第20話 形あるもの
十一月となり、この冬出すウインターメニューが続々と出来上がっていった。新メニュー開発に情熱を燃やす慶の隣で、みのりは味見係を任された。
「シチューのホットパイだ。今年の冬は例年以上に寒くなると予測されているから、うんっと体が温まるメニューを開発しないとな。さあ、食べてみてくれ」
「はい。いただきます」
パイ生地の中にアツアツのクリームシチューが入っている。みのりはサクサクとパイを崩し、シチューを一口食べた。
「あつっ……い、ですけど、すっごく美味しいです!」
「そうか、良かった。ああっ、舌火傷してないか? どら、私が確かめてやる。舌を出してくれ」
「い、いえっ……! 大丈夫ですっ!」
顔を真っ赤にして拒否するみのりに、嬉しそうに慶が笑った。そんな慶と目が合い、みのりの肩が跳ねた。つい二日前のハロウィンの夜の口づけが脳裏を過り、堪らなく恥ずかしくなった。紅潮する頬を隠すように、みのりは俯いた。
「ちょっと慶、みのりちゃんは今日お休みなんだから、いつまでも君に付き合わされたら可哀想でしょ? 君だって通常の仕事があるんだから、新メニューの品評会は夕飯にしたら?」
「ああ、分かっている。すまないな、みのり。残りは夕飯時にしよう」
「はい……」
どうにか声が出て、みのりがキッチンから出て行く。あれから慶だけではなく、雅の顔もまともに見られていなかった。夢の中で雅が発した言葉が頭から離れず、だからと言って彼ら兄弟が鬼のはずがないと、行き場のないモヤモヤがずっとみのりの心を曇らせていた。
「……もう少し自重したらどうなの?」
「自重? 私は恋人と仲良くしているだけだぞ?」
「そう、恋人……だったら猶更、人前でイチャつくのは止めて欲しいんだけどな。僕は良いけど、弟達が見るに堪えないと思うから」
「そうか。それは悪かった。これからは二人きりの時に思いっきりイチャつくようにするよ」
向き合うようにして作業する二人が、無表情で見つめ合う。ピリついた空気が流れ、そこにオーダーを通しに来た倖が入ってきた。
「こわっ! なんだよ、ケンカでもしてんのか……?」
「いや、そんなんじゃないよ、倖。ごめんね、オーダーは何?」
「ああ。アップルパイ、だけど……」
「分かった。すぐ作るね」
どこか表情を隠そうとする雅の様子に、倖は慶に視線を向けた。無言のまま仕込みをする慶に、兄達の不穏の空気を悟る。
ホールに出たみのりが店を出る間際、溌に呼び止められた。
「溌さん……」
振り返ったみのりの表情は暗く、すぐに目を伏せた。その様子に、「大丈夫か?」と溌が憂いの瞳で訊ねた。
「溌さん、私……」
そこまで言って、みのりは顔を上げた。無理やりにでも笑みを作って、「ちょっと出てきますね」と店から出ていった。
「のりピー……」
みのりは携帯に目を落とすと、送られてきた地図と住所を頼りに、電車を乗り継いで目的地までたどり着いた。目の前に広大な門扉が姿を現し、門柱には「竜胆」という立派な表札が掲げられている。監視カメラやセキュリティは万全で、インターホンに伸ばす指先が震える。ハロウィンの夜に新羅と交わした契約が蘇った。
(うう~、やっぱりムリだよっ……)
デザイナーの夢が復活したものの、やはり新羅の家でドレスを制作することには躊躇いが生じてしまう。大きく息を吐いたみのりは、門扉に背を向けた。
「……おい、ここまで来て引き返すつもりか?」
門扉が開き、そこから出てきた新羅に、ビクンと肩が跳ねる。
「あ、の……すみません、やっぱりこの間の件は……」
