歩いていた時に持病の発作が起こって、それで。一人で、時間も夕方だったから誰にも気づかれなくて」


「孤独死か」


 !?


「そ、そうね。あまり人が行き来するところではなかったし、それに倒れたところがちょうど茂みのところだったから。次の日の午後まで見つけてもらえなかったの」


「ふーん。苦しかった?」


 !?


「えっ? ……うん。でも、途中からそれほど苦しくもなくなったけど」


「それって、もう死んでたんじゃないの?」


 !?


「そう、なのかな……」


「そうでしょ。いきなり楽になったってことでしょ?」


「それほど、楽ってわけではなかったけど」


「それですぐ気づけたの? 死んだって」


 !?


「ううん。そうね。自分のお葬式を見た時かな。ちゃんと理解出来たのは」


「葬式の時? それ、めちゃめちゃ遅くない? 死んでから結構経ってるでしょ」


 ……。


「そう……、だけど」


「意外とのんきな人ね。私だったら、幽霊になったその時から、『ああ、死んだんだな』って、すぐ理解するけどなあ」


 あっ。菊江さん。

 そんな悲しい顔を。

 

「言い過ぎだろ。なに人の心を踏みにじるようなこと言ってんだよ。さっきから」


「ん? 人? 幽霊だけど。ばりっばりの。まあ、元人って意味なら人ってことにしてもいいけど」


「またそういう言い方を」


「じゃあ、本人に聞きましょうよ。ねえ、でしょ? 違うでしょ、全然。幽霊は幽霊よね? 元人って方が合ってるでしょ? だって、いないんだもん本人はもう。ここにいるっていうか、あるっていうか。それは思念の忘れ物? みたいなものだもん」


 菊江さんは両手で顔を覆った。

 

「そうよね? 私の言ってること間違ってないよね? ね? ねえ? 聞こえてる?」


 菊江さんの肩が揺れ、鼻をすする音が聞こえた。

 

「聞こえてますかあ?」


「やめろよ。もう」


「なんで?」


「なんでって、失礼だろ、菊江さんに」


「失礼? なんで?」


「傷口をえぐるようなことばっかり言ってるだろ」


「えぐる? 傷口を? 誰が?」


 お、ま、え、だ。

 

 と、人差し指を立てたら、中指を突き立てられた。

 昔の映画かドラマなんかの影響だろうか。


「まあ、あなたはずいぶんとお人好しなお馬鹿だから良しとしておくわ。でもね、一つ。一つ、きちんとわかっておいて欲しいのは、お姉さんはもう死んでるの。幽霊なの。私たちとはまったくの別物なの。もちろん、人なんて呼ぶのは間違ってる。間違いも間違い。大間違い。人の形に見えてるだけ。ただ、生きていた頃のお姉さんの思念がそう形作ってるだけなの。だ、か、ら!」


 時原小町が菊江さんの体を突き抜けぐっと顔を近づけてきたので思わずのけ反ってしまった。


「同情はしないこと」


 ベンチから転げ落ちそうになった僕に菊江さんが手を伸ばしてくれた。

 けれどその手は僕の手を掴むことなくすっと宙を掠めた。


「はるくん」


 菊江さんは呟くように言った。

 その表情はふっと息を吹きかけたら消えてしまいそうな、あまりにも切なげで悲しげで儚げなものだった。

 

「はるくん」


 菊江さんはもう一度繰り返した。

 そして、言葉通りすうっと景色の中に薄れ、消えてしまった。

 代わりに唇を尖らせた時原小町の顔が目に入った。


「……菊江さん?」


 時原小町は目を細め、そこからさらに細め、閉じているのかいないのかわからない目で僕を見た。

 

「あ。菊江さんが、いなくなった」


 時原小町は菊江さんが座っていた場所をなぞるように指を揺らした。


「いるわよ。ここに」


「ここ、に? 見えないけど」


「効果切れちゃったのね。これ以上の使用は体に害を与える恐れがありますのでご遠慮下さい、ませえ」


 嘘くさすぎるスマイルと胸の前でチラチラ両手を振るふざけた仕草。

 さっきの彼女と同じ目で見てやった。


「彼女の言うとおりなんだと思う」


 菊江さんの声にキョロキョロと辺りを見回してしまった。

 

