第16話 キモチ



 週末デー1日目の金曜日。

 今日から始まる雅と慶の料理教室は、SNSでも話題となり、早いもの勝ちで生徒の座を勝ち取った女性以外にも、店内には多くの見物人達が押し寄せた。

 十二時から十四時のドルチェ教室では、雅が若い生徒達から熱い視線を向けられ、手取り足取り教えるその姿に、周囲からも「ワー!」「キャー!」などの黄色い悲鳴や、「変わってよ!」などの羨望や嫉妬の声が上がる。キッチンの丸窓から覗く見物人達の間をどうにか割って入り、仕事復帰したみのりが、オーダーを通しに来た。

「慶さん、ヴェネルディ(金曜日)・フライランチが二つ、オーダーです!」

「了解!」

 ふとみのりは、キッチンの奥の教室に目を向けた。雅が女性達に囲まれ、穏やかな表情と優しい口調で、ティラミスの作り方を教えている。その様子を見つめるみのりに、「気になるか?」と慶が訊ねた。

「そうですね……。でも、生徒さん達が楽しそうで良かったです」

 にっこりと笑うみのりを、慶は訝しく見た。

「そう、か……」

 ホールで呼び出し音が鳴り、みのりが慌ただしくキッチンから出て行く姿を目で追った。

(兄さんではなく、生徒の方を見ていたのか……?)

 生じた違和感に、慶は楽しそうに笑う兄に目を向けた。

 

 十五時から十七時は慶のディッシュ教室で、こちらもまた、慶人気によって、若い女性達が生徒として訪れた。その中に、一際目を引く煌びやかな女性がいた。

「……? って、ひいさまっ!」

「声を押さえよ、慶翔けいしょう。妾が鬼の姫じゃと露見せぬよう、地味な装いで来た苦労が、水泡と帰すじゃろうが!」

「地味っ? 虎の毛皮エプロンのどこが地味なんだ?」

「何じゃ? おろしたてなのが気に食わんのか?」

 黄鬼の里では、古来より虎と共に生きている。

「もう黄鬼怖いっ」

「狼狽えるでないわ、慶翔! 人間の小娘どもが、唖然としとるではないかっ! 良いか、人間の前では妾を、ハナさんと呼ぶが良い!」

「し、しかしっ……!」

「なに。妾も料理なるものくらい出来るようにならねば、いつまでも鳳凰ほうおうの心配性が治らんでなぁ。そなたのいたりあんとやらを学べば、あの者も、幾らか己が為の時間も増えようぞ」

「鳳も苦労性だからな……」

 華姫の従者である巻廼条まきのじょう家のおおとりの苦労を、慶はどこかで共鳴していた。気を取り直して、慶は生徒達の前に立った。本日のメニュー、アクアパッツァの作り方の手順を説明した後、実践に移った。

「では魚の下処理からしていきましょう。本日はタラを使います。まずタラの鱗を包丁で――」

「こうか?」

 スパンとタラを真っ二つに切った華姫に、「ハナさんんん!」と慶が驚愕の声を上げる。

 そんな状況を、溌が横から傍観していた。

「ひいさま、一番に慶りんのディッシュ教室の予約を入れたからな。ありゃあ、毎回参加するぜ?」

「まあ、華も自立したいんでしょ。鬼族の姫として崇められる毎日に、いい加減嫌気が差したんだよ。それよりも、倖の方は大丈夫? 二日酔いがまだ、抜け切れていないんでしょ?」

「ああ。一日に何回も吐きやがるから、もう上がらせた。ったく、なんでコーラなんかで二日酔いになるんだよ、あのバカは。トータルじゃあ、千八百歳の鬼だぜ? つってもまだまだガキか。無理して飲む必要なんてなかったっつうんだよ。それなのに、あのキジヤローが、バカみてーに飲ませまくりやがるから……!」

「彼は昔からうわばみで有名だったからね。倖はコーラがアルコールと同じ反応になっちゃう鬼だからね。君や慶とは違って、次の日に残っちゃうタイプだし、これからは、もっと気を付けてあげないとね」