「今更反故になどしてやるか。この俺様と直に契約を交わしたんだ。何があっても最後まで貫き通して貰うぞ?」
「で、ですが、私っ……」
「お前、二回も火事に遭ってるくせに、生き残ったてめえに何とも思わねえのか? この間の火事でも何人か死んだんだろう? 十三年前の火事でも家族全員死んでるくせに、生き残ったてめえがこうしてうじうじ悩みやがって。死んでいった人間はもう何も出来ねえんだぞ? 生き残ったてめえとは違って、夢を見ることすら出来ねえんだ」
残酷にも聞こえる新羅の言葉に、みのりはぎゅっと唇を噛み締めた。
「この世に生かされて、何も遺さねえのか、お前は。生きた証も遺さねえような人生に何の意味もねえよ。ただ人形のように笑って生きて、それでアイツら兄弟に愛でられて、そんな人生がお前の幸せで良いのか? お前が作りたいもの、この世に遺したいもの、それがあるからお前は今日ここに来たのだろう?」
「わたし、は……」
「お前も生きているのならば、形あるものをこの世に遺せ」
ぐっと目を瞑って、みのりは顔を上げた。見下ろす金瞳が怖くとも、一歩前に踏み出す勇気を与えてくれたのは、紛れもなく、目の前に立つ男だった。
広大な敷地に日本家屋が広がり、母屋から離れた場所に連れていかれた。一軒の石造りの離れが姿を現し、周囲には木々や花々、池まであった。
「うわぁ、きれい……」
みのりが見惚れるように呟いた。新羅が離れの扉を開き、中に入るよう命じた。
「ほえー!」
中は高級旅館さながらで、落ち着いた和洋式の造りに暖色の照明、高級ソファ、ベッドまで用意されている。パソコンにデザイン画制作の為の机や、ポージング人形、テーブルには最新のミシンが置かれ、何種類もの裁縫カタログが積まれている。
「ここで作業するんですか……?」
「ああ。不満か?」
「い、いえっ、まさかっ……! けど、本物の旅館みたいで……」
「行ったことがあるのか?」
「な、ないですけどっ……! 社長さんのお家は旅館なんですか?」
「違えよ。ただ当主がこういうのが趣味ってだけだ。と言っても、ここには俺様と使用人しか住んでねえから、好きに使ってくれて構わない。必要な材料はネットで注文しとけ。届いたらこの離れに運ばせておくから」
「わかりました……」
既に何種類か型や布生地が用意されており、光沢あるシルクの触り心地に胸が躍る。
「すごい、本物だっ……」
意気揚々とするその表情に、ソファに座った新羅が人知れず吐息を漏らす。
「うわぁ! このミシン、自動糸調子がついているんですね! 私が持っているのは中古で買ったやつなので、自分で糸を通さないといけなくて大変だったんですよ。うわぁ、何だか新しい匂いがしますね! ボビンもピッカピカで眩しいなぁ~!」
子供のような反応を見せるみのりに、思わず新羅は笑みがこぼれた。それを偶然、みのりは目にした。
「ほえ? 社長さん?」
「ウウンっ……! いきなりこっちを見るな……」
赤面する新羅が顔を隠す。大きく息を吐いた新羅が、いつも通り険阻な顔を浮かべ、みのりの隣に立った。
「分かっていると思うが、俺様はお前の雇い主だ。お前が俺様に逆らうことは許さねえ」
「へ? ビジネスパートナーじゃないんですか?」
「フン、馬鹿な女だな。契約書をしっかり読んでみろ」
言われた通り、みのりは鞄の中から契約書の写しを出し、そこに書かれた文面を読んだ。
「そこにしっかりと書かれているだろう。乙は甲に対しmaster and servantの関係を結ぶこととすると。その英語の意味は、主従。つまり俺様とお前は主従関係にあるということだ」
