『“あべし”って、何なんだろう』

 トントントントン。

 神哉しんやの持つ包丁が、まな板の上でニンジンをリズム良く切っていく。すでにジャガイモとタマネギ、パプリカ等の野菜は切り終わっていた。

 ニンジンを一本切り終えて、次に鍋を用意。IHコンロを中火にして油を馴染ませる。

 まず最初に炒めるのはタマネギだ。そこから他の野菜、肉の順に炒めていくことで最後の方にはタマネギが一番美味しい飴色のタマネギへと変化を遂げる。

 次に水を加え、具材が柔らかくなるまで煮込む。そしてルーを入れて、ここからはとろみが出るまでゆっくり混ぜる。

 神哉はこの時間が好きだ。ただただ黙ってカレールーを溶かす、何も考えずカレーの匂いに鼻腔をくすぐられるこの時間が、神哉にとっては至福のひとときのひとつなのである。

 当然この時、和人かずひと沙耶さやに多少なりとも傷付けられるようなことを言われているなんて露程も知らない。

 程なくして、カレーの匂いが部屋中に立ち込めてきた。と同時に、神哉宅の玄関ドアが勢いよく開かれ、大きな声と共に訪問者が一名。


「神哉くーん! 今日の夜ご飯はカレーですねそうなんですね!? 私カレーは大好物なんです! 大好きな物と書いて大好……は?」


 最後まで言いかけて、彼杵そのぎは固まった。

 その理由は、普段見ない新たな顔がソファに座っていたからだ。


「ちょっと、え!? なんであのサイコ野郎がここに!?」

「サイコ野郎はヒドいなぁww。僕は君たちにとって命の恩人なんだよw? 僕が自分から言うのも厚かましい感じがしてならないけど事実だし、すこーしくらい感謝の言葉があってもいいじゃないかーw」


 ソファに腰を下ろし、テレビを見るニタニタ笑顔の青年、平戸ひらど凶壱きょういちが彼杵に向かって口を尖らせる。

 三日前に起こった家具店強盗事件。そこで強盗団全員を倒した凶壱は、警察がやってくる前にそそくさと逃げようとする神哉と彼杵に、ついて来ようとした。

 当然、犯罪者であることがバレる可能性もあるわけで、何とか二人で凶壱を撒いたのだが……。


「ちょっと神哉くん!? 神哉くんも神哉くんでなんでそんなに冷静にカレー作りに集中してるんですかぁ!」


 キッチンに立つ神哉へ文句を言う彼杵。神哉はちょいちょいと指で彼杵を呼び、とたとた駆け寄ってきた彼杵の耳元で囁く。


「昨日コンビニ寄った時ばったり出くわしちゃったんだよ」

「神哉くんが珍しく外に出た日に出くわすなんて、不運過ぎる……! どうして家にまで入れちゃったんですか?」

「だって……コンビニの商品ヨダレ垂らしながら見つめてたんだぞ。なんか食わせてやりたくなるじゃん」

「んあぁぁ〜! 神哉くん詐欺師のクセに優し過ぎる! そこがまた好きポイントなんですぅ!」


 抱きついてこようとする彼杵の頭を押さえつけ、神哉はもう一段階声のボリュームを下げて言う。


「まあ安心しろ。俺たちが犯罪者だってことはバレてない。このまま隠し通して、んで今日はお帰りいただくぞ」

「了解ですっ! 一犯罪者、社会の敵として身分詐称に努めます!」


 彼杵はピシッと敬礼し、何事もなかったかのような表情で、L字ソファの突出した部分にちょこんと座る。凶壱と真反対の位置だ。


「改めて、以前はありがとうございました。お陰で命拾いしました」

「いいえ〜。人助けなんてガラじゃなかったけど、人に感謝されるってのはすっごく心地イイねw」

「あははー、そうですかねー?」


 人に感謝されるどころか訴えられるような仕事をしている彼杵は愛想笑いするしかない。

 比較的下手くそな愛想笑いではあったが、凶壱は大して気にしていない様子で口を開く。


「ところで、彼杵ちゃんw?」

「はい! 彼杵ですっ!」

「彼杵ちゃん、ジャ◯プ読んでるのw?」

「あ、あー! コレですか!」


 彼杵は凶壱の目線の先にあるものを見て察した。

 自分がついさっきコンビニで買ってきたビニール袋の中身が若干透けて見えている。と言うか、長方形の形から分かる人にはすぐ分かるだろう。

 何を隠そうそれは彼杵の愛読書、今週の週刊少年ジ◯ンプである。


「ちょっと見せてもらえないかなぁw? 最近は立ち読み防止のシールが貼ってあってなかなか読めなくってさーw」

「なるほどそういうことですか。もちろん全然いいですよー」

「ありがとうw。いやー、久しぶりだなぁジ◯ンプ読むのww。僕の記憶は炎柱が上弦の参にやられたところで止まっちゃってるんだよねーw」

「それはもったいないです! “鬼滅◯刃”はそこからが面白いのに。今一番面白いバトル漫画といっても過言ではありませんよ!」

「いやーでも僕の中でのジャンプのバトル漫画は一位は“めだかボ◯クス”だからさぁww。正直あれを超えるバトル漫画は僕的にはまだきてないねー。まあ“ニ◯コイ”とか“ToL◯VEる”みたいなラブコメも普通に好きなんだけどw。僕基本食わず嫌いだからさーw」