「そーだな。つーか、のりピーもあれで残らねーのな。昨日はあの後、朝まで寝てたみてーだし、案外、酒が抜けるのは早えーのかもな。つっても、記憶がほとんど残らねーくらい、飲んじまったみてーだけど」

「そう、だね……」

 そう言って目を伏せた雅の顔を、溌は、じっと見つめた。

「ミーボー、なんかあったのか?」

「ん? 何にもないよ。どうして?」

 笑い顔を浮かべる雅に、「いや、何となく……」と溌が口籠る。

 ディッシュ教室では、慶が他の生徒のフォローに入っていた。

「先生、上手く魚のお腹に包丁が入りません」

「ああ、魚のお尻の穴に包丁を入れて……そう、そのまま頭の方へと包丁を滑らすように……そう、とてもお上手ですよ」

 慶の笑顔に、女子大学生の生徒が惚けた。それが気に食わないのか、華姫が新しく取り替えた魚の頭を、スパンとちょん切った。

「そっちはまだ早いですよ、ハナさん!」

 結局、華姫が暴走しないように、慶の見本として一緒に作っていくことになった。慶ファンの生徒達にとっては、不平不満が残る今回のディッシュ教室の失敗を、慶は一番に感じていた。

 生徒が自ら作ったアクアパッツァを持ち帰る為にトレーに入れる作業中、慶が小さく吐息を漏らした。

「何じゃ。何を落ち込むことがあるのじゃ?」

「いや、落ち込んではいないが……」

 そう言って目を伏せる慶に、華姫がパチンと指を鳴らした。その瞬間、生徒達の心に渦巻いていた嫉妬や苛立ちが消え、来た時同様、ただ慶に憧憬の眼差しを向ける気持ちが、その場に溢れた。

「慶先生、今日はとっても楽しかったです! 次回のディッシュ教室もまた予約出来るよう、頑張りますっ!」

「お料理されている御姿、素敵でしたわ、慶サマ! まだまだ色々なイタリアンを教えて下さいね!」

 きゃっきゃと色恋の情慕が溢れるキッチン内に、慶は困惑した。

「まさか、ひいさま……」

「妾はただ、小娘らに気持ちを与えたに過ぎぬぞ?」

 つーんと扇子で口元を隠し、華姫がそっぽを向いた。

「小娘らが嫉妬などという醜い感情を残したところで、妾には何ら関わり無いが、それでこの教室が誹謗されるのも癪じゃからのう。それに、与えたと言うても、元より小娘らが抱いておった感情を思い出させたに過ぎぬ。左程の罪でもあるまいて」

「だが……」

「何じゃ、文句でも言いた気じゃのう、小童。じゃが、妾よりも、そなたの兄の所業の方が、余程罪深いわ」

「兄さんの所業?」

「気持ちを与えるよりも、奪う方が、余程鬼畜の所業と言えよう?」

「まさか……」

 キッチンにオーダーを通すみのりが、笑って雅を見上げている。そう、笑って。ただ、笑って。そこにあるべき感情は、気持ちは、どこにも見当たらない……。


 ネットでは次々と『ほおづキッチン!』の料理教室の感想や、写真がアップされ、瞬く間に次回開催予定の教室受講希望者が名乗りを上げた。そのような状況に、運営側の溌は、自宅のパソコンの前で頭を抱えた。

「溌さん? どうされたんですか?」

 夕飯をテーブルに運ぶみのりが、ひょいと顔を出した。

「ん? ああ、思ってた以上に料理教室が好評だったみてーでな、出来ればそれぞれの定員を増やして欲しいっつう要望がホームページにも多く寄せられたから、どーしたモンかと思ってな」

「ほえ? 増やせないんですか?」

「どーしてもスペースが足りねーからな。これ以上人数を増やすと、作業の効率も悪くなるし、衛生面でもな、調理するキッチンとは離れているとは言え、あまりキッチン内に多く人を入れるワケにもいかねーし」

