第2話 時原小町です
菊江さんの夢を見た日は大体良い一日になる。
それはたぶん浮かれだった気持ちのせいなのだろう。
菊江さんのことを思い出すと、心に広がる憂鬱という名の霧はさささっと晴れていく。
だから、菊江さんのお陰で普段よりも二つ分イヤホンのボリュームを落とし、少しだけ軽い足取りで学校へ向かうことが出来た。
ホームルーム開始の予鈴がなる三分前にざわつく教室へと入る。
早く着きすぎるとその分だけ辛い時間を過ごすことになるし、予鈴ぴったりだとたまに担任の岡部と廊下でかち合う時がある。
予鈴三分前というのはこの三ヶ月の間に発見したベストタイムだ。
三分耐えれば、僕は教室という空間の中の一部として消えられる。
「おはよう! 今日も元気すぎるな、お前らは。ちょっとくらい静かにしてもいいんじゃないか。まっ。朝から元気ってのは良いことだけどな。ぶっははははは!」
一番うるさいのは先生じゃん!
先生の方が俺らより声でかいって!
いつもながらの喧しすぎる朝の光景。
その声に隠れるように僕は溜息を吐く。
「っつーか。お前ら。マジ、マジでな。今日はちょっと静かにしろ。っしー。おいっ! 上野。うるせーって。明日からまた騒がせてやるから、今日は静かにしろ。はい!」
岡部は一つ手を大きく叩き、それから人差し指を突き立てた。
「なんとな、今日はちょっしたビッグニュースがある。実はな……。実はだな……」
先生、間が長いって。
無駄に溜めすぎー。
「ごほん。静かに。ええと。では、言うぞ。1-A諸君。本日を持って、お前らの仲間が一人増える。扉の向こうに新しい仲間が待っている。転校生だ」
えーっ! と、きゃあー! と、マジで!?
その三つの言葉のどれかを発しなかったのは僕だけではないかと思う。
だけど、正直言うと僕もちょっとは驚いた。不意打ちにしては突然すぎたから。それにこんな夏休み前の七月に転校生だなんて。
「それでは、ご紹介しよう」
岡部は冗談ぽく教壇を飛び降り、扉を開けた。
教室が静まり、誰もが扉を見つめていた。
「入って」
岡部に促され、教室に入ってきたのは女子だった。
目を惹かれたのは僕だけではないはずだ。
それはなにも彼女がボブカットだったからでも、胸のリボンがちょっと雑に結ばれていたからでもなく、整いすぎたといっても大袈裟ではない端正な顔立ちといささか短すぎる膝上のスカートから突き出た二本の綺麗な足のせいだ。
「それでは自己紹介お願い出来るかな。出来たらちょこっと趣味とかなんかも言ってくれたら嬉しいな」
彼女は岡部の方を見向きもせず、笑いもせず、険しい表情で(たぶん)教室の後ろの掃除用具入れを睨んでいた。
それは(きっと)僕の真後ろあたりだったせいか、僕が睨まれているようなそんな感じがして机の上に視線を逃がしてしまった。
「
時原小町は素早く短く頭を下げた。
どんな声も上がらなかった。教室はしーんと静まったままだった。
「ほら、男ども。見とれすぎて黙ってんじゃねえぞ。小町といえば小野小町。小野小町といえば古今和歌集。古今和歌集といえば紀貫之よ。袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん」
余計に静まってしまった教室に岡部は無理矢理笑い声を響かせた。
残念と言うべきか誰も笑ってなんてくれなかった。
「ああ。それじゃ、あれだな。席、席。席がなきゃな。んと、時原さん。時原さんの席はあそこだ。戸村と
はい。
戸村さんの返事を二人分ということにしてもらって僕は黙っていた。
時原小町は凜とした足取りでずんずんと進み、僕の隣の席に腰を下ろした。
ふんわりとした良い香りがした。それはこれまで嗅いだことのない香りだった。
「はい。みんなもよろしくな。時原小町さん。今日からもう1-Aの仲間だから。仲間として接してくれな。それじゃ、お前ら今日も一日しっかり他の先生の話聞くんだぞ。特に上野。ちゃらちゃらしてみんなの授業の邪魔すんなよ。がっははははは!」
上野は、「邪魔なんてしてないって」と普段の半分以下の声で言った。
岡部が教室から出て行くと、教室はさっきまでとは違った微妙な空気に包まれた。
いつもなら一時間目の先生がやって来るまでなんやかんやと盛り上がりを見せているのだけれど、話し声は遠慮がちで、それはどこか入学式の時のような雰囲気だった。
隣を見ると、時原小町はじっと前を見ていた。
やっぱり表情は険しく、不機嫌そうに見えた。美人は美人でも損をする美人だ。もったいない。
「ん?」
つい隣から発せられた声に反応してしまった。
盗み見るようにしていた目がしっかりと時原小町に向かってしまった。
なにか言いたげな時原小町に「なに?」だなんて声をかけられるわけもなく、僕はほんの少しだけ首を傾けて見せた。
「×××××、○▽△×○○○△」
声が小さすぎて聞き間違ってしまったのか。
もう一度、なに? の代わりに首を傾けた。
時原小町は、はっきりとわかりやすく今の心境を教えてくれた。
奥二重の目はあからさまに細められ、その目は完全に僕を標的としていた。
そして、さっきの言葉をもう一度繰り返してくれた。
「さっきからずっと、なに見てんのよ?」
それほど大きくない声だった。いつもなら目の前の席の人にだって聞こえなかったかもしれない。
入学式の自己紹介の時以来だった。
こんなにも多くの目が僕に向けられたのは。
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