昨日と違う今日
決意したその時、ロキが眠そうにあくびを零した。時計を確認すればもう明け方だ。いくら何でも長居しすぎたと片桐は慌てる。いくらロキが凄腕とはいえ、まだ幼い子供だ。夜更かしにもほどがある。
「じゃあ、今日はもう帰るな」
片桐がそう言うと、ロキは意外そうに眼を見開いた。
「今日は、って」
「ん?」
ロキの問いに、片桐は片眉を上げた。
「どうした」
「また来るの? オジサン」
その聞き方が本当に幼く、片桐は苦笑しながら立ち上がり、彼の頭をわしゃわしゃと撫でた。手の下で何事かと身をよじるロキの額を、仕上げとばかりにデコピンする。
「俺がお前を裏切らないのか見てんだろ? なら一緒にいるのが一番じゃねぇか」
当然そうに言って、背を向ける。
「ここの場所、バレねぇようにしろって話なら任せとけ。ある程度そういう場面には慣れてっからな」
「オジサンっ」
「じゃ、またな」
ロキの言葉を待たずに、片桐の背がドアの向こうに消えた。ブルーライトに照らされるドアを、ロキは呆然と見つめる。
「またな、って……」
聞いたことのない言葉だ。片桐がくれる言葉は、聞いたことのない言葉ばかりで戸惑ってしまう。
でも、と脳裏に浮かぶのはヴァーリの姿だった。最期まで自分を想ってくれたヴァーリの顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。
トールは言った、「ヴァーリを見殺しにした私を許さないでください」と。誰よりあの場所から逃げたかっただろうトールは、そう言って、自らあの闇に残ることを選んでくれた。
ロキのために。
幼い自分のために、二人の大人が犠牲になった。
その墓標に、今度は片桐の名が連なるのか。
「ダメだよ、オジサン」
よろめくと、積んでいた本に後ろ足を取られる。そのまま転ぶといくつかの本が身体を叩くが、痛みなど感じなかった。
自分のために「裏切らない」と叫んだあの人は、きっと言を
だから、だからこそダメなのだ。
自分のために犠牲になる人を、これ以上増やしてはいない。それなのに、ロキは今、嬉しいと思ってしまっている。片桐の言葉を嬉しいと思ってしまっている。
だから、ダメなのだ。
「来ないで、オジサン」
呟いた言葉は、誰にも聞かれることなく闇に消えた。
寝不足気味な足で、部屋には帰らず直接署に向かう。今抱えている案件は、殺人事件だった。しかし、被疑者は自首してきており、殺害動機も殺害方法も齟齬はない。簡単な事件だなと思っていると、綾木が難しい顔で調書を読んでいた。綾木が難しい顔をすることはまれだ。何事かと首を傾げると、彼は片桐を見て提出された調書を返した。
「この案件、もう少し調べてみてください」
「星はもう上がってますが」
言いながら返された調書を受け取ると、綾木は難しい顔のまま首を振る。
「おそらく、この被疑者はトカゲのしっぽでしかありません。本星が他にいるはずです」
そう言われ、改めて調書に視線を落とした。
本星は他にいる、と言われてしまったら調べなおすしかない。一礼して、自席に戻り調書を改めて見直してみる。
殺害されたのは二十代の女性。フリーター。交際相手はいなく、交友関係も普通。恨まれるようなところはなかったようだ。ただ、最近ストーカー被害に会っていると友人に零していたと言う。
殺害したのは三十代男性。無職。交友関係はなく、女性を殺害した理由は『近所に住んでいた彼女に恋をし、アプローチしたが答えてくれなかった』というものだが、どうやら一方的なストーカー行為の果てに、気付かれずに逆恨みしたとみて間違いない。凶器は包丁で、殺害する一時間前に雑貨店で買ったそうだ。レシートも残されており、店員も顔を覚えていた。
特筆すべきないストーカー殺人事件だ。綾木はこれのどこに違和感を覚えたのだろうか。
「綾木警部補がそうおっしゃるなら、洗いなおします」
片桐の言葉に、綾木は困ったように苦笑した。
「片桐刑事は、私のことを買いかぶりすぎなところがありますね」
「綾木警部補の凄さは俺が一番知っています」
「大袈裟な……」
「では、行ってきます」
何でもないような顔で返し、ジャケットを片手に、片桐は署を後にした。まずは被害者の身辺調査からやり直そう。
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