悪食一家
成神泰三
第1話
今年で俺も30歳になった。まだまだ若いつもりではいるが、20代の頃と比べると、様々な変化があるものだ。妻とは仲慎ましく暮らして入るものの、床を共にする回数は明らかに減り、脂肪もすぐ着くようになった。あんなに小さかった娘は、今や小学3年生と2年生になり、抱っこをねだるような年齢ではなくなった。とても寂しいが、見ていて頼もしさが湧き上がる。子供というものは幾つになっても可愛くて飽きないものだ。
そして何より、これだけ変化している中でも、決して家族仲だけは変わらない。多少の喧嘩や意見の相違はあるが、それらを許し許される関係を維持することが出来ている。その工夫の一つに、俺の食に対するこだわりが一役かっていると願いたい。こういってはなんだが、俺はかなり飯に関してはうるさいほうだ。と言っても、オーガニックにこだわっているわけでも無ければ、高級食材にこだわっている訳でもない。ただ、他の人とは一味違う、新しい味覚を持っているのだ。
俺の好きな食材は、スーパーやデパートでは一切出回ることは無い。俺と俺の家族以外、その食材を食べている人間が極端に少ないのか原因だろうが、スーパーに並ぶ日がくれば、食材調達にここまで苦労することはないのにといつも思う。この食材は鮮度管理が難しいから、売り出すことがあったらとても高い値段になるだろうが、仕方なしに買ってしまうだろう。それだけ下処理と調達が大変なのだ。
「係長、そろそろ飯の時間っすよ」
私の肩を叩いて、俺が最も信頼を置く部下の沼田か時計を指さした。あと十分ほどで12時、確かにそろそろ腹に物を入れないと午後に腹を鳴らして恥をかくだろう。
しかし、だからと言って適当な物を腹の中に押し込むのもこれまたまずい。あれを食べたかった、これを食べたかったと頭の中でずっと考えるようになり、仕事に集中することが出来ない。以前それで、会議中に課長に怒られたこともある。
「そうだな。今日は何を食べにいく?」
「そうっすね。俺今日外回りで凄く疲れましたし、カツ丼なんてどうですか?」
「カツ丼か……」
カツ丼、小中学生の時は大好きだったが、あの食材に出会ってからは、なんだが油っこいパサパサした肉という評価に変わってしまった。別段食べられない訳では無いが、どうにも食欲の湧かない食べ物だ。しかし、他に何が食べたいのかと問われると、あの食材を沼田と食べるわけにはいけないし、あの食材以外を選べと言われれば、なんでもいい。つまるところ、沼田の提案に乗るしかないのだ。
「それいいな。よし、カツ丼を食べよう」
「決まりっすね。いい店知ってるんですよ」
ノートパソコンを閉じ、係長席を後にして、気だるげに歩くサラリーマンで溢れかえったビジネス街を練り歩く事数十分、沼田いちおしの店に到着した。結構繁盛しているようで、我々が入った時には、飯を求めて自由時間の少ないサラリーマン達がところ狭しと肩を寄せあい、サクサクといい音を出しながらカツを頬張っている。この中で食事をするのはちょっと窮屈で嫌だが、沼田は引くつもりがないらしい。サラリーマンの波を掻い潜り、空いている席を見つけると手を振って俺を呼んだ。
「係長、こっち座れますよ!」
「ああ、わかった」
沼田に従い、サラリーマン達で埋め尽くされたカウンター席に座り込み、掛けていたピースがはまるかのように自分の身を縮める。沼田が俺の分のカツ丼を頼み、奥の方で頭を丸めた店の主人が、熟れた手つきで多くのカツを揚げ、ザクッザクッと切り分けていく。そこに半熟ドロドロのタマゴで閉じて、秘伝の汁を丼の中で一周させれば、カツ丼の完成だ。注文を受けてから作るわけではないようで、既に作り置きのようなカツがストックされているようだが、客入りが多いのですぐ捌けて味が落ちることはない。店の主の奥さんと思わしき女性が、「お待ちどうさま」といって二つの丼を我々の前に置いた。二人揃って手を合わせると、沼田は口を大きく開けてカツを頬張り、米をかき込んだ。ジュルジュルドロドロの半熟卵が米を滑らかにして、すきっ腹の沼田の胃袋に食べ物を落とす助けとなっている。なんだか映画酔拳の食事シーンを見ているようだ。
うまそうに食べる沼田を見て、俺も重量感あるカツを摘み、一口食べる。うん、悪くは無い。悪くは無いが、食べた感想がカツ丼以外の言葉が出てこない。良くも悪くもない、ただのカツ丼だ。塩を舐めてしょっぱいという感想しか出てこないように、これはただのカツ丼という感想しか出てこない。
「いやー美味いっすね係長!」
「ああ、うまいな」
「あれ、その割には箸が進んでいないっすよ? どうかしたんすか?」