「ええっ!? そ、そんな、大事な部分を英語で書くなんてっ……」
「契約を結ぶ時、その意味を聞かなかったお前が悪い」
「ううっ~」
「そういう訳だ。だからこれからは俺様のことは社長さんではなく、新羅様と呼べ。良いな、分かったか?」
「サマ付けはちょっと……」
「逆らうのか? お前が逆らう度に、アイツらへのリベートが減っていくぞ? 馬鹿な長男坊のせいで経営難なんだろう? それを救えるのはアイツらの人気でも料理教室でもねえぞ? お前がどれだけ俺様の言いつけを守ってドレスを作れるか、それしか挽回の道はねえんだ」
反論しようとしても、新羅を言いくるめることなど出来やしないと分かる。みのりは夢と今ある幸せを守る為、契約通りの関係を演じるしかないと心に決めた。
新羅が足を組み、ソファの肘掛けに頬杖をつきながら、デザイン画を描くみのりの背中を見つめる。酒宴を開いた夜に、酔っ払ったみのりから春姫の言葉が出てきた光景が蘇った。
『――それじゃあ、貴方が消えて下さい、桃太郎殿』
あれからずっと、その言葉ばかりに囚われた。千年前に手に入れた姫は、鬼に魅了され、その心を食らい尽くされてしまった成り果てだった。全ては姫の正気を取り戻そうとしてやったことだったのに、憎悪だけを遺し、彼女は愛する鬼を追って自ら命を絶った。今でも憎き鬼を退治したことは正義だと思っている。生まれ落ちる度に仲間と再会し、鬼との死闘を繰り返してきた中で、ようやく再び姫の魂と巡り逢えたことは、相手が自分をどう思っていようが、新羅にとっては待ち望んだ世だった。
「……こっちを向け、姫」
「姫……?」
振り向き様、みのりは両頬を引っ張られた。
「ひょふぇー?」
「フンっ……誰が消えてやるかよ。お前の全ては俺様が奪い尽くしてやる。今度こそ、俺様だけのものにしてやるよ」
獲物を射程距離に捉えた新羅が、これから始まる恋愛を想い、ドSに笑う。困惑するみのりの表情に口づけしようとして、「フン」と鼻で笑った。
「と言っても、同じ鉄は踏まんぞ。今度はたっぷり時間を掛けて、お前の心から奪ってやる」
腕時計に目をやった新羅が立ち上がったのを、みのりはポカンと見上げた。抓まれた両頬がヒリヒリしている。ようやく解放された心は、複雑な何かがねじ曲がっているようで、それでも触れられた頬が熱かった。
「あの……」
新羅の携帯が鳴る。発信者を見て、そっと息を吐いた。
「忙しいのは今も昔も変わらんか……。仕方ねえな。お前の心を奪うのはまた今度にして、俺様は仕事にでも精を出すか」
水を差されたにも関わらず、どこか上機嫌に見えた新羅に、みのりは心がほんの少しぎゅっと掴まれた気がした。
「ここにはいつ来ても構わない。俺様の了承を得る必要もない。だが、俺様が傍にいる時は、契約通り主従関係でいてもらうからな。何を命じられてもお前に拒否権はない。それだけは頭に入れてここには来い。それから、このことをあのクソ兄弟共に告げたら、来年のアイツらの誕生日は永遠に来ないものと思え」
「そんなっ、あの方達はっ……」
「良いな、全てはお前次第だ。アイツらを殺すのも生かすのも、お前が俺様をどれだけ満足させられるかに懸かっている」
そう不敵な笑みを残し、新羅は仕事へと向かった。一人きりになったみのりは、俄かに暗雲立ち込め始めた状況に、不穏に鳴る心臓を押さえた。新羅が何を求めているのかよく分からなかったが、ここに来る時はそれ相応の覚悟をせねばならないということだけは肝に銘じた。
ドレスのデザインを考えながら、鉛筆で着装させていく。その間も、頭に浮かぶ兄弟達の顔に、ぐっと涙を堪えた。
