第6話
それから半年の間、染谷は同じ状態だった。
俺は俺でやっと就職をすることが出来た。
あの『スモーク』を初体験した日に買った求人誌で見つけたバイト先で正社員が突然数人辞めたので、職場で唯一の二十代だった俺が何とか正社員としてもぐりこむことが出来たのだ。
俺としてもいつまでも非正規でいるわけにはいかなかったのでその誘いは渡りに船だった。
それに毎月買う『ハーブ代』も馬鹿に出来ない金だったので更に好都合だ。
「就職おめでとう、これでお前も立派な社畜だな」
と長い付き合いの友人でなければキツすぎる冗談を言いながら染谷は就職祝いだと言って酒を奢ってくれた。
その頃には染谷の精神状態は随分と悪化していて、時々会話の中に「死にたい」という言葉がチラホラと出てくるようになってきていた。
そんな染谷に俺は色々と『酔った』勢いもあってか「親友のお前が居なくなったら寂しいからやめてくれよ」と半笑いで止めていた。
それは真面目な顔で言えばそれがある意味染谷を追い詰めると本能的に察していたからだ。
それを聞くと染谷は照れくさそうに、でも少し困ったように「そうだな、もう少し頑張ってみるよ」とだけ答えてくれた。
だが確実に染谷は悪化しつづけていく。
ある時は「最近、時計の秒針の音がうるさ過ぎて寝れないんだ」と告白し、またあるときは俺との電話の最中に「お前の後ろから女の声が聞こえるんだけど、誰なんだ?」と質問してくる。
当然、そのときの俺は一人だった。
テレビさえつけていない。 そのあまりにも真剣な物言いに俺のほうがうすら寒い感覚を覚え、ゾッとしてしまった。
そしてついに染谷は決意した。
俺から言わせれば少し遅かったと思うところだが、この就職難の時代にそれを決めることは本当に勇気が言ったことだろう。
「仕事をもうやめることにしたよ」
あるとき、青いのを通り越して白くなった顔で俺の家にやってきた染谷は苦渋の顔で宣言した。
俺は驚かなかった。 その少し前からメンタルクリニックに通い、鬱病と診断されていたのを知っていたし、正直な話、近いうちに自殺してしまうだろうと予測していたからだ。
だが手放しに喜ぶほどに無責任でもなかった俺は、
「そうか、少し休んだほうがいいんだよ、お前は…」
素っ気無く言った後に飯でも食べに行こうと誘い、お互いにとことん飲み明かしたのだった。
それにしても肉体の傷と違い、心の傷というものは時間が立てば癒えるということは無いようだ。
非人道的な仕事を辞め、バイトとはいえ常識的な労働時間の仕事を始めてはみたが、染谷の容態は一向に良くならない。
良くならないどころか時期によっては悪くなることもある。
まさに引く波と寄せる波のように良い方に向かい、すると悪い方にも傾く。
一日で数日で一週間で会うたびにコロコロと心のバランスが代わっていく染谷を見てみると、殴りつけるよりも罵倒する方が時には人の人生を破壊できるようだ。
何の疑問を抱かず誰もが当たり前のように一片の罪悪も無くそうしている。
この年齢になって人の世の恐ろしさというものを垣間見た気がする。
それでも俺には『ハーブ』がある。
身体には決して喜ばしいものではなく、犯罪と悪辣のギリギリの分水嶺にあるものだが、合法である酒よりかは良いものだ。
まず第一にやりすぎて死ぬことは無い。
もちろん加減を間違えてパニックになることもあるが、落ち着いて深呼吸をしていけば数十分で戻る。
第二に重篤な中毒になることもない。
もちろん良いものならば嵌りきってしまい中毒にならないものなど無いだろう。
だが酒に溺れ、溺れ続けて沈み込んだ先、その行き着く果ての中毒と比べれば『ハーブ』中毒とはもちろん天国と地獄くらい違う。
俺の父親はアル中だった。
社会の不条理を飲み込み続けるにはいささか器が足りなかったようで、毎日酒を飲み、倒れても呑み続けついには肝臓を破壊してもなお呑み続けた。
その結果どうなったか?
壊れた肝臓が処理することの出来ない悪物は脳に回り、最後は自分が誰であったかすらわからず、病院のベッドで一個の人間としてすら終われず、ただの生き物として生涯を終えた。
だからこそ俺は酒を呑まない。
あまりにも見てきたものがひどすぎて一時の酔いに合法的に身を任せ続けることに魅力を持たないのだ。
だがこの社会で生きていくにはシラフでいつづけることは難しい。
だからこそ俺は『ハーブ』をやり続ける。
たとえこの先に破滅が待ちうけようとも。
それは明日死ぬ命を一年後に延ばすことだと同義かもしれないが、それでもはるかにマシだろう。
人間、いずれは死ぬのだから無駄だとも思えるかもしれないが生きてさえいれば笑い、楽しみ、もしかしたら何かを為すかもしれないのだから。
……詭弁だ。 それでもただただ何も考えず、何もせず、唯々諾々と死んでいくよりかは良いだろう。
俺はそう確信する。
だからこそ俺は一つの決断をしてみようと思う。
もしかしたらそれは悪辣な行いであり、親友に決定的な止めを刺すことになるかもしれない。
それでも…。 それでも何かが変わるのなら……。
蒼白な顔でぎこちなく笑う染谷を見ながらそう決心した。
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