「め、“めだ◯ボックス”……!」


 その作品名を聞いて、何やら彼杵はわなわなと震えだした。驚愕のあまり、口をぱくぱくさせている。

 やがてハッと我に返ったと思いきや、唐突に凶壱に詰め寄り。


「平戸先輩!」

「うわーw。何ww?」

「“めだ◯ボックス”が一番に出てくるなんて、平戸先輩さてはかなりのジャンプ通ですね!?」

「そうなのかなぁw? 逆に僕、“BLE◯CH”とか“銀魂”みたいな王道ジャンプ作品は知らないんだよねー」

「うわっ! 私と一緒です! どちらかと言うと有名どころ読んでないタイプです!」


 その後、偶然にも共通の趣味が見つかった彼杵と凶壱は、これでもかとマンガについて語り合った。

 偶然か必然か、凶壱が口に出す作品は全て彼杵が好きな作品で、そのマッチング具合はまるでかのようだった。

 そして気付けば、神哉のカレーも完成間近。仕上げとして隠し味にインスタントコーヒーを入れているところだ。


「いや〜まさかこんなに話が合うとは思わなかったなぁw。久々にこんなに熱くマンガ談義したよw」

「同じように感じると書いて、激しく同感です! 私の知り合い、マンガ読まない人ばっかりでこういう話できる人全然いないんですよね」

「へぇ〜w。ちなみに彼杵ちゃんってお仕事何してるのww?」

「あ、私ですか? 私は泥ぼ、あべしッ!」


 泥棒、と言いかけてしまいそうになったところで、神哉がキッチンから投げた豪速のジャガイモが彼杵の横腹にクリーンヒット。

 マンガ談義に花を咲かせ過ぎたため、ぽろっと自分が犯罪者であることを言ってしまいそうになってしまった。彼杵は神哉からの鋭い視線を背後に感じながら、言い直す。


「わ、私、家の近くのコンビニでアルバイトしてます……!」

「そーなんだーw。その職場にマンガ好きな人が入ってきたら良いのにねw?」

「は、ははは。そーですね〜」


 背中に嫌な冷や汗を流しながらも、彼杵は愛想笑いで頷く。


「カレー、出来ましたよ」

「おっw。待ってましたーw!」


 神哉はこれ以上彼杵をひとりで対応させておくのはまずいと、いそいそカレーを皿につぎ分けてダイニングテーブルに運ぶ。

 すると食事が当初の目的である凶壱はソファから飛び跳ねるようにしてダイニングテーブルの席に着いた。続けて彼杵と神哉も腰を下ろす。


「じゃあ、いただきますっw!」

「いただきまーす……」

「召し上がれ」


 凶壱はスプーンを手に取り、カレーをガツガツ掻き込む。良い食べっぷりだ。流石はコンビニの商品をヨダレを垂らしながら見つめていただけのことはある。


「あぁ、焦った身体にカレーが沁みますぅ……」


 彼杵は彼杵でカレーをぱくつきながら涙を流しそうになっている。

 神哉は二人がそれぞれ美味しそうに食べているのを見て満足げに笑うと、自分もカレーを食べ始めた。


「神哉くん、料理上手なんだねw。もしかして、お仕事は料理人とかw?」

「いやぁそんな。俺の仕事はネット詐欺――」

「わぁぁあ! ジャガイモがゴロゴロだぁ! 私具材ゴロゴロカレー大好きなんです〜!」


 神哉のミスにいち早く気付いた彼杵が、立ち上がり、馬鹿デカい声を出した。それにより神哉の言葉は途切れ、事無きを得る。


「彼杵ちゃん突然どうしたのw?」

「あ、いえ……。どうぞお話続けてください」

「……俺は、投資で生計立ててます」

「あ〜w。なるほど道理でこんないい家住んでるわけだw!」

「まあ」


 曖昧に返事し、神哉はテーブルの下で彼杵の足をちょんと優しく蹴る。二人は顔を近付け、凶壱に聞こえない程度のヒソヒソ声を出す。


「おい、ヤバくないか」

「わかりますか神哉くん。あの人との会話は、なんかなんでもさらっと言っちゃいそうになるんですよね」


 そう。それは“つい”とか“うっかり”とか“無意識”とかではなく、ただ“なんか普通に言っちゃいそうになる”のだ。

 それが彼の元来持っている才能的なものなのか、もしくは意図して彼がやっていることなのか。まだ会って日の短い今この場では判断できない。

 その後も、何度か危うい質問や会話がありつつも、神哉と彼杵それぞれをお互いが庇い合いながら難を逃れた。

 凶壱がようやく帰るという頃には、二人とも疲弊しきっており、その顔は和人と沙耶にお宅訪問を遠慮させるほどだった。

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