十八時を過ぎ、『ほおづキッチン!』に一組のカップルが来店した。出迎えた溌が彼女の顔を見るなり、一瞬で固まった。そんな溌の様子を怪訝に思った彼氏が訊ねる。
「あの、席どこでも良いんですか?」
「あっ、ああ……! はい、お好きな席へどうぞ……」
「じゃあソファ席に座ろうか」
そう言って、ソファ席へと向かうカップルの背中を見つめる溌に、「溌兄?」と倖が声を掛けた。
「どうしたんだ? 知ってる奴なのか?」
「……いや、なんでもねーよ」
呼び出し音が鳴り、溌がカップルの下へとオーダーを取りに行った。
「ベイクドチーズケーキとロイヤルミルクティーをお願いします。カズヤさんはどうします?」
「そうだなぁ、俺はー……俺もココと同じにするよ。すみません、俺も同じやつで」
オーダー票を持ちながら微動だにしない溌に、「あの、同じやつで……」と下から覗き込むように彼氏が言った。
「あっ、申し訳ございませんっ……。ベイクドチーズケーキとロイヤルミルクティーがお二つずつですね。少々お待ち下さいませ……」
ぐっとペンを握る手が強くなった。オーダーを通しにキッチンに入った溌が、丸窓からカップルの様子を覗く。怪しむ兄達によって両サイドを挟まれた。
「溌? どうしたの?」
「べ、べつに何でもねーよ!」
「怪しく客の様子を窺うことが、何でもないはずないだろう?」
「一体誰を見てたのかな? ……って、もしかしてあの子?」
「だっ、ちげーよ! 見んなっ! さっさと仕事しろっ、グズどもっ……」
「うん? ああ、あのカップルの彼女の方か。ほう、懐かしいな。あの子、お前の元カノだろう?」
「だああ! それを言うなっつんだよ、クソ次男っ……」
「ホントだぁ。懐かしいねぇ。溌の初恋の子じゃない。あの子で童貞捨てたんでしょ?」
ゴオオオオ……! と無言で殺気を高める溌に、「ごめんごめん、オフレコだったね」と雅が謝る。
「ほーう? やはりあの子とそういうところまで行き着いたんだな。だが悲しいかな、今ではそんな淡い思い出も、あの娘には綺麗さっぱり無いのだろう。これも私達に関わった人間の宿命だからな」
「っち、うるせーな……」
舌打ちした溌がキッチンから出て行く。バッシングの為、客が帰ったばかりの席を片づけ始めた。ちょうどそこからカップルの様子が窺えた。楽しそうに笑い合う二人に、テーブルを拭く溌は目を細めた。脳裏に、カップルの彼女――ココとの出会いが蘇る。それはまだ、溌が十一歳の頃、鬼に覚醒する前のことだった――。
溌、十一歳。小学六年生の春。
「――ええー、今日は転校生を紹介するー。入っていいぞ、如月(きさらぎ)ー」
担任に促され、私服姿の女子児童が教室に入ってきた。色白で長い髪を頭の上でお団子に結ぶその姿に、頬杖をついていた溌は見惚れた。教卓の前に立ち、転校生が挨拶する。
「はじめまして。如月ココです。長野県から引っ越してきました。都会の街にはまだきんちょうしますが、早くなじめるようがんばりますので、よろしくお願いします!」
にっこりと笑ったその顔に、溌はポカンと口を開けたまま、ココに釘付けになった。
「よし、それじゃー如月は一番後ろの席に着いてくれ。おい朝岡、当分はオメーが面倒見てやれ」
「はああ? オ、オレっ?」
はっと我に返った溌が取り乱した。
「オメーが隣の席だし、第一、学級委員だろーが。責任持って如月の残り一年の小学生ライフを順風満帆にしてやれ。あああと、オレのクラスでイジメが発生した場合には、当事者も傍観者も中学受験させねーからな。そのつもりで仲良くしやがれよ、クソガキども!」
(こんの不良教師めっ!)
