誓い

 ヴァーリの手を、渾身の力で振り払う。驚いたように自分を見てくる彼に大きく首を振る。


「ボク、戻るよ。ヴァーリは生きて」


 それだけ言ってフレイの元に走るロキの背をヴァーリの声が追う。だがロキは立ち止まらなかった。


「あら、本当に賢い子ですわね。私、賢い子は大好きですの」


 そう微笑みながら、フレイはヴァーリに向かって発砲した。


「なっ」


 言葉を失うロキの前で、彼女の視線がヴァーリに向く。ロキもヴァーリを見ると、彼は右脇腹を押さえていた。そこからじわりじわりと赤が滲んでいく。


「あら、避けないでくださる? 私、銃器の扱いには慣れていませんの。変なところに当たって苦しみたくはないでしょう?」


 憐れみを含んだ声で一歩前に進み、手慣れた様子で次弾を装填する。


「一発で楽にさせて差し上げますから、動かないでくださいまし」


 けれど、ヴァーリはフレイを見ていなかった。ロキを真っすぐ見て、掠れた声でただひと言、「逃げろ」と告げる。


 同時に響く銃声が、彼の命を奪ったことをロキは呆然と見つめていた。


 傾いでいく身体と軌道を描いて散っていく赤。あれは一体何だろう。


「ヴァーリ……っ」


 フレイを押しのけ、彼の元へ走る。撃たれた弾丸は心臓を一突きにしており、助かるはずがないことだけが真実だった。まだ温かいヴァーリの手を取り、ロキは声を出さずに慟哭した。彼は、最期までロキのことだけを考えてくれていたのに、それを裏切ったのは誰だ。


 裏切ったのは、誰だ。


 自分を撫でてくれるこの手が好きだった。


 自分の手を引いてくれるこの手が好きだった。


 わが身を犠牲にすることを承知の上で、力強く握ってくれたこの手が好きだった。


 それを払ったのは誰だったか。


 彼の心を裏切ったのは誰だったか。


 慟哭するロキにおっとりした声でフレイは微笑む。


「裏切り者には死を。オーディン様のご意向ですわ」


 昏い瞳で彼女を睨み上げた。それを意に介さず、フレイは拳銃を持ったまま反対の手をロキに差し伸べる。


「戻りますわよ、ヴァルキリー。次の講義の時間になってしまいますわ」


 ヴァーリの血で汚れた手でわざと握り返してやると、汚らわしいモノに触れたように手を払い、ハンカチで自分の手を拭き、顎で廊下の先を指した。


「お行きなさい」


 最後にもう一度だけヴァーリの遺体を見、その目に焼き付けるように見、ロキは立ち上がって講義ルームへと向かった。


 心に昏い焔を宿して。


 遠い昔から今に意識を戻し、ロキは天井を見上げた。


「結局、一人目はダメだったんだけどね。稀有なことにもう一人ボクを逃がしてくれた人がいたんだ。気付かれないようにね。誰も彼がボクを逃がしたなんて知らないだろう。彼は、とても賢い人だから」


 疲れたように苦笑して天を見上げる彼は、歳より幼く見えた。まるで、迷子になった子供そのもののように。


「そいつは誰なんだ?」

「トールだよ。ボクの友達。同士。本当は、彼だって逃げたいに決まってる。でも、出来ない。彼は、あまりにも色んなものを知りすぎた。そう、優しい。知りすぎてしまって、あそこから離れられないんだ。ヴァルキリーたちを放っておけない。そして、トールはボクの唯一の理解者。ヴァーリと、ボクと、トールだけがこの計画の歪さを正そうとしている。

 ボクがみんなにミョルニルを返すのは、トールの代わりなんだ」


 それで納得した。味方だからこそ、写真も本職も彼は隠しているのだ。その最大限の優しさに報いるために。


 ようやく片桐の方を向いたロキが、悲しく笑う。


「ボクの身体は、ヴァーリの血で出来ている。そして、トールの優しさで動いている」


 昏い瞳で悲しく笑い、


「だからボクは『裏切りの神』。アースガルズの敵」


 全てを憎んでいる瞳で片桐を睨みつけた。


「降りるなら、本当に今だよ。ボクは『ロキ』だから、裏切るのには慣れてるんだ」


 そう言いながら、彼の目が悲しみに揺れる。


「だからね、裏切られるのにも慣れてるんだ」


 そう言う姿は、どこからどう見ても幼い少年で、切ない瞳に片桐は無性に腹が立った。誰に、ではない。そう諦めてしまっている少年に対してでもない。ただ、無性に腹が立った。


「俺は、お前を裏切らねぇ」


 片桐の言葉にゆっくり瞬き、ロキは小さく笑った。


「どいつもこいつも一緒だよ。裏切って、裏切られるんだ。国にだって」

「うっせぇ! それでも俺はお前を裏切らねェって言ってんだろうが!」


 激高する片桐に、ロキは目を丸くする。今まで、こんな簡単なことも言われてこなかったのかと、それにも腹が立った。


「俺は、お前を裏切らねぇ。俺の信条にかけてだ!」


 その叫び声に、ロキは笑った。


 泣きそうな顔で、笑った。


「じゃあ見ていてあげるよ、オジサン」

「上等だ」


 そう言って、片桐もニッと笑ってやった。彼のために死んだと言うヴァーリ、危険を承知で彼を逃がしたトール、この二人に並びたいとは言わない。ただ、荒んだこの少年を、自分はもう放っておけない。ならば、何があろうと彼を護ってみせよう。結果がどうなるかのかなど今の片桐には関係なかった。

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