「揚げ物はゆっくり食べないと胃がもたれるんだよ。お前も気をつけろよ?」
「うーす」
そうして、ものの十分で沼田は食べ終わり、俺も遅れて完食した。会社への帰り道は、頭の中は今日の夕食のことで頭がいっぱいだ。あのカツ丼がまずい訳では無いが、俺の食欲の奥に潜む魔物を納得させるには、圧倒的に力不足だ。俺の中の魔物を沈めるには、早いところあの食材をぶち込まなければならない。
頭の中を悶々としていると、ふいにいい匂いがどこからか漂い、俺はあたりを見回した。間違いない、これは俺の大好物であるあの食材の匂いだ。俺にはわかる、今俺の近くに、むせ返るような熟した匂いを発している食材があると。今、まさに食べ頃を迎えようとしていることを。
「沼田、すまんが急用を思い出した。先に会社に帰ってくれ」
「へ? いいっすけど、この後会議ありますよ?」
「すぐ戻るから大丈夫だ」
沼田を放り、俺は一目散に匂いの元を探るために走り出した。このビジネス街で食材に巡り会えるとは思ってもいなかった。大体食材に巡り会えるのは、風俗街やら繁華街が大半で、住宅街やビジネス街で巡り会えることは滅多にない、まさに神の思し召しだ。
匂いを辿ると、ビルとビルの間の裏路地、その奥から匂っているのがわかる。食材は繊細だ、早く出会いたい心を制して、ゆっくり、ゆっくりと忍び足で裏路地を進み、奥の方から何やらうめき声が聞こえてくる。今回の食材は活きがいい。
息を殺し、物陰に隠れて食材の観察を始める。匂いの元は、奥で盛あっている男女1組のカップルの男の方から漂っている。普通の健全な男女なら、こんな汚い所で盛りあったりなどしない。これは間違いなく、強姦の現行犯と言ったところだろう。女が涙を流しながら、両手で自身の髪の毛を掴み、必死にことが終わるのを待っている。それに比べて男の方のあほ面ぶりよ。口から涎を垂らしながら「ぬふ…………ぬふ…………」と息を漏らし、何とも言えない気持ち悪さを放っている。
しかし、なんと運がいいのだろうか。あの男の腹に乗っかった脂肪の量から察するに、体重100キロを超えているではないか。今日1日で、約1週間分の食材を手に入れることになるだろう。しかし焦ってはならない。まだだ、まだ熟してはいない。あの女に欲望の限りを吐き出したその時、あの男は食べ頃を迎える。それまで手を出してはならない。匂いは覚えた、後でこの匂いを追いかければいいだけの話だ。となれば、ここから早急に立ち去るが吉だ。
「助けて………」
帰路についた私の後ろから、か細い声で呼び止める者がいる。ここで振り向かなければ良かったのだが、つい反射的に振り向いてしまった。女と目がバッチリあってしまった。このバカ女が、男が気づいたらどうするつもりだ。お前はただ黙ってその男のダッチワイフとして体を貸していればいいのだ。そうすれば、俺は家族全員と笑って夕食が食べられる。すでに、メニューだって俺の中では決まっているんだ。
「ねえ、助けてよ……」
「うるせえな!」
つい、振り返って大声で怒鳴ってしまった。当然男はこちらの存在に気づいて振り向き、驚きの表情といったところだ。くそ、あの時振り返らなければ、あの男は食べ頃を迎えたというのに。
「くそっ…どけ!」
男が脂肪とナニを揺らしながらこちらに迫ってくる。俺をどかして逃げざるつもりなのだろう。然るべき時がきたら収穫するつもりだったのに、まさか今収穫することになるとは。
懐からスタンガンを取り出し、いつものように男の首元にねじ込んで、スイッチを押す。タカカカカカ、とスパークの音が聞こえると、男の体が小刻みに震え、五秒もしないうちに地面に倒れ込んだ。以前、食肉用の豚を電気ショックで殺す映像を見たことがあるが、こと、この食材に関しては殺したその時から味が落ち始めるので、そのような愚行は犯したくない。しかも、この食材はあくまで熟しかけているだけであり、この食材が成熟する最後の過程を、あの女がめちゃくちゃにしやがった。
倒れた男を肩に担ぎ、事の原因を作り出した女に一言苦情を言おうと振り返ったその時、俺は確かに女の股から、白い液体が流れだしているのを確かに見た。間違いない、あれはこの男の体から出てきた欲望の権化を吐き出した確かな証拠だ。ということは、この男はぎりぎりのところで食べ頃を迎えていたということか? あの危機的な状況下で、この男は欲望を吐き出せたということなのか? だとしたら、なんと幸運なことか! やはり今日はツイている。今日一日、私は確かに神に愛されているに違いない! こんな素晴らしい日に、仕事なんぞに行っている場合ではない!