「よろしくね、朝岡くん!」
「お、おお……。朝岡溌だ。よろしく……」
「はつくん? かっこいい名前だね!」
その笑顔に、溌の赤い実が見事はじけた。
初恋――まさしくそうだったと、テーブルを拭き終えた溌は思った。楽しそうに会話するココの横を通り過ぎ、使用済みの皿をキッチンへと運ぶ。
「はい、ベイクドチーズケーキとロイヤルミルクティーが二つずつ。彼女達のオーダーでしょ?」
「ああ……。悪い、ゆきんこ。オメーが運んでくれねーか?」
「え? お、おお、いいけど……」
「オレが食器洗うから」
「溌兄……」
思い詰めた様子の溌に、三人が顔を見合わせる。食器を洗いながら、再びココとの思い出が脳裏に浮かんだ――。
「――ねえねえ溌くん! 溌くんって、昔有名だった女優さんの息子ってホント?」
学校帰り、いきなりココから振られた話題に、「えっ……」と言葉が詰まった。
「……お、おお。そうなんだよ……」
「すごいねー! じゃあさ、やっぱりおウチにお手伝いさんとかいっぱいいるの?」
「いや、いねーよ! 女優だったっつっても、億稼げるほどの実力があったかっつったらビミョーなラインだったらしいからな。ウチは弟が生まれてすぐ両親が離婚して、今はほとんど父親からの養育費で食ってる感じだからな。それでもまー、教育熱心な母親だぞ」
「そうなんだ~! ねえ今度、溌くんのおウチ行ってもいーい?」
「あー……ウチは男ばかりだからなー」
「弟くんの他にもキョーダイがいるの?」
「おお。アニキが二人いるよ」
「じゃー四人兄弟?」
「そう。だから毎日うるせーし、来てもアニキ達のオモチャにされちまいそうだからなー」
「行きたい行きたい! ねー、今から行ってもいーい?」
「今からかっ? そーだなー……じゃー、ちょっとだけな?」
「うん!」
ココを自宅へと連れて来た溌に、「あらまあ! 可愛らしい子ね!」と母親――美和が喜んだ。そこに中学三年生の慶(紺色の学ラン)と高校二年生(深緑のブレザー、赤ネクタイ)の雅も学校から帰宅してきた。
「あれ? もしかして溌のカノジョかな?」
「なっ、ちげーよ!」
「良いなぁ、小学生。ランドセル姿が可愛すぎるな」
「やめろ変態。変な目で見るなっ」
「うわぁ! お兄さん達、かっこいい制服ですね!」
「そうでしょう? 二人とも黎王學(れいおうがく)苑(えん)の生徒なの」
「れいおう……? あの世界一頭のいい学校の?」
「いや、世界一は言いすぎだ。まー、日本のトップ3くらいのレベルな」
「あら溌、そのトップ3の学校にあなたも来年入学するんでしょ?」
「オレはー……」
「にいちゃん」
そこに小学二年生の倖が入ってきた。
「ゆき……」
「あら倖、あなた学校の宿題は済んだの? この間のテストの点数も悪かったんだから、ちゃんと毎日勉強しないとお兄ちゃん達みたいになれないって言ってるでしょ?」
「う、うん。ごめんなさい……」
「うわー! かわいいね! ゆきちゃんって言うの?」
「ぼく、ゆきくんだよ!」
「うわー! かわいすぎだよ!」
ココが小さな倖を抱き締めた。
「なんだこの小動物達はっ……! 可愛すぎて堪らんっ」
「だから変な目で見るなつってんだろ! おい如月、オレの部屋行くぞ!」
「う、うん……!」
無理やりココを連れ出し、自分の部屋へと上がった。勢いだけでここまで来てしまったことに、二人きりになってから後悔した。沈黙を破るように、ココが笑い始めた。
「ど、どーしたんだよ?」
「ふふっ、ごめんね。みんながちがうからおもしろくてっ……」
「ちがう? オレとアイツらが?」
