第6話 聞こえる!?

 菊江さんは後ろの木にもたれるように立っていた。


 何度ばちばち瞬きしてみても、やっぱり夢の中の菊江さんだった。

 長い髪の毛もほんのりと赤く色づいた唇も、白に薄紫色の紫陽花が描かれた着物も、赤い鼻緒の草履も、全部が全部夢で見たままだった。


僕と目が合うと、菊江さんは困ったような照れ臭いような夢の中では見たことのない表情を見せた。

 

「菊江……、さん」


 名を呼ぶと菊江さんは僕のすぐ隣に立った。

 間近で見ると、そのあまりにも美人すぎる様に呼吸が止まってしまいそうになった。

 

「えっ?」


 声が小さすぎて聞こえない。


「あの、菊江さん?」


 あれ?

 やっぱり、声が小さくて……。うん? いや、なんだろう。声を出してない? 口は動いているのに……。


「本当に一途よね。聞いてるこっちが恥ずかしくなるんだけど」


 時原小町を見ると、気持ちの悪い食べ物でも見ているような苦々しい顔をしていた。軽く舌まで覗かせて、昆虫料理でも眺めているかのうようだ。


「なによ、また睨んで」


 きっ、と時原小町を睨み付ける菊江さんもなかなかに男前で素敵だった。


 また口をパクパクと。

 大声が聞こえそうなくらいパクパクと。


「なによ。そんなにまくしたてなくったていいでしょ!」


 まくしたてる?


「なにが? どうしたっていうんだよ」


「どうしたって? なんで私がこんなにとやかく言われなきゃなんないの」


「君が? 誰に?」


「誰にって、他に誰がいんのよ」


 時原小町は菊江さんを指さした。……中指で。


「菊江さんが、なに? どうしたっていうんだよ」


「どうしたって、なに寝ぼけたこと言ってんの。ぎゃあぎゃあうるさいって言ったの」


「うるさい? なにも言ってないだろ、菊江さん」


 時原小町は首を右に左に傾け、それからパンと手を打った。


「そっか。そういうことか。でも、これ、上手くいくかな……」

 

 また鞄の中に手を。

 ……出た。必殺の巾着だ。

 紐を解くな。解くな。

 水? 

 半分くらいに減ったペットボトルの中に巾着から取り出した、なんだ、白いさらさらした、塩? みたいなものを一つまみ二つまみ。

 横にシェイクシェイクシェイク。縦にシェイクシェイクシェイク。

 

「ああっ!? 耳に虫!」


「うん?」


「髪の毛、あっ! 髪の毛から耳に入ろうとしてる!」


「虫!?」


「毛虫みたいな」


「っうぉ」


 反射的に耳の辺りを手で払った。


「取れた?」


「まだ。髪の毛。耳にかかってるところ」


 耳の辺りを払って払って、払った。

 毛虫はこの世界のなによりも苦手。

 また払って、払った。


「取れた……?」


「見せてみて」


 時原小町に首を向けた。


「っああああ!?」


 耳に、水が……。水がぁっ!


「なに、を」


「ばっちり入りました」


 ペットボトルの蓋を閉め、時原小町は頷いた。


「なにがばっちりだ! いきなりなにしてんだよ」


「大丈夫?」


「大丈夫なわけないだろ!」


「なにか拭くもの」


「拭くもの? それならなんでこんなことするんだよ!」


「ちょっと待って」

 

 時原小町は右手の手のひらを僕の顔の前に立てた。


「私なにも言ってないけど」


「大丈夫?」


「だいじょう……?」


 声は後ろから。


「はるくん。大丈夫?」


はる、くん?


「えっ。菊江……さん?」


 菊江さんは心配そうな顔をしていた。眉が下がり、唇はへの字になっていた。


 菊江さんだ。菊江さんの声だ。

 少し高くて、柔らかくて、夢の中で僕の胸をうるさくさせるあの、菊江さんの声。


「すぐ拭かなきゃ。ねえ。なにか持っていない?」


「あるにはあるけど。汚いハンカチだけど。それでいい?」


「駄目。嫌」


 菊江さんは首を振った。


「じゃあ、ないよ」


「これ以上はるくんに嫌なことしないで」


「嫌なことなんてなにもしてないでしょ。私のお陰であなたの声が聞こえるようになったんだから。感謝して欲しいくらいよ。大事な塩なのに。あなたたちのせいでかなり減っちゃたじゃない。作るのにすごく時間かかるのよ、これ」


 菊江さん……。


「ちょっと」


 夢の中の菊江さんが現れて、話までできて。

 嬉しすぎて、ぼおっとしてしま……


「っが!」


 たぶん、拳。

 で、顎を打たれた。


「なに遠く見てんのよ。元はと言えば、あなたが原因なのよ。わかってんの? どこからどうやって連れてきたのかしらないけど」


「止めて! 本当にもう、これ以上のことは許さないから」


 腰に両手を当て、仁王立ちする菊江さんもなかなか素敵だ。


「どう許さないって言うの? ふんっ!」


「ってえ! なにすっ! あっ。いてええ。いてえって!」


 耳がちぎれる。本当に、ちぎれるって。


「止めて!」


 菊江さんの白い腕がすっと頬をかすめた。


「いてえええぇっ!」


「止めてよ!」


 止めて。止めてよ。

 菊江さんの声が続き、僕の耳が引っ張られ続け、最後に時原小町の勝ち誇った声が響いた。


「ほら。なにも出来ないでしょ?」と。

 

僕はたぶん真っ赤になっているであろう耳をさすりながら、涙を零しそうな潤んだ目の菊江さんを見つめていた。

 

「ちゃんと現実を見て」


 時原小町の言葉に菊江さんは俯いた。

 その姿は可哀想という言葉では表現出来ないほど切なげだった。


「僕のことはともかく。止めろよ。菊江さんに辛くするのは。関係ないだろ」


「はああ? 関係ない? 関係ないって言った?」


「うん」


「現実見えてない人がもう一人。ほんと、嫌になっちゃう」


 時原小町は溜息と共に立ち上がると菊江さんに寄り添うように身を寄せた。

 菊江さんは変わらず俯いたままだ。


「よく見て。その目を開いてよく見るのよ。瞬きも禁止。じゃっ。行くわよ」

 

 そう言うと、時原小町は菊江さんの後ろに回り込み、そして……


「うわぁっ!」


 菊江さんの胸から手が、二本の手が。


 あああうわうわうあぁうっっっ!?

 これは僕の心の声。

 実際は驚きすぎて声も出てこなかった。

 

 なぜなら、菊江さんの胸から時原小町の不機嫌な顔がずいと飛び出してきたからだ。

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