ネバーランドへの入り口

「お前が……まさか……」


 目の前の少年は、青年が着るような大きい白衣に黒ぶち眼鏡をかけ、詰みあがった書物の上から片桐を見下ろした。そして、心底愉快そうに目を細める。


「スゴいね、オジサン。ここまで来たのはアナタが初めてだ。そしてようこそ、ボクの楽園ネバーランドへ。ボクがこの国の頭脳、『ロキ』だよ」


 そう言って、楽しそうにルビーのように赤い瞳を細める少年の言葉に、片桐は半身引いて警戒態勢を取った。一見して普通の少年だが、今まで行ってきたことがことだ。何をされるか分からない。


 それに


「『ロキ』……だと……裏切りの神じゃねェか」


 ロキとは、北欧神話に登場する悪戯好きの神。神々の敵であるヨトゥンの血を引いていおり、巨人の血を引きながらもオーディンの義兄弟となってアースガルズに住み、オーディンやトールと共に旅に出ることもあった。しかしラグナロクにおいては戒めがはずれ、巨人族を率いてアース神族を滅ぼすために出陣し、最後はヘイムダルと相打ちになった、裏切りの神。別名「人々の恐れ」「閉じる者」「終える者」


 学生時代の知識が、まさかこんな場面で思い出されることになるとは思わなかった。


 片桐の言葉に満足したのか、少年──ロキは楽しそうに小首を傾げた。


「へぇー、オジサン博識だね」


 そこにあるのは純粋な賛美で、拍子抜けしてしまう。ロキは書物の上から床に飛び降り、片桐の方にやってきた。歩くたび、背丈に会わない長い白衣の裾が床を撫でる。


 純粋な顔をして何かするのかと身構えたら、ロキはドアを閉めた後、どこからともなく椅子を二つ取り出し、お茶を淹れ始めた。部屋の明かりと言えば無数のパソコンのディスプレイの明かりだけなのだが、暗いはずの部屋は、ドアを閉めてしまっても人工的なブルーライト埋め尽くされ明るさを損なうことは無い。そんな中でお茶を淹れるというあまりに普通の動作に、思わずキョトンとしてしまう。


「何故俺をここに呼んだ」

「オジサンなら、口外しないと知ってるからさ。じゃなかったら、いくら『ミョルニルを返す』からと言って呼ばないよ」

「どうしてそこまで信頼する? 見ず知らずの俺を」

「調べたからね」


 二人分の緑茶を持ち、戻ってきたロキが、まだ立ったままの片桐に不思議そうな顔を向ける。


「何してるの、オジサン? とりあえず座りなよ。ボクに聞きたいことがあるんでしょ?」


「よいしょっと」と軽い声を上げ、ロキは片方の椅子に座り、片桐に反対側の椅子を薦める。


「そんなに身構えなくったって。見ての通りボクは子供なんだし、いざとなったらオジサンの方が絶対強いんだからさ」


「ボクが強いのはネットだけだからね」と言って、手にしていたお茶を啜る。お湯の温度が熱かったのか、軽く舌を出すその姿は確かにどこからどう見ても子供でしかなく、警戒を解かないまま片桐は薦められた椅子に腰かけた。それと同時に差し出された緑茶を反射的に受け取る。


「さて、まずは何から聞きたい? せっかくここまでたどり着いてくれたんだもの、本名以外なら何でも答えるよ」

「本名は駄目なのか?」


 その問いに、少年はケラケラと笑った。サイズの合わない袖が、そのたびひらひらと揺れる。


「ダメだよ。だって、そういうのって最後のお楽しみに取っておくものじゃない? ボクとオジサンはまだ出会って十分も経ってないんだよ? 教えちゃつまらないじゃない」


 笑顔のロキは心底楽しそうで、本当に平凡な、どこにでもいる少年のようにしか見えない。見た目は小学六年生ほどだろうか。ストレートな黒髪は丁寧に切りそろえられている。黒縁の眼鏡をかけているが、伊達なのか頬の輪郭に湾曲は見られない。おそらく、ブルーライトカットの眼鏡なのだろう。


 そこまで観察し、渡された緑茶を見る。もしもこの中に睡眠薬か自白剤が入っていたらどうしようかと一瞬迷うと、その迷いを察したのかロキは心外そうに頬を膨らませた。


「何か薬が入ってるかもって思ったでしょー。ボク、そういうの嫌いだから絶対入れないよ。だってアナタのことはよく知ってるし、眠らせたところで得なんてないし、麻薬なんてそれこそ無意味だ。ボクは無意味なことが嫌いなの」


 何気なく言われたひと言に、片桐はロキを睨みつけた。


「俺のことをよく知ってる?」

「そうだよ?」


 簡単そうに返して、彼はようやく適温になったのか緑茶を啜る。


「片桐渉。三十七歳。両親は健在。妹が一人。優秀な子みたいだね。京大に行ったんだ。警視庁刑事部捜査一課のノンキャリア叩き上げ。検挙数は課の中でずば抜けて高く、結構周りからの風当たりが強い一匹狼。趣味は熱帯魚とランニング。ランニングコースは近所のアスレチック施設。好きな食べ物はお寿司。お酒はザル。大学を卒業した後に警視庁に入ったんだね。刑事より上に上がらないのはただ単純に面倒だから。現場が好きなのかな。

 ねぇ、何か間違えてる?」


 にこやかに、少年は問う。


 何でもない顔をして、片桐の経歴を述べる。


 ぞわりと肌が粟だった。


「なんで、おまえ、」


 掠れた声で問えば、ロキは何でもないことのように小首を傾げた。


「初めに言ったじゃない。ボクはこの国の頭脳だって」


 言った。確かに言った。言ったが、まさかそれが文字通りの発言だと誰が信じるだろうか。だって、だって目の前にいるのは年端も行かない少年なのだから。

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