33.愛情





 私の夫、和哉は娘の沙織が死んでからおかしくなってしまった。

 遅くして産まれた子だったから、彼は溺愛していた。


 しかし不幸な事故で、わずか3歳で死んでしまった。

 そしてそこから、全てが変わってしまう。



 和哉は娘が死んだ事を認めたくなくて、幻覚を見るようになったのだ。





「沙織、今から買い物に行こうか。」


 今日も、誰もいない空間に向かって彼は話しかけている。

 私は何度もやめさせようとしたのだが、一向に聞き入れてくれない。


 仕方なくそのままにして、私は1人で用意をした。



「今日もいい天気だね、沙織。」


 彼は空中で手を握って道を歩く。

 私はそれが恥ずかしくて、少し離れているが近所の人の目は誤魔化せない。


「あら、お出かけですか?良いですね。」


 話好きの隣人に捕まり、嫌でも会話に付き合わされることになる。

 私は早くこの場から離れて、和哉がおかしいと気づかれないようにしたい。


 しかし彼は楽しそうに、会話をし始めた。


「はい。買い物ついでに、公園にでも行けたらいいかなと思っています。」


「あら、楽しそう。」


 ほのぼのと会話をしているが、私はボロが出る前にと彼の腕を掴む。


「ほら、早く行きましょう。すみません、急いでいるので。」


 そして早口で挨拶すると、そのまま走り去った。


「気を付けてねー。」


 後ろから聞こえて来たその声に、私は返事をしなかった。





 買い物を終えると、和哉は言っていた通り公園へと向かう。


「さっきの態度は悪かったんじゃないか?ご近所づきあいも大事だろ?」


 そんな文句を口にしながら、ベンチに座って何かを見守っている。

 視線の先には、誰もいない。

 ただブランコが風か何かで、少し揺れているだけだ。


「ごめんなさい。でもあの人、話をすると長いから。くたびれちゃうかと思って。」


 私は本心とは全く違った理由を言う。

 そうすれば満足したのか、彼は立ちあがりブランコの方へと向かった。


 そのまま、少し揺れていたブランコを押し始める。

 その光景はあまりにも異様で、私は周りに誰もいない事を見渡して確認する。



 何でこんな風になっちゃったんだろう。

 私が沙織をちゃんと見ていなかったのが悪いのか、それとも故意では無かったにしろ殺してしまった人が悪いのか。

 今まで何度も考えているのだが、一向に答えは出ないままだった。


 私だって、沙織がいなくなってしまった事は悲しい。

 しかしその悲しみも癒して、次に進むべきじゃないのか。

 彼がそんな風にとらわれたままだったら、いつまで経っても苦しみから解放されないだけだ。


「何で、私がこんな気持ちにならないといけないの。」


 和哉が楽しそうに、誰ものっていないブランコを押しているのを眺めながら、知らず知らずのうちに私は涙が出てしまいそうになった。





「いってきまーす。」


 今日も私は、幼稚園に沙織を連れて行くという和哉を見送る。

 彼1人だけの姿は、もの悲しくもあり同時に嫌悪の気持ちもわいてきた。


 段々と彼がいもしない娘といる事に、疲れてしまった。

 何も言わず見守り続けて一生を過ごすなんて、そんなの耐えきれない。



 私はそう考えてしまうと、もう駄目だった。

 彼がいなくなったのを確認すると、娘の物が置いてある部屋へと入る。

 そしてあらかじめ用意しておいたゴミ袋を取り出し、片づけを始めた。





 全ての作業が終わった頃、和哉は帰って来た。


「ただいま。」


「おかえりなさい。」


 まだ気づいていない彼は、スーツを脱ぎながら普段通り歩いてくる。


「今日も疲れたよー。……あれ?」


 部屋に入れば、さすがに分かってしまったらしい。

 辺りを見回して、不審そうな顔をした。


「ねえ、何か物が少なくなってないか?」


 彼は私に近づき肩を掴んでくる。

 どうやら捨てたのが、沙織のものだけだと知り怒ったようだ。


「おい!何で沙織の物を捨てたんだ!?頭おかしくなったのか!?」


 強く揺さぶって問い詰めてくる彼に、私は冷静に答えた。


「いつまで経っても、あなたが沙織を忘れないのが悪いのよ。もうあの子は死んだの。早く忘れないと、私達までボロボロになるわ。」


 ゆっくりと語り掛けるように、彼が目を覚ましてくれるのを願った。

 しかし彼の怒りは止まらない。


 更に顔を真っ赤にさせ怒り、私の頬を勢いよく叩いた。

 まさかそんな事をされるとは思わず、頬を抑えて呆然としてしまう。


「何で、こんな事するのよ。私はあなたの為を思って。」


 優しい彼が叩くなんて。

 沙織を早く忘れないから、おかしくなってしまうんだ。


 和哉は、まるで信じられないものを見るかのような目をしてくる。

 何で私がそんな顔をされなくてはならないのか。


 そう思った私だったが、彼の次の言葉に固まってしまう。












「何言っているんだ!沙織は死んでなんかいないだろう!お前はいつまで、この子がいないふりなんかするんだ!沙織はここにいるだろう!」


「へ。」


 私は彼の言葉が信じられない。

 怒って指し示している先には、やはり何もいない。




 全く何を考えているのか。

 沙織は死んだのだ。

 やはり彼の頭は、もうすでにおかしくなってしまったらしい。


 諦めた私は彼にかける言葉が無かった。




 どこか遠くで、子供の泣く声が聞こえたような気がした。





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