兄弟

   * * * 


 雨宮刑人けいと

 紅太の10歳上の兄。

 歳が離れすぎているせいか、紅太が幼いころから家に寄りつかず、ひとり離れて暮らしている。最近はちょくちょく顔を見せてくれるようになったが、相変わらず、兄の本心は飄々とした笑顔の裏に隠されている。

 そして、いつからか兄は煙草を吸うようになっていた。

 それに気づいたのは紅太が中学に上がったころだったか。兄の服に染み付いたあの独特な匂いと、兄がたったひとりで煙草を吸っているのを見たから。

 それからというもの、兄はひとりのときと紅太の前でしか煙草を吸わなくなった。


   * * *


 からからから、とガラス戸を開ける。瞬間、冷たい風が頰をなでていった。

 日が出ている時間が長くなったとはいえ、夜はまだ肌寒い。にもかかわらず、首元がざっくりと開いた薄手のシャツ一枚で風を受け止める瘦身がひとり煙草をくゆらせている。

 煙草の匂いと白い煙が揺蕩たゆたう。

「それ、何本目だよ。兄貴」

 ベランダの手すりに寄りかかり、ただぼんやりと遠くを見つめていた兄――刑人は自身の弟に一瞥を投げ、煙草をくわえたまま笑った。

「何本目だったかな……覚えてねぇや」

 右手に持った携帯灰皿にはすでに短くなった煙草が四本ほどもみ消してあった。

「まったく……程々にしろよ」

 ため息とともに兄の隣に立ち、持ってきたコートを投げかけた。

 おー、ありがとな、と声が聞こえた。刑人にしてはいささか精彩を欠いた声だった――ような気がする。

 横に立つ兄の、細いのに引き締まった背中、180センチを超える身長。すらりと伸びた脚。

――うらやましいなんて思ってねぇし。

 一瞬、兄から目をそらした紅太だったが、ちらりとその横顔を盗み見る。

 顔の右半分を覆うように伸ばされた前髪が、紫煙とともに揺れる。

 ふと、翠玉すいぎょくの左目の縁に黒ずんだ影が深く刻まれているのに気づいた。

「寝てないのか?」

 紅太の問いに煙草を携帯灰皿に押しつけ、刑人が笑った。

 いつもの、自分の考えていることを隠すような笑みではない。疲労がにじみ出ている笑みだ。

「あー……まあな。なんだかんだと忙しくてさ」

 そう言いながらも、刑人はまた新しい煙草を取り出して火をつけようとする。

「だから、程々にしろって!」

 横から手を伸ばして刑人の煙草を奪い取る。普段の兄なら避けられたはずだった。

 えっ、と隣を見ると、刑人自身も少しだけ目を見張っていた。

「……こりゃ、だいぶ疲れがきてるな」

 自嘲気味に笑いながら、刑人がくしゃりと前髪を摑む。

「…………」

 しばしその横顔を見つめたあと、紅太はふいにきびすを返した。

「紅太?」

 刑人が弟を呼ぶ。

「少し寝ていけよ。俺の部屋、使っていいから」

 紅太は兄に背を向ける。一瞬の間を置き、刑人がさも可笑しそうにその背中に言った。

「なんだ紅太、気ぃ使ってくれたのか?」

 ひじを手すりに置いた兄は、携帯灰皿のふたを閉め、ライターとともにポケットに入れた。

「べっ、別にそんなんじゃねぇし」

 ぷいっとそっぽを向く。ビル群の明かりが目に染みる。暮れ行く街の風が、頰を通りすぎていく。

 遠くに滲む光を見つめながら、ただ、と紅太はつぶやいた。

「……兄貴がそんなに疲れてんの初めて見た、から」

 風に紛れたつぶやきに、ふっと刑人は笑う。

「お前は優しいな」

「優しいなんて言うな」

 がおうと吠えた紅太に刑人の明るい笑い声が重なった。

「んじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうか」

 そっと目を細めた刑人はそう言って弟の頭に手を乗せる。

「おい、やめろって」

 と口では言うが、その重みに安堵している自分に驚いている紅太であった。

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