憎しみと悲しみ

「オーディン、フレイ、フレイヤの話はしたね。他にも何人かコードネームを与えられている人間がいる。

 オーディンの息子、バルドル。軍神、テュール。司法神、フォルセティ。雷神、トール。トールの息子のアグニ、娘のスールズ。彼らはまとめてアースガルズと称されている。マグニとスールズはトールの実の息子と娘。トールとマグニ、スールズの三人でヴァルキリーの育成に携わってる。

 ロタ、グン、ゲンドゥル、ブリュンヒルデ、ゲイルスケグルのと名付けられた五体のヴァルキリーもいるけど、あくまでヴァルキリーの一員でしかない。優秀だけどアースガルズに入るほどじゃなかったんだね。彼らはヴァルハラの五本指だ」


 教科書を読み上げるような声でつまらなそうに言った後、ひと口も飲んでいない湯飲みをテーブルに置き、


「実はね、僕を逃がそうとしてくれた人が二人いたんだ」


 ふと、そんなことを言った。


「一人目はヴァーリ。オーディンの実の息子でね、ゼロの一員だった。この白衣は彼の衣服なんだよ」


 だぼだぼの白衣をひらひらと掲げながら、ロキは両手を広げ天を仰いだ。


「ボクの目の前で、フレイに殺された」


 つらい過去のはずなのに、ロキは淡々と語る。いや、淡々と語らないと壊れてしまうのかもしれない。自分を信じて逃がそうとしてくれた人間が、目の前で殺されたのだ。今でも充分若いロキだ。当時はもっと若かったはずに違いない。そんな幼い子供の前で、人が死んだ。自分のために。それはどれほどのショックだっただろうか。片桐には想像さえできなかった。


「フレイはそんな時でも美しい顔で微笑んでいた。慈愛を湛えた聖母のように」


 ヴァーリのことを思い出したのか、ロキの身体が怒りで震えている。


 忘れはしない。二年前の春。新しいヴァルキリーたちが次々とやって来る隙をつき、ヴァーリはロキに言った。「君は逃げるんだ」。自分を逃がした後のヴァーリがどうなるのかを想像できないほどロキは愚かではなかった。首を振る彼に、ヴァーリは微笑んだ。


「君は聡すぎた。そして悲しいまでに優しい子だ。この泥の中で君だけが希望の星なんだよ、×××」

「アナタはどうするの」


 声を震わせて問いかけるロキに、ヴァーリは何も答えなかった。裏切り者に何を科されるのか、それを理解した上で彼はロキに逃げろと言ったのだと知る。答えを迷っている暇が無いことくらい分かっていてなお、ロキは迷ってしまった。


 迷ってしまった。


 その時、ヴァーリの後ろから一発の銃声が鳴り響いた。呻いた彼の右腕から赤が滲みだす。そこを押さえながら二人で音の元を辿り、同時に息を飲む。


 そこにいたのは、ふんわりとウェーブを描く金色の髪を腰まで伸ばし蒼い瞳が美しい少女──フレイが立っていた。彼女はまだほのかに煙の出る拳銃を片手に、心底残念そうに微笑んだ。


「残念ですわ、ヴァーリ。まさか、その子を逃がすことで計画を壊そうと言うおつもりではないでしょうね?」


 鈴のように美しい声でそう言い、フレイは首を傾げる。答えなど分かっているくせに、見せつけるように拳銃をちらつかせながら問う。


「っ、フレイ、君はこの計画の歪さに気付いていないとでも言うのかっ」


 ヴァーリの言葉に、それこそ意外であったように彼女は軽く目を見開いた。そして優しく微笑む。


「どうでもいいですわ」


 思いもよらない答えに、ロキさえ目を丸くした。この計画は間違っている。国のためと洗脳した子供たちをテロリストに仕立てあげてしまうだなんて、間違っている。それなのに、それをフレイは「どうでもいい」と一蹴したのだ。


 驚く二人に麗しい微笑みを湛えたまま彼女は一歩前に進んだ。それと同時に、ロキを庇うようにヴァーリは一歩下がる。


「お兄様が良いとおっしゃるのならば、それは良いものに違いないのですもの」


 悦に入った目を細め、フレイは拳銃を構えなおした。ロキを庇うヴァーリの背を、両手を添えどかそうとロキは力を加えるが、ヴァーリの身体が動くことは無かった。


「ヴァーリ、ボク戻るから」


 ロキの言葉に彼は力強く首を振った。


「君は逃げるんだ」


 この状況で、どうしてヴァーリを置いて逃げられるだろう。それなのに、彼の背はいつものように優しかった。ロキの手を握るその手は優しかった。そして力強かった。振り払ってフレイの元に走ることを許さないと言うかのように。


 決意を覆すことのないヴァーリに、フレイは残念そうに首を振った。


「本当に残念ですわ、ヴァーリ。そこでそのヴァルキリーを渡してくだされば命は助けて差し上げようと思いましたのに。オーディン様のご子息ですもの。私も手にかけるのは気が引けますの」

「ヴァルキリーじゃない。この子にはこの子の名前がある」


 その主張を鼻で嗤い、彼女は蔑んだ目でロキを見た。


「どうでも宜しいではありませんか。所詮は捨てられた子。国のために戦えるだけマシでしょう。役立たずは不必要。個体名など無意味」


「でも、そうですわね」とフレイは綺麗に微笑んだ。


「そこのヴァルキリーは他のヴァルキリーより遥かに優秀ですもの、私たちの元に戻ってきたらアースガルズに入れて差し上げても良くってよ?」


 言外にヴァーリを裏切るように言ってくる聖母に、答えを迷う。ヴァーリを死なせたくはない。だって、一時ではあったが『自由』を夢見させてくれた。自分の名を呼んでくれる唯一の存在のなのだから。


 ヴァーリを死なせたくない。


 それだけが、ロキの本心だった。

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