底に揺蕩う

 けれど今はどうだ。凛と佇む彼を誰が『昼行灯』などと呼べるか。


「綾木、警視正……」


 呆然と呟くと、綾木は犯人を近くの柱に括りつけたあと、片桐の元へやって来た。そして、頭をこつんと叩く。


「危ないところでしたね。検挙を焦る気持ちも分かりますが、せめて私にはひと声かけてください。まがいなりにも貴方の『上司』なのですから」


 その時の綾木の微笑みは忘れない。


 いつものおっとりとした笑みではなく、力強い『刑事』の瞳だった。


 その後、犯人検挙は良いことだが発砲は違反とされ、綾木は警視正から警部補へと降格した。腰を九十度に折り謝罪する片桐に、綾木は変わらずおっとりとした笑みを浮かべた。


「貴方の命を買った値段と思えば、安いものです」


 どうして現場が分かったのかと問えば、


「殺人の概要から推理しました」


 などとこれはまた予想外れの答えが返ってきて、片桐は開いた口が塞がらなかった。


 けれど、命を救われたのは事実だ。


 そして、彼が決して『昼行灯』などではないことも。


 片桐は知っている。他の誰が綾木を『昼行灯』と呼ばれても、自分は知っている。


 彼が動かないのは、その地域が安全だということも。


 だから、だからこそ、簡単に命を投げ出す綾木が許せなかった。


「死は償いなんかじゃないっ! アンタは生きて、生きて、生きて、ロキのやつが心から笑える日が来るまで生きるのが、アイツに対しての一番の償いだ!」


 叫び終えると、綾木は一筋の涙を零した。


「あの子は、心から笑えていますか?」

「……いいえ」

「……そうですか」


 目頭を押さえ、彼は静かに涙を零す。その様があまりにも痛々しく、片桐は掴んでいた胸倉をようやく離した。


「アナタが死んだら、ロキはきっと後悔します。自分を逃がさなければ死ななかったのに、と後悔します。だから、生きてください」


 それだけを告げ、片桐はカードを握りしめ綾木に背を向けた。もう、綾木が自らに拳銃を突き付けることはないだろう。ロキが綾木を心配するように、綾木もロキの幸せを願っているのだから。


「待ってろよ」


 ここにいるはずのない少年に向かって呟く。


 裏切らないと誓った。


 今、誓いを果たす時だ。







 ロキは、静かに部屋に横たわっていた。空腹感はあるが、食欲はない。あれからどれだけの時間が経ったのかさえわからない。定期的にヴァルキリーが来て水を飲ませてくれるが、彼らの表情は一様に軽蔑と羨望だった。脱走者には有無を言わさず死刑なのに、オーディンの采配を待つ身であるロキが羨ましいのだろう。彼らには、きっと与えられない特権なのだから。中には抵抗できないことをいい事に、ロキを蹴ったり殴ったりしてくる者もいた。


 けれど、そんなことはどうでもよかった。痛みなど感じない。


 結果など見えている。オーディンは無慈悲に死を選択するのだろう。ならば、オーディンの許可など下りなくていい。今すぐにでもその引き金を引いて欲しい。それとも、この永遠とも思える苦行の時間が、ロキに与えられた罰なのだろうか。


 それすらも、どうでもいい。


 ヴァーリに救われた命だった。


 トールに与えられたチャンスだった。


 それを自ら棒に振ったのだ。この結末は当然のもののように思えた。


 それに、と、瞼の裏に浮かぶのはくたびれた刑事の姿だった。


 彼が無事であれば、それでいい。巻き込んでしまったのは自分のせいなのだから、もうこれ以上犠牲になる人を増やしたくはなかった。終わるのは、この身一つでいい。彼を道ずれには出来ない。

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