「うん。だって一番上のお兄さんは優しそうで、二番目のお兄さんは面白くて、ゆきちゃんはかわいいから。そんな兄弟の中じゃ、溌くんが一番しっかりしてそうだなーって思って」
「なんだよ、それ。……でも、オメーの言う通りなんだよな。ホント、オレがしっかりしなきゃ、ウチはすぐにでも家庭崩壊しそーだしな」
「溌くんってホント、お兄ちゃんタイプだよね。クラスじゃ学級委員だし、テストもいつも百点だし、運動もできる。そんな溌くんに面倒見てもらえて、ココね、毎日楽しーよ? 溌くんのクラスに転校してこれて本当によかった」
「如月……」
「ねー溌くん。これからもココのそばにいてくれる?」
不安そうに見上げるココに、溌は意表を突かれた。「お、おお……」と赤面しながらも答えた。
「ホント? ずっとだよ? ずうっとココのそばにいてくれる?」
「お、おおよ! オレがずっとそばにいてやるよ!」
「じゃー約束しよ! ずっと一緒にいようね!」
差し出された小指に、「おお、約束な!」と溌も自分の小指も絡ませた。そんな甘酸っぱい約束をした夜、何の前触れもなく鬼に覚醒した。一気にそれまでの記憶と人生が蘇り、雅と慶の前で放心状態のままに泣いた。
「……あに、うえ……?」
「お帰り、溌。まだ戸惑うことも多いだろうけど、少しずつ今代の人生にも慣れていくと思うから」
「私もお前と同じ年くらいに覚醒した。大丈夫だ。今代の『邂逅』の時まで後十年はある。ゆっくりと自分が鬼だということを受け入れていけば良い」
「ああ、分かってる……。けどオレはまた、鬼なんだよな……」
食器を洗い終えた溌が、その場に項垂れた。
自分が鬼だと受け入れるのに、左程時間は掛からなかった。その後の人生も朝岡溌として生き、中学入試も無事に合格を勝ち取った。中学、高校と男子校の黎王學苑で過ごすも、ココとの交流は続き、それはいつしか彼氏彼女の関係へと発展していった。離別の時がいつか訪れると分かっていながらも、その関係を固持しようとする自分がいた。関係が深まり、思い出が増えていく前に、別れることが互いの為だと分かっていても、どうせココから朝岡溌の記憶がなくなってしまうならばと、結局医大生になってからも別れられずにいた。
ココの二十歳の誕生日に、お揃いのネックレスをプレゼントした。形あるものが残ってしまうことは良くなかったが、それでもこの関係が無に帰す前に、ココと自分が繋がっていたという証が欲しかった。その日の夜、ココにせがまれて、初めてラブホテルに入った――。
「――なあ、やっぱりまた今度にしねーか?」
緊張を隠しきれない溌が、ベッドの上で顔を隠しながら言った。
「イヤ。ココは今日じゃなきゃヤダもん」
「……っ、あ、のさ、こういうことは、もっと大事にっ……」
急にココに抱き付かれ、行き場のない両手が宙に浮いた。心臓が飛び跳ね、ココの温もりに体が熱くなった。
「……ココは溌くんじゃなきゃヤダもん。大好きな溌くんだからココの大事なハジメテを捧げるんだもん」
「ココっ……。くっ……、オレな、オレ実はっ……」
泣くのを必死で堪えた。いつか来る離別の時がすぐそこまで迫っていた。関わった人間の記憶から自分が消え去る瞬間が、後少し、ほんの少しで訪れる。そう思うと、ココの大事なものを奪う訳にはいかなかった。
「約束、したよ? ずっとココのそばにいてくれるって。ずっと一緒にいてくれるって約束したもん!」
ココが、プレゼントしたハートのネックレスを握り締めながら言った。泣きじゃくるその姿に、溌もお揃いのネックレスを握り締め、必死に堪えた。
(くそっ……。なんでこうなるって分かってたのに別れなかったんだ。こんな悪戯に想いばかり募らせて、いつか終わりが来るって分かってたのにっ……)
「……ココ、オレな、オメーのこと……」