「他の場所でするとしても、そうなれば次は、万一の時に雅さんと慶さんが動けないですもんね。うーん、だったらこのまま定員五名を貫くしかなさそうですね」

「やっぱそうだよな。それに、これ以上ミーボーが若い女からキャーキャー騒がれたら、のりピーだって、イヤだろ?」

「へ? 私、別になんとも思わないですけど?」

 その反応に、パチパチパチと溌が瞬きする。

「……ん? なんとも思わねーのか? 今日だって、結構ミーボー触られてたぞ? いくら仕事つっても、限度があるだろ? ヤキモチとか、焼かねーのか?」

「ヤキモチ、ですか……? 私が雅さんの生徒さん達に?」

 純粋に困惑する表情を浮かべるみのりに、溌は、思いっきり眉を潜めた。

「みのりちゃん!」

 リビングに入ってきた雅が、みのりを呼んだ。笑って振り返ったみのりに、雅がおかゆを乗せたトレーを渡した。

「ごめんね、みのりちゃん。これを倖の部屋まで持っていってくれるかな?」

「おかゆですか?」

「うん。まだ二日酔いが抜けてないみたいだからね。お夕飯も固形物は食べられないだろうし。それに僕達が持っていくよりも、君の方が倖も喜ぶだろうからね」

「分かりました」

 にっこりと笑っておかゆを倖の部屋まで運ぶみのりを、何でもないかのように雅が笑って見送る。そんな兄の姿を怪訝に見る溌。素知らぬ顔でパソコン画面に目を向けた。

「……教室の方は好評だったみてーだぞ」

「そう、良かった! 生徒のみんなも喜んでくれたし、僕も楽しかったよ!」

「そーか。……けど、あんまり慣れ合い過ぎると、変な誤解も生じちまうぞ?」

「んー? ああ、そうだよね。生徒の子達と親密になっちゃうのは良くないか。……大丈夫だよ。ちゃんと一線引くし、僕もカワイコちゃん達を相手に出来る程、若くもないからね。いやー、二十七って言っても、もうアラサーだもん。一気に五人相手に出来るほど――」

「オイっ!」

「ごめんごめん、ジョーダンだってばぁ! 怒らないでよ、はちゅう」

「暑苦しーんだよっ」

 抱き付いてきた雅を突き放した溌が、ふいっと顔を反らした。

「……誤解が生じちまうのは、生徒の方じゃなくて、オメーのカワイコちゃんの方なんだがな」

「ん? 僕のカワイコちゃんて誰のこと……? ああ、もしかして、みのりちゃん?」

 その名前に溌が顔を上げた。じっと兄を見つめる。ふっと雅が笑った。

「彼女は僕のものじゃないよ? 今は誰のものでもないけど、……もしかしたら君のものになるかもしれないね、溌」

 眉間が動いた。溌が確信に迫る。

「……オメーまさか、のりピーから〝キモチ〟を奪ったんじゃねーだろーな?」

「んー? 何のこと?」

「すっとぼけんな。アイツからオメーを想う〝キモチ〟を奪ったんだろ? オメーへの愛情もヤキモチも失くして、それでアイツが幸せになれるとでも思ってんのか?」

「まるで人間みたいなことを言うんだね、溌」

「なんだと……?」

「僕達は鬼じゃないか。極悪非道な鬼。そんな鬼を信じちゃったばっかりに、彼女は憎悪だけを残して死んでいった……」

「何言ってんだ? ミーボー?」

 背中を向けた雅が、ズボンのポケットに手を入れた。その中に入っているものを、ぎゅっと握り締める。大きく息を吸った雅が、振り返って笑った。

「彼女が好きなら、君が幸せにしてあげたら? 鬼の矜持を捨ててまで人間になりきれるなら、わざわざ人間として生まれてくる意義も見いだせるだろう? ……まあ、今もあの子のことが忘れられない君には、無理だろうけど」

 そう言ってリビングから立ち去る雅を、無言のままに溌は見つめた。


 倖は起き上がると、二日酔いの鈍痛が響く頭を押さえた。

「大丈夫? 倖くん」

「ああ、なんとかな……」と言うものの、まだ顔色は悪い。

「はああ。コーラなんかで二日酔いとか、カッコ悪ぃ……」

 撃沈する倖の様子に、みのりはその背中を擦った。

「ほげっ!」

 瞬時に背筋が伸び、体が硬直した。倖がカチカチになった顔を、みのりに向けた。

「どうかな、倖くん。少しは気分が良くなりそう?」

「お、おお……」

 余りの可愛らしい表情に、倖は顔を真っ赤にして気持ちを抑えた。背中に感じる温もりが、遠い過去に与えられたものと一致した。その脳裏に、幼い自分の頭を撫でる春姫の姿が浮かんだ。

