オモイデ

 薄汚れた壁に、カーテンは黄ばんでいる。辛うじて清潔感は失われてはいないが、ここが一般の病院であれば、患者希望者はまず名乗り出ないだろう。

 チヒロは、そんな部屋の窓辺で、使い込まれた椅子に腰を下ろしていた。


 ――まるでネコだね。ちゃんとドアから入ればいいのに。


 あどけない少女の声が、今も聞こえるような気がする。こっそりと窓から忍び込んでくるチヒロたちを、少女はそう言って笑った。


 ――わたし、ここに来られてよかった。チヒロ君やシュン君たちに会えて、よかった。


 チヒロたちは知らなかった。少女の笑顔の裏にあったものに、全く気付かなかった。

 だから。


 ――わたし、退院できたら真っ先にお姉ちゃんに会いにいくの。チヒロ君たちにも紹介してあげるね。美人だから、きっと好きになるよ。でも、わたしのこと、忘れないでね。


 そんな、他愛もない雑談を装ったその言葉に、どれだけの気持ちが込められているのか、気付いたのはずっとずっと後になってのことだった。

 もう、取り返しがつかなくなってからの、ことだった。


 風にふわりと頬をぜられて、ふっと、顔を上げる。青い空を目にして、そっと目をらした。

 まるで、それを待っていたかのように扉が開いた。


「お兄ちゃん!」


 チヒロの姿を見つけた途端に目を輝かせた少女が、短い距離を駆けて抱きついてくる。

 その小さな身体を受け止めるために立ち上がったチヒロは、少女に続いて部屋に入ってきた無精ひげの男に目礼もくれいした。

 四十前後といった年齢に見える男は、無精ひげに切りそこねて伸びたような髪、しわだらけの白衣という、見事にだらしない格好をしていた。

 この男がこの施設の責任者であり、それは同時に、出世コースを外れているということでもあった。


「よお、この頃よく来るな」

「…ユキカがいるから」


 誤魔化すような返事にはそれ以上なく、男は、部屋の一隅で物に埋もれた机と対になった椅子にどかりと腰を落とした。

 いつから乗っていたのかわからないようなコーヒーカップを取り上げ、一息にあおる。


「どうだこの際、アサシンなんぞ辞めて、俺の助手でもやるか?」

「あ、いいなそれ! そうしたら、毎日お兄ちゃんに会えるね!」


 出会ったときとは比べ物にならない明るさのユキカの頭を撫でて、チヒロは、わずかに苦笑をこぼした。


「ユキカ。後で行くから、今は部屋に戻っていてくれないか?」

「ええー。…いいよ、わかったよ。絶対来てね!」

「――なついたもんだな」


 扉の向こうに消えたユキカの背を見送り、男は感心したように言葉をこぼした。


「どうだ、本気で考えてみないか?」

「何をですか」

「助手の話。ぶっちゃけたところ、お前だって今更どうにかできるなんて思っちゃいないだろ? セブンス唯一の失敗作なんて言われて、毎日毎日命懸けでコナユキに酔っ払っちまった奴らの相手して。心も身体もずたぼろになって、手前テメエもコナユキに手を出すのが関の山だぜ?」


 言葉の調子は軽いが、チヒロを見る眼差しは、思いのほか強い。

 トーコには友達がいないと言われ、実際、つるんで遊ぶような「友人」はいないチヒロにとって、もしかすると、この男が一番それに近いかもしれない。

 だからこそ、どれだけ心配してくれているかはわかるつもりだ。

 だがそれでも、そこに甘えてはいけないのだとも、思う。

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