第2話  『旅立ち』その2

 大きなスピーカーが置いてありました。


「いったい、どこから電気が来るのだろうか?」


 ぼくは、そんなくだらないようなことを考えながら席に着きました。


 男の子も、ぼくの前側に座りました。


 つまり、彼はスピーカーに対しては、後ろ向きに座った訳なのです。


 パッヘルベルの『カノンとジーグ』が静かに流されておりました。


 ほかに、お客様の姿は見当たりません。


「いらっしゃませ。」


 ぼくは、目を見張りました。


 それは、あの、のりちゃん、だったからです。


 昔々、ぼくが(大方は、一方的に片思いになってしまっていた)恋焦がれた人です。


「ど、どうして、のりちゃんがここにいるの?」


 男の子は、いったん泣き止んではいましたが、不思議そうに僕の顔と彼女の顔を見比べておりました。


 実は、ちょっと、泣き続けるタイミングを見失ったようでした。


「わたし、寝ています。いま、夢の中です。どうしても、アルバイトに来てほしいと誰かに言われて。もう、この世の見納めだからと。」


「はあ・・・そうなんだ。あの、元気? 」


「うん。」


「結婚したのかな?」


「うん。」


「幸せ?」


「うん。」


「子供さんは?」


「ふたりね。あなたは?」


「いやあ、子供、作れなかったんだ。」


「そう、奥さんは? 」


「いやあ、別居中だったんだ。でも、来てくれてたよ。」


 ぼくは、いったい何が起こったのかを、分かっている限り、話しました。


「まあ、この子が? 可哀そうに・・・」


 のりちゃんは、男の子の頭をさすりました。


「ぼくは、君に謝らなくちゃならない。」


「いいの。一度謝ってもらったし、もう、大昔の事だから。」


 でも、不思議な事に彼女の姿は、昔の若いころのままだったのです。


 そこに、奥から、マスターと思しき人が出て来ました。


「話は聞いておりましたよ。この子は、気の毒だが、どうにもならない。これが世の定めだからなあ。」


「ぼく、お家に帰りたい。」


 男の子が小さく言いました。


「そうか。そうだよな。」


「おかあさんのところに帰る。」


「ああ、そうだな。大丈夫、おかあさんもおとうさんも、きっと、きみのところに来てくれる。少しだけ待てばいいんだ。」


「いやだよ。いま、帰る。」


 男の子は、再び泣き始めました。


「可哀そうに。でも、何もしてあげられない。そうだ、美味しいケーキを出してあげようね。」


 マスターは、奇麗なケーキケースから、特製のチーズケーキを出してきました。


「さあ、食べてみよう。きっと、おいしいよ。」


「食べたら、おうちに帰れるの?」


「ああ、きっと帰れるさ。」


「うん!」


 彼は、素直にケーキをつまみだしました。


「いやあ、実はね、これは内緒の話だけど、川の向こう側に着いたら、バスが待っている。それに乗ってしまったら、もう、この世にはけっして戻れない。むかしは、みんな、きつい道を歩いていたものだがねえ。それを避けるためには、河原に沿って逃げるしかない。でも、鬼が見張っているから、そう簡単じゃない。時々深い霧が出るから、隠れてそれを待って逃げるしかない。」


「それで、どうなるんですか?」


「さああて、天国にも地獄にも行けず。この世にも帰れず、永遠に、さ迷うかもしれない。でも、噂では、一か所だけ、この世に戻る穴があるらしい。その場所は、誰も知らないんだけど、道案内をしてくれる『何か』に出会えたら、帰れるかもしれない。」


「「何か」って、なに、ですか?」


「わからない。ぼくが知ってるのは、それだけです。」


 男の子は、お口の周りにケーキをくっつけたまま、不思議そうにぼくたちを眺めていました。


 のりちゃんが、その、お口周りを拭きました。


「何か音楽を聞くかい? これが最後だろうから。」


「じゃあ、この子もいるしな、明るいのが良いですかねえ。」


「うん、君たちを葬る音楽は、川を渡る時に聞こえてくる。各人それぞれに違ったものが聞こえるんだ。じゃあ、『スペイン交響曲』にしよう。」


 マスターは、一旦、奥に消えました。


 そうして、ラロさんが作曲した『スペイン交響曲』が、勇ましく始まりました。


 この子には、少し難しいだろうけれども。




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