「思いが、私の中の思いがこうやってわたしをこの世界に留めているの。でもね、わかって欲しいの。もう少し生きていたかったとかそういうのではないの。わたしは……。わたしは、はるく――――――」


 聞こえなくなった。

 姿が見えなくなったのとは違ってブツリと声が途切れた。

 どうしてそうしてしまったのか、つい時原小町を見てしまった。


「……なに?」


「声も、菊江さんの声も聞こえなくなった」


「そう。そうなんだって、お姉さん。ん? なに、悲しい顔からほっとした顔に変わってんのよ。ふんっ」


 菊江さんの顔があるであろうところを見つめた。

 たぶん、菊江さんも僕のことを見てくれていると思うから。


「なにしてるの?」


「えっ。ああ。うん。いや、別に」


「ああ。そう。それならいいんだけど。お姉さんもうそこにいないよ。一応優しさで教えてあげるけど」


 ………………。


「幽霊ってそんなとこあるのよ。ひょっこり出てきたと思えば、勝手にいなくなっちゃったり。なんか、あなた結構危ない感じに見えたから、教えといたほうがいいかなって」


「あ、ああ。ありがとう」


「ああっ! ちょっと! もらいたいのは感謝じゃないでしょ! どうしてくれるのよっ!」


 なんだ、なんだ、今度は一体。

 

「……なにが、だよ」


 なんだよ、その今から喧嘩しますか的な目と半開きの口は。


「私のパンツ。見たでしょ。全部見たでしょ」


 そういえば。そうだった。

 それでここに拉致まがいに連れてこられて。


「また弁明させてもらうけど、あれは不可抗力だ」


「そんなのどうでもいいでしょ。結果、見たんだから。全部。丸々と」


「丸々とって……」


「でしょ!」


「うん……。まあ、そういうことになる、か」


「最低最悪変態鬼畜」


 変態? で、鬼畜……。


「私はね、生まれた時から決めてたのよ。初めてパンツを見せるのは運命の相手だって。それなのにっ。どう責任取ってくれるのよ!」


「生まれたときからっていうのは、ちょっと……。だって、お父さんに」


「なによ!」


 続きは言わないことにした。

 血が、流れるような気がしたから。それも冗談みたいに大量に。


「じゃあ、どうすればいい? その、責任取るってやつ」


「考えておく」


「はい?」


「明日までに」


 そう言うと、時原小町はベンチから腰を浮かせスタスタと来た方へと歩いて行った。

 僕は少し記憶を戻し、頭の中を整理してから彼女を追いかけた。

 公園の入り口で彼女に追いつくと、彼女は勢いよく振り返り、カッターみたいにチキチキした目で僕を見た。


「あのさ。聞きたいことがあるんだけど。一つ」


「加害者が被害者にものを尋ねるなんて。素晴らしい心を持ってるのね」


「さっきの件については、わかったよ。わかった。明日、ちゃんと聞くよ。ただ一つだけ教えて欲しいんだ」


「それはなに? 懇願してるの?」


「してる」


 ふうん。

 時原小町は鼻を鳴らしながらも、得意げな表情を浮かべた。

 面倒くさいやつながらも、意外とちょろいやつなのかもしれない。


「なに?」


「君は、なんで菊江さんが見えたり、菊江さんの声を聞いたりできるの?」


「菊江さん、菊江さんって。私はお姉さんとなんの関係もないから」


「ああ、いや。それじゃ、なんで幽霊を見れたり、声を聞けたりするの?」


 時原小町は、ずりりと音を立て足を広げると胸の前で腕を組んだ。

 帰りの遅い子供を玄関先で待つ昭和のお母さんみたいに。


「そんな力があるからよ。わたしはね――――」


 

 かなりレベルの高い霊能力者なのよ


 

 ふんっ。

 とは聞こえなかったけど、そう聞こえそうなくらいの勢いで首を振ると、時原小町はさっきよりもズカズカとした足取りで去って行った。

 

 僕は苛立たしげなローファーの靴音が聞こえなくなってから公園を出た。

 

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