一層、嫌われてしまった方が楽になれると開き直った。ココに軽蔑される言葉を探した。
「ココはね、何があっても、溌くんのことが大好きだよ。ずっとずっと溌くんだけが大好き……」
その言葉に、溌の理性が飛んだ。
鬼だとか人間だとか、そういった柵がある中でも、出逢って恋をして得た愛は本物だった。初めて体を重ねてから一年余りで店を出すことになり、それと同時に関わってきた全ての人間から自分達の一切の記憶を消し去った。ココから記憶を奪う時、溌は意外にも冷静だった。鮮やかなまでに見知らぬ他人同士になった二人を見て、雅から「寂しくないかい?」と訊ねられた。ただ一言、「いや」とだけ返した溌は泣きもせず、『ほおづキッチン!』の開店準備に全精力を注いだ。
「……溌、彼女もう帰るみたいだよ?」
「そうか……」
ホールに出た溌は、席を立ったカップルの会計を倖に頼んだ。
「いいのかよ、溌兄。もう逢えねえかもしれねえんだぞ?」
「逢わねー方が、互いの為だろ?」
そう言って、溌がソファ席のバッシングに入る。
「溌兄……」
レジに向かったカップルの男が、「俺、車取ってくるな」と言って店を出た。残されたココがレジで会計する。今日最後の客だった。
テーブルを拭いていた溌は、ココが座っていた席に光る物を見つけた。それは見覚えのあるネックレスで……。
急いで溌が店を飛び出した。
「溌兄……!」
慌ただしい溌の様子に、二人の兄もその行く末を見守った。
「待って……!」
店を出たココを溌は呼び止めた。ほんの少しの距離でも息が上がり、動悸が激しくなる。振り返ったココが首を傾げた。
「コレ……あなたの……」
そう言って、溌の手からハートのネックレスが出てきた。
「あっ! すみません、いつの間に?」
首元を探るココの姿に、ぐっと溌が唇を噛み締める。どうにか気丈に振る舞って、ネックレスをココに手渡した。
「ありがとうございます。とっても大事なものだったので」
「え……?」
「いつ誰に貰ったか忘れちゃったんですけど、大事なものだってことは覚えてて。何となく、これをくれた人は私のことを大切に想ってくれてたんだろうな~って、すみません、変な話ですよね? ネックレスありがとうございました。チーズケーキもミルクティーもとっても美味しかったです。また来ますね」
そう言って笑顔を残し、ココが再び歩き始めた。その背中を見送る溌が俯いた。
「溌兄?」
倖が後ろから声を掛けた。
「……アイツ、変な男に騙されてねーかな……」
「男が車取りに行く前に、ちゃんと金、渡してたぞ?」
「そっか。よかったっ……」
溌の背中が小刻みに震える。その後ろ姿に、倖が溌のシャツを掴み、言った。
「泣くなよ、溌兄ぃ……」
「バカヤロー、泣いてねーし」
そうして二人で泣く弟達を、外に出てきた二人の兄が挟んだ。
「二人ともイイコイイコ」
「可愛い弟達よ、さあ兄の胸の中で泣くが良いっ!」
「だから泣いてねーって言ってんだろ!」
「キモいんだよっ、慶兄!」
そんな四人兄弟の下に、月明かりが優しく落ちてくる。
夕飯に並んだウインターメニューの試作品の数々に、帰宅したみのりの表情が明るくなった。リビングで経理業務をしていた溌の首元には、ハートのネックレスが下げられている。それにはたくさんの思い出と、記憶、それから大事な想いが込められていた。
「溌さん、お夕飯ですよ!」
「ああ。今行く」
記憶を奪ってもなお、執着する想いこそ愛――。それを強く実感した溌の様子に、雅は人知れず自分を模った人形に目を落とした。
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