「……もしもし、白石ですが。ええ、家内が急に体調を崩してしまって……ええ、本当に申し訳ないのですが、ええ……すいません、失礼します」
今頃課長の顔は熱された鉄のように真っ赤になっているだろうが、そんなこと知ったことではない。所詮仕事など世間体の為に嫌々仕方なくしているのだ。こんな素晴らしい日を犠牲にしてまで働くなんてまっぴらだ。今はこの極上の食材を早急に家に持ち帰ることが目下最重要事項だ。
「……そいつ、どうするつもりなの?」
ふいに女が尋ね、余りの愚門ぶりに思わず鼻で笑った。
「食うにきまっているだろう。今日あったことはすべて忘れろ、じゃないとお前も食う羽目になっちまうからな。お前は見るからにまずそうだし、熟れる可能性もなさそうだ。だからできれば食いたくないし、お前も食べられたくないだろう?」
それだけ言い残すと、私は踵を返して帰路につく。あの女が通報しない可能性はゼロではないが、もしそうなれば、駆けつけた警察官を食えばいいだけの話だ。それに、現場検証の時点であの女が正直に強姦されているところを謎の男が駆け付けて、加害者の男を食べるために連れていきました、なんて言い出せるとは思えない。つまり、問題はないはずだ。
そのまま運ぶと通報されるので、俺は顔見知りの個人タクシーに電話を入れる。このタクシーの運転手も、俺と同じ美食家であり、週に一度各々が収穫した食材の品評会を開くまでの間柄だ。電話して数分、個人タクシーのプリントが施されたベンツAクラスが、私の目の前で止まり、ドアが開いた。
「ほう、そいつが今回の獲物か。なかなかいい匂いじゃねえか。完熟した証拠だな」
「ああ、どうだ? 今日あたりこいつで1杯やらないか?」
「いや、今日は遠慮しておくよ。こっちも仕込みをしなくちゃ行けなくてな」
「そうか、残念だ」
男を奥に押し込み、俺も後部座席に乗り込み、ドアをゆっくり閉めた。車は走り出し、しばらくすると芳醇な香りが車内に充満し、俺と運転手は暫し、この香りに酔いしれる。よくぞこの男はここまで熟成させることが出来たものだ。ここ5年、これだけの熟成を果たした食材にはあったことが無い。家に帰ったら家族が喜ぶぞ。
車はビジネス街を抜け、ビルとコンクリートに囲まれた世界から、静かな郊外の住宅街へと移動する。やはり住むには静かな所と、多少無理してローンを組み、家を建てたが、こうして食材を運んでいると、本当にここに住んでいてよかったと思う。適度に緑が溢れ、変な輩は住み着かず、何より空気がいい。いい食材は、適したロケーションで食べると美味さ3倍だ。
「ほれ、着いたぞ」
俺の家の前で車は止まり、ドアが開いた。俺は幾らか金を置き、男を引きずり出して、自らの巣穴へと持ち運ぶ、この瞬間が一番いい。狩猟本能が刺激され、熊にでもなったかのような興奮と幸福感が、俺の食欲に火をつける。少しつまみ食いしてしまおうか。
玄関にはカギがかかっていることから、どうやら今家には誰もいないようだ。まあまだ昼だし、それはしょうがない。むしろ、これはいいサプライズになるぞ。
100キロの男を引きずるのは、やはりなかなか疲れる。食堂に到達すると、男の衣類を全て脱がし、テーブルの上に載せると、手足を手錠で拘束する。もうこれで今日のメニューが何か、わかる奴もいるのではないか?
「………うう、どうなってんだ…?」
両手足を拘束し終わった頃、男は丁度目を覚まし、見覚えのない光景に困惑しているようだ。起こす手間が省けた。
「おい、動けねえぞ! どういうつもりだ!」
「どうって、お前は今日のディナーになるんだよ。しかも特別なメニューでな」
「はあ!? 何言ってんだこのキチガイ! 人の楽しみは邪魔するし、その上俺を食うだと? ふざけんな! さっさと手錠を解け!」
「うーん。この暴言は熟し、そして新鮮な証拠だ。やっぱり活きがいいな〜。あんまり騒ぐなよ、食欲が増す」
「ふざけんな! 食うなら他の人間を食えや!」
「いや、そりゃ無理だ。お前からは香ばしい悪人の匂いがぷんぷんする。そんじゃそこらの養殖物とはわけが違う、天然ものだ。よくそこまで悪人になれたもんだな」
「俺が悪人だと!? なんで俺が悪人なんだよ、他の奴だって皆大なり小なり悪人だろうが! まるで自分が一度でも悪人になったことがないような口ぶりで話を進めるんじゃねえ!」
「ああ、そうだろうな。俺もきっと悪人の一人に違いないし、そんなことどうだっていい。俺はただ自分の食欲に従うだけだ」
もうこれ以上意味のない話を続けるつもりなんて毛頭ない。家族全員揃うまで待つつもりだったが、少し味見といこうじゃないか。一度便所に駆け寄り、昼に食べたカツ丼をすべて吐き出したのちに、キッチンから牛刀を取り出し、足の小指にたたきつけた。
「あああああああああああああああ!!!」
今まで聞いたことのないような叫び声をあげて、男は悶絶する。うん、なかなかの活きの良さだ。さて、問題は味だな。
ひょいと口の中に入れると、そこには幸福が待っていた。とろりととろけるような食感、悪人特有の蜜の味。そして噛むたびに脳汁があふれてくる。ああ、これこそ私の求めていた、最高の美食だ。よし、今夜のメニューは踊り食いだ。
悪食一家 成神泰三 @41975
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