「それじゃあ、おかゆ食べられそうかな?」

「お、おおっ」

 回想が消え、目の前で微笑むみのりが、スプーンを向けてきた。

「はい、アーン」

「えっ、いやっ、おれっ、ひ、ひとりで食えるしっ……!」

「ううん。私が食べさせてあげたいの。……私ね、火事に遭って、親戚の家を転々としている時も、こうやって誰かを看病するなんてことがなかったんだ。自分よりも小さい子達がいたけど、近寄ることも許してもらえなかったし……」

 悲哀の瞳を浮かべるみのりに、倖は言葉を詰まらせた。

「でも今はこうして倖くんの看病をしてあげられるから。何でもないことでも、こうして誰かの傍にいられるって、すごく幸せなんだよ」

「……そう、だな。俺もオマエの気持ち、よく分かる。俺も散々キツイこと言われたり、理不尽なこともされたりしたから……。けど、俺にはいつも、兄貴達がいたからな。一人じゃなかった」

「うん! 素敵な兄弟で羨ましいな」

 微笑みの中にも、一線引こうとする隔たりを感じて、さっと倖はスプーンを持つみのりの手を掴んだ。

「ほえっ? 倖、くん……?」

 目を丸めたみのりに、「あっ、いや、わりぃ……!」と慌てて倖は手を離した。手の甲で熱が集まる顔を隠す。

「お、おまえも、かぞくみてーなモンだって、おもってるし……」

 生唾を飲む姿に、「倖くん……!」と、みのりが嬉しそうに微笑んだ。

「お、おれだけじゃなくてっ、兄貴達も、そう思ってると思う……」

 小さくなっていく声でも、「ありがとう」とみのりは笑った。その様子に、倖は顔を赤らめながらも、みのりの「アーン」を受け入れた。楽しそうにみのりが倖を介抱する。

(コイツの初めての「アーン」は、俺なんだからなっ……)

 ほんの少しの優越感でも、兄達に先んじてみのりを独り占め出来ることに喜びを感じた。


 一日の終わりに裁縫をすることが、みのりの日課となっていた。カードサイズの人形を縫いながら、新しく出来た家族に胸を馳せた。先程の倖の言葉が堪らなく嬉しかった。

(かぞく、カゾク、家族……!)

 その響きだけで、幸福な気持ちに包まれた。先週から作り始めた自分を模った人形が完成し、その表情を見る。幸せそうに笑うそれの手を握って、年甲斐もなく人形遊びを始めた。

「やあやあみのりちゃん、きょうもしあわせないちにちだった?」

「うん! とっても幸せだったよ!」

「おりょうりきょうしつも、せいこうしたの?」

「うん! この調子でお店の利益が上がれば万々歳だよ!」

「そうだね! きょうもみんな、かっこよかった?」

「うん! みーんなかっこよかったよ! ああでも、倖くんが二日酔いでダウンしちゃったんだ。それでね、生まれて初めて看病してあげたんだよ。そしたら、私のことを家族だって言ってくれたの」

「そっかー! よかったね、みのりちゃん! ずっとかぞくがほしかったんだもんね!」

「うん! ……でもね、今日溌さんに言われたの。ヤキモチ焼かないのかって」

「やきもち……?」

「うん。雅さんがドルチェ教室で女の人達に囲まれて、ヤキモチ焼かないのかって聞かれて……。ねえ、ヤキモチってどんな気持ちなのかな? 私ね、今まで誰も好きになったことがないから、分からないんだ。でもね、私、本当に何にも感じなかったの。それなのに、どうして溌さんは、そんなことを言ったんだろうね……?」

 みのりは人形を握った。部屋の外に出て、目の前にある雅の部屋のドアを見た。何の心の昂りもない。平静な鼓動に首を傾げた。掌の人形に向かって、言った。

「……やっぱり分からないや」

 そんなみのりの様子を、慶は自分の部屋の前から見ていた。

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