深海の椅子(終)
目の前に、古びた木製の椅子が1つ。
椅子の周りを照らすように、頭上からぼんやりとした白い光が射し込んでいる。その光源は見えない。
ザッ、ザッ、と椅子の奥から足音が聞こえる。
「やぁ、ごきぜんよう。」
鼻の下に整えられた白い髭。
タキシードを着こなし、手にはステッキを持っている。いかにも『紳士』と言った格好をした老人が現れた。
「私はこの物語の語り部。この深海の中の、住民の1人。」
老人は、『あなた』に語りかける。
老人は椅子に腰を下ろした。
「今君がいる、ここも深海だ。君にとって、深海とは、なんだろうか。深海と聞いて、何を思い浮かべるのだろうか。イメージしてほしい。」
老人は髭を指で撫でながら問いかける。
「グロテスクな生き物を想像しただろうか。深い、暗い、寒い。そのような事を想像しただろうか。答えがどうであれ、その全てが正解だろう。」
気づくと、老人の座る椅子の脇に、小さな机が置かれていた。
テーブルの上にはロックグラスとジンの入った瓶が置かれている。
「すべてはイメージ次第で、どのようにも形を変えるからね。」
ロックグラスにジンを注ぎ、グラスを回してカラカラ、と音を立てた。
「未知の深海は、時としてあの少年少女達のように、無限の可能性だって感じられる。たゆたう静けさも、幻想的な輝きさえも。」
「またある青年のように、おぞましい程の狂気が隠されているかもしれない。孤独な深海は、恐ろしいかい?」
「1人の青年は過酷な生存競争の中にも、遠くに光る希望を強く待ち望んだ。彼はいつしか、その輝きを掴めるのかもしれない。」
「そしてある老人はの昔ばなしのような、『不思議』な場所かもしれないね。すべてはイメージで、形を変えるのだから。」
「私は。」
ジンを1口。
「ただの語り部。彼の思いを、ここに来た人に伝えるだけの者。こんな深海を思い浮かべたお酒好きな彼は今頃、この本を読み返しては自分の深海に浸っているんじゃないかな。」
あなたの目の前に、大きな机と椅子が現れる。
机の上には、紙とペンが置かれている。
「君の思う深海は、どんなものだろう。何を思って、そこから何を連想するのだろう。」
辺りが徐々に暗くなる。
「さぁ。私の役目はここまでだ。君がこの本を閉じれば私も消えてしまうだろう。また開けば、再び君の前に現れよう。この深海と共にね。そこで私は、きっと同じ問いかけをするはずだ。そこで君が思い浮かべる言葉は、もしかしたら違うのかもしれないね。」
辺りは真っ暗になり、机の上の紙とペンだけが照らされる。
「さぁ。君は深海に、何を見る?」
深海(終)
短編集 深海 あね @